大奥用語集

大奥
 それは、江戸時代、将軍(徳川家)の嫡子(家督を継ぐ者)を確実に作るために考え出されたもので、一人の将軍に千人もの女性が仕えるという、世界史上にも類を見ないほどの巨大なハーレムだった。将軍家の血筋が途絶えてしまえば、幕府の権威も揺らいでしまう。そこで女性だけのハーレムを作って、政治的な影響が及ばないようにした。つまり、徳川幕府300年の歴史はこの女性たちがいなければ存在しなかったかもしれない。

 江戸城に大奥が作られたのは1607年(慶長12年)。2代目の将軍、秀忠の時代。そして、1618年(元和4年)1月1日、秀忠は「大奥法度」という法律を作って、表の世界と大奥を完全に分離させ、その体制は江戸城開城まで続いた。

 江戸城本丸(現在は皇居東御苑の一部)は、「表」「中奥」「大奥」という3つの区画に分かれていた。幕府のお役所、つまり現代の省庁が集まる「霞ヶ関」に相当したのが「表」、「中奥」は今で言う首相官邸、将軍の執務室兼居間だった。御台所や側室、女中たちが住んでいたのが「大奥」。

 大奥だけは独立した建物で、「御鈴廊下」によって中奥とつながっていた。この廊下を通って大奥へ行くことができた男性は、もちろん将軍ただ一人。「御鈴廊下」という名前は、鈴のついた紐がその廊下に渡されていたことに由来する。将軍がこの廊下を通って大奥へ渡るとき、中奥側からその紐を引いて鈴を鳴らし、大奥に合図を送った。

 江戸城本丸は建坪数にして11,373坪あり、その半分以上の6,318坪(約20,850平方メートル)が大奥で占められていたという。幕府にとって大奥がいかに重要な機関であったかはこの数字からも明らか。

奥女中の役職
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