金賢姫を捕らえた男たち
- 事件について -
■拉致問題〜大韓航空機爆破事件から現在まで
日本人拉致問題にとって、「大韓航空機爆破事件」は特別な意味を持っている。
115人の命を奪った爆破テロは、もう一方では日本人拉致被害者の存在が明らかにされるきっかけとなったからだ。
爆破事件の実行犯である金賢姫は、その後の取調べを経た会見で、日本人に成りすますための教育係「李恩恵(リ・ウネ)」について証言した。そして、「拉致」という言葉が公の場で初めて、北朝鮮の工作員によって語られた。
「私が日本人教育を受けた李恩恵という女性は、北朝鮮によって1978年に拉致されて来た日本女性です」
その後出版された金賢姫の手記によれば、1981年7月から1983年3月までのおよそ20カ月の間、生活を共にし、日本語はもちろん履物の整え方から化粧の方法まで学んだという。
その李恩恵とは、1978年6月に失踪したとされていた日本人・田口八重子さんと同一人物であることがその後の調査で明らかにされた。
拉致した日本人を、北朝鮮工作員の「日本人化教育係」へと追い込んだのだ。
1970年代から1980年代にかけ、多くの日本人が不自然な形で行方不明となっていた。
これらの事件を結び付け、"外国情報機関が関与しているのではないか"と分析し、北朝鮮の関与を匂わせた記事が、1980年1月7日「アベック3組ナゾの蒸発事件」として『サンケイ新聞』一面に掲載された。しかし、当時の日本には、北朝鮮に触れることへの抵抗感が強くあり、記事への反響はほとんどないままに7年の歳月が流れた。
大韓航空機爆破事件後の12月1日、逃亡を計ろうとしていた「蜂谷真由美」を名乗る工作員・金賢姫は、パスポートの偽造が暴かれ、中東バーレーンの空港で拘束される。そしてその後12月15日、国籍も名前も不明のまま、身柄はバーレーンから韓国へと引き渡された。
韓国での取調べにより、大韓航空機爆破計画の全貌を語り、ようやく、「拉致」という言葉が広く認識されるに至った。
もし、金賢姫が生き残り証言していなければ、拉致問題の解明はもっと遅れていたのではないだろうか…
■拉致問題関連年表
┗1980〜2007年
△もどる
0.サイト TOP
(C)フジテレビジョン