PARA☆DO! 〜その先の自分(ヒーロー)へ〜

毎週水曜 よる10時54分 放送

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2016年12月

12月28日(水)

廣瀬 悠・順子夫妻

(柔道)

リオパラリンピックに夫婦揃って出場した柔道の廣瀬 悠・順子夫妻が登場。
この大会で、妻の順子はパラリンピック女子柔道界にとって初のメダルとなる銅メダルを見事獲得、それはまさに夫婦で勝ち取ったメダルだった。
二人は視覚障害者柔道の合宿で知り合い2015年に結婚。誰とでも明るく接する悠さんの性格に惹かれ、順子さんからプロポーズを決行。そして、二人は支え合い、同じ夢を目指し、夫婦でリオの夢舞台に立って見事に結果を出した。しかし、二人とも決して満足はしていない。二人の挑戦はすでに次のTOKYO2020へと向かっていた。近くの練習場を借りて二人で組み合う日々、組み合った状態から始める視覚障害者柔道は、わずかな手の動きから相手の動きを読み取り瞬時に技を仕掛ける。普段は仲のいい二人だが、柔道をしている時は表情が一変。「お互い、自分には甘いけど他人には厳しいんですよ」と夫の悠さんは笑いながら語る。もともと二人は小学生時代から柔道をしていた経験があり二人は目が不自由になってからも、自分に自信の持てることをしたいと再び柔道に取り組み始めた。辛い練習や過酷な筋肉トレーニングも二人で乗り越えてきた。「二人になってから、今まで嫌だったことが好きに変わった」と順子さんは語った。2020年東京パラリンピックでの目標は「夫婦でメダルをとること。」二人だからこそ、お互いを刺激し合い、より高みを目指し歩んでいける。

廣瀬夫妻 2015年12月 結婚
廣瀬悠(ヒロセ ハルカ)
1979年7月17日生まれ 37歳 愛媛県出身 伊藤忠丸紅鉄鋼所属
小学2年生の時に柔道を始めるが、高2の時に緑内障が発覚し徐々に視力が低下。
医者からは柔道止められるも、柔道が続けたいと視覚障害者柔道を始める。
2008年北京パラリンピックでは柔道男子100kg級5位
2016年リオパラリンピックでは柔道男子90kg級9位
廣瀬順子(ヒロセ ジュンコ)
1990年10月12日生まれ 26歳 山口県出身 伊藤忠丸紅鉄鋼所属
大学時代に成人スティル病を発症。その後病気は完治したが、その影響で視力を失う。
柔道は小学5年生からはじめ、視覚障害柔道は21歳のときにはじめた。
2016年リオパラリンピック柔道女子57kg級銅メダル

12月21日(水)

加納慎太郎選手

(車いすフェンシング)

“パラ界一のイケメン”と言われる車いすフェンシングの加納慎太郎選手が登場。
加納選手は16歳の時、バイク事故で左足を切断する。その後、小学生の頃から習っていた『剣道』の経験を活かせると思い、知人の勧めで28歳で『車いすフェンシング』をはじめる。今年の春から「ヤフー株式会社」へ入社し、2020年の東京パラリンピックでのメダル獲得を目指して日々練習に励みながら、競技と仕事を両立させる日々を送っている。
取材に訪れた際、加納選手は一人の少年と剣を交えていた。その少年は加納選手と同じように「剣道経験者」だった。『車いすフェンシング』はまだ始めたばかりだが、始めたばかりとは思えない剣さばきで加納選手に攻撃を仕掛けていく。加納選手は、少年の攻撃を何度も剣先でそらし、次の瞬間攻撃を仕掛けポイントを奪った。一瞬にして決着がつくように見えるフェンシングだが、そこには実に、高度な駆け引きと剣さばきの技術が要求される。少年に熱心にアドバイスをする加納選手。それは少年を『車いすフェンシング』の仲間として、そしてかわいい後輩として特別に思いやる、彼の優しい目が、より優しく輝いた瞬間だった。今回はそんな見た目も中身も優しさあふれる加納選手の一日に密着、彼が追い求める“剣の道”を探ります。

1985年3月2日生まれ 31歳 福岡県福岡市出身 ヤフー株式会社所属
11歳の時父親の影響で剣道を始める。16歳の2月、交通事故にて下腿切断。約2年間の車いすでの生活となる。現在は、義足を使用し立位で歩行。
26歳の時「自分で義足を作ってみたい」と思い立ち、熊本総合医療リハビリテーション学院義肢装具学科の門をたたく。教員のすすめで義足をつけて陸上短距離を始める。
28歳の時知人の勧めで車いすフェンシングを始める。

12月14日(水)

萩野真世選手

(車椅子バスケットボール)

「車椅子バスケットと出会い、人生が一変した。」という萩野真世選手。
仙台市出身の彼女は脊髄腫瘍が原因で、中学の頃から車椅子の生活になった。そんな彼女は15歳の時、宮城県で行われていた北京パラリンピック直前合宿の体験会に参加し、車椅子バスケットボールのスピードと迫力に魅了される。今まで出来ないと思っていたことに「挑戦」する勇気が湧き、自分に自信が持てるようになっていった彼女は、車椅子バスケットボールを始めたことで、積極的に外に出かけるようになり、世界が広がり自身も変わった。車椅子をこぐスピードとミドルシュートを得意とし、16歳という若さで日本代表入りした萩野選手は、ローポインターの中心選手として2020年の東京パラリンピック出場を目指し日々練習に励んでいる。
車椅子バスケットボールは女子の選手が少ないため、地元仙台の強豪男子チーム「宮城MAX」の練習に参加して、パワーのある男子チームの中でトレーニングを積む日々の中で、「車椅子バスケットボールと出会ったことで、自分のことだけではなくチームの仲間たちのことも考えるようになった。」と語る萩野選手。
今よりもっともっとスキルアップして、チームから頼られる存在になることを目標に、2020年の輝く舞台への挑戦は終わらない。

1993年3月9日生まれ 23歳 宮城県仙台市出身 SCRATCH / 宮城MAX所属
車椅子バスケを始めてわずか1年の16歳で全日本代表入りし強化指定選手(持ち点1.5)に選ばれる。2015国際親善女子車椅子バスケットボール大会ではMVPを獲得。2020年の東京パラリンピック出場を目指す、女子車椅子バスケットボール界の期待の星。

12月7日(水)

根木慎志さん

(車椅子バスケットボール)

「出会った人と友達になる」
体育館に集合した子供たちを前に、車いすから大きな声で語りかけるのは、車椅子バスケットボール元日本代表キャプテンの根木慎志さん。現役引退後、年間100校を超える小中学校を回り、車椅子バスケットボールの楽しさを伝える活動を続けている。
まずは、子供たちに関心を持ってもらおうと根木さん自身が、ロングシュートをするところからスタート。しかし、元日本代表といえども車いすからのロングシュートは、なかなか成功しない。「少し期待外れ」そんな表情をする子供たち…そこからが根木さんのすごいところ。子供たちに向かって「もっと、大きな声で応援を!」と盛り上げる。子供たちは大きな声で声援を送る。でも、シュートは決まらない。さらに根木さんは、子供たちに「もっと、もっと、もっと、大きな声で!」と煽る。子供たちもそれに応えて体育館が揺れるくらい大きな声で声援を送る。“シュート成功!”その瞬間、根木さんと子供たちは友達になっていた。
根木さんの願いは、「スポーツで障がい者も健常者もひとつになれる。」を実現すること。車椅子バスケットボールは、障がい者と健常者が同じ空間で戦うことのできるスポーツ。コートに車いすで立てば、障がいの有無に関係なく相手の身体能力と勝負できる。子供たちが車いすに乗り、2つのチームに別れて根木さんと共にバスケットボールを楽しむ。それだけで、気持ちが一つになれる。11月8日での「夢の課外授業」と題された小学校での体験会では、小池東京都知事も訪れ、根木さんや子供たちと一体となり、車椅子バスケットボールを楽しんだ。根木さんの願いどおりの会となっていた。2020年東京パラリンピックまでに根木さんは、600校をまわり600枚の集合写真を集めパラリンピックの会場の壁一面に展示するという夢をもって、今日も日本全国を車いすで走り続けている。

1964年9月28日生まれ 52歳 岡山生まれ
車椅子バスケットボール元日本代表キャプテン
幼いころから水泳・陸上・サッカーにとスポーツに明け暮れる日々を過ごしていたが、高校3年とき、交通事故で脊椎を損傷、車いす生活となる。知り合いからの誘いがきっかけで車椅子バスケットボールと出会い「奈良ディアー」というチームに所属。パラリンピック日本代表を目指したが、ソウル、バルセロナ、アトランタと代表落選。諦めかけたが気持ちを立て直し2000年シドニー大会で、日本代表キャプテンとしてチームを牽引。引退後はスポーツ界の幅広いネットワークを使い、障がい者スポーツの普及活動を続けている。