第24回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『想いを伝えて〜阪神淡路大震災・父子が歩んだ20年』(制作:関西テレビ)
7月1日(水)26時20分〜27時15分

私たち取材班が長谷川さん一家と出会ったのは震災から5年が経過しようとしていた1999年。母の規子さんと1歳の三男・翔人くんを亡くし、お父さんの博也さんが長男・元気さん(中1)、次男・陽平さん(小6)を男手ひとつで育てていた。思春期の入口に立つ二人の男の子を前に、伴侶を失ったお父さんは迷いながらの子育てに格闘していた。
そこからさらに15年が経ち、震災当時8歳と7歳だった兄弟は28歳と27歳に。
兄の元気さんは神戸市で小学校の先生をしている。弟の陽平さんは編集プロダクションのライターになった。お父さんの博也さんは63歳、従来通り自宅で塾を経営している。あの日別れも言えず、突然旅立った家族への思いを、3人はそれぞれの方法で持ち続けていた。

元気さんは小学2年生の担任。子どもたちに自身の体験を伝え、何気ない日常を大切にしてほしいと説く。小学校の先生になったのは、震災後、自分が感じてきたことを子どもたちに届けたいと思ったからだ。誘われて語り部も始めた。読み上げるのは中学1年のときに書いた作文。地震当日、何度もお母さんを呼んだのに返事はなかった。元気さんはこの作文をきっかけに、語ること、思いを伝えることで自分の心が整理されることに気付いた。

陽平さんは中学校時代、兄と同じように作文を書くよう求められ、4行しか書かなかった。かわいい盛りだった、初めてできた弟への強い思いを何年も閉じ込めてきた。「この気持ちはどうせ誰にもわからない。分かち合っても悲しみは減らない」その思いは父や兄に話すこともなかった。遺体と対面した時の光景は今も瞬時に浮かぶ。

お父さんの博也さんは、残された二人の子どもを育てることに力をそそいできた。ご飯を作って、送り出して、出迎えて。それが妻から託された宿題だと思った。「起きたことは仕方がない」そう思わないと生きていけなかった。
震災前にお母さんが撮影したビデオテープが見つかった。楽しげに遊ぶ兄たちと、その背中を追いかける末っ子。やさしく語りかける母の声。初めて3人でビデオを見た。2度と取り戻すことはできない幸福な家族の姿。もし地震がなかったら、これが本来の長谷川家の姿だったのだとあらためて気づかされた。

語り部活動も始めた元気さんは、宮城県石巻市と名取市を訪れ、東日本大震災の遺族にも出会った。子どもを失った人、親を亡くした人。それぞれ深い悲しみとともに生きていた。父の姿とも重なった。「人は何のために生きるのだろう」その問いをクラスの子どもたちに持ち帰る。これから教師として、子どもたちとともに学んでいくつもりだ。

陽平さんは小説を書いている。震災をテーマにしたものも書いたが、まだ納得のいくものになっていない。小説の形で書き続けることが自分にとっての震災との向き合い方だと思っている。
自分の気持ちは誰にもわからないと思って生きてきた。「震災から20年を迎えた今、こういう体験をした人間がいると知ってもらえるなら、それも意味があるような気がしている」と語る。

東日本大震災でも多くの子どもたちが家族を亡くした。幼少期に突然家族を失った子どもたちは何を感じながら大きくなるのだろう。神戸の少年たちが大人になり、カメラの前で語ってくれた。人は時に思いもよらない困難に出くわすが、それでも生きていかねばならない。長谷川家の3人のそれぞれの思いを伝えることで、20年という時間の長さと、その長さをもっても埋められない悲しみ、そのはかなさゆえに輝く命について考えたい。

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