はい!美術タイトルです

タイトルデザイン:山形憲一

Vol.5

手書き全盛時代の達人④
金田全央デザイナー

岩崎光明 プロフィール

1982年よりフジテレビタイトルデザイン室でタイトルデザイン、イラストなどの制作を担当。
代表作は「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」
「ダウンタウンのごっつええ感じ」「世にも奇妙な物語」など。
この連載では主にアナログ時代のタイトルデザインについてご紹介します。
題名の“美術タイトル”(略称は美タイ)は河田町フジテレビ時代の名称。美術タイトルは報道以外の全番組を担当していました。
報道番組の写植などを制作する“報道タイトル”は報道部にあり、役割は全く違っていました。

映像効果に挑んだ男

晩年の金田さん

1938年京都市上京区3月31日生まれ
武蔵野美術大学(当時 美術学校)
1961年 フジテレビタイトルデザイン室へ
1977年 デザイン会社「スタッフルームH・B」創立
1981年 タイトル室から離れる
2003年 フリーランスで活動
2019年4月没

1966年

マルチクリエイター金田さん

がっしりとした体格に精悍な眼差し、時折見せる悪戯っぽい笑顔がとても親しみやすさを感じさせる…初めて会った金田さんの第一印象は、ユーモアあふれる優秀なグラフィックデザイナーでした。

1994年

デザイン学校でTBSのタイトルデザイナー篠原榮太氏の授業を受けていた私と友人は、「フジテレビのタイトルデザイン室で欠員が出るので面接に行ってみるか」と篠原先生に声をかけられ、二人で金田さんの個人会社HBを訪れました。1981年の冬でした。欠員というのはフジテレビタイトル室に勤務する金田さんが個人会社の方に仕事をシフトするので、その後任ということでした。当時は他局のタイトルデザイナーとの交流の場があったようで、金田さんは篠原先生にめぼしい学生の紹介を依頼していたのです。そんなご縁で知り合った金田さんでしたが、私と入れ違いでタイトル室を辞められたので、その後の接点は数えるほどしかないのです。1994年頃に金田さんの事務所を訪問したとき、金田さんは当時出たばかりのApple PowerMac8100でCD-ROMのソフトを作っているところでした。当時はマルチメディアという言葉が出始めた頃で、CD-ROMの大容量を活かしたゲームやデータベースなどのパッケージソフトが大変注目されていました。事務所には他にもMacintosh SE/30など1980年代のモデルもあり、金田さんは英語版しかシステムがなかった頃からのマックユーザーということでした。私も自宅ではQuadra840AVというMacintoshを使っていましたが、タイトルデザイン室でのMacintosh導入はまだもう少し先の話になります。

1994年

1994年

1976年

この連載では金田さんの特集をする予定はなかったのですが、連載第3回の高柳さん編がSNSで話題になったことで、偶然にも金田さんの息子さんと連絡が取れることになりました。金田さんのご家族にも掲載をご承諾いただき、この金田デザイナー特集の実現となりました。
以前の連載で紹介した高柳義信さんと山形憲一さんには、先生のような存在であった金田デザイナー。
金田さんの作品はタイトル室に残っているものは少なく、ご自宅にも残っていないということで、今回は私の探し出した資料画像と当時の様子を知る方へのインタビューで、金田さんのテレビタイトルデザインをご紹介します。

生放送でライブペインティング!

金田さんは『ビートポップス』(1966)という若者向けの洋楽専門音楽番組のタイトルデザインを担当していました。驚くことに毎週の放送にライブペインティング(スタジオのガラス壁に生でイラストを描く)で出演していたということです。山形さんの話では、金田さんは結構“出たがりタイプ”だったとのこと。フジテレビで発行していた「月刊ビートポップス」という冊子では、表紙と本文中のイラストも金田さんが描いています。番組スタッフをイラストで紹介しているページは、当時の収録の様子が描かれていてとても興味深いです。『ビートポップス』のロゴは立体感を感じるポップで躍動感たっぷりの文字。シンボルマークはLP レコードとプレイヤーがモチーフでしょうか、シンプルでかっこいいですね。

タイトルロゴとシンボルマーク

フジテレビで発行していた「月刊ビートポップス」。
表紙や本文中のイラストも金田さんが担当。

『ビートポップス』1966年。
大橋巨泉司会の洋楽専門音楽番組。

グループ・サウンズ全盛期の1968 年に創刊された“お嬢さんの週刊誌”。『ティーンルック』(主婦と生活社)

1968年『ティーンルック』8月号より

さて今週は…ほら、本番のあいだ中ガラスの壁に夢中で絵を描いている人。そうです。イラストレイターの金田全央さんにご登場ねがいましょう。

最近、街でスケッチブックを持った若い女の子や男の子をよく見かけるね。デザイナーやイラストレイターなんて仕事は、ちょっとカッコよく見えるからなりたい。なんていう人も多いだろうけど、趣味でやっているうちがいいんだよ。
仕事となると、それはそれはキビシイんだから。
このボクだって、ビートポップスのタイトルのイラストを描き始めてから約3年。いままでに約千枚にはなっているかな。
だって、スタジオで描き始めてから約9カ月、20カットにはなっているものね
ところで、本番中はどうしているかというとネ。
スタジオに入って画き始めるのが、だいたい本番30分前ごろ。もちろん、スケッチは前日のうちにボクの頭の中にできているよ。
ボクの姿が画面に写しだされるころには、絵が八分どおり描きあがっているからあとは、描き残しの部分に絵の具を塗ったふりをしていればいいんだ。
しかし、ディレクターはなかなかいじわるだから、絵にしにくい曲で描いてくれなんて注文があるからシンドイこともあるョ。
ここでアドバイスを一つガラスに絵具で描きたいときは、絵具の中に5〜6滴の中性洗剤を入れるとよく描けるよ。
とにかく、イラストを描くなんていうのは、趣味としてはカッコいいから、ガンガン描こう!!

メインタイトルデザイン集

1960年年代にデザインされた新ロゴ

1969年
80年代の番組とタイトルは同じですが全くの別番組。
フリーハンドで描かれたフクロウのイラストがおしゃれ。

1970年
百恵&友和もこの番組に!
♫二人だけの二人のための〜♫
テーマ曲も懐かしい!

1970年
コント55号の
バラエティ番組

1975年
出演:堺正章、研ナオコ

1981年
出演:辻沢杏子、
柳沢慎吾、高田純次

1981年
出演:服部まこ、
デイビー藤本、柳沢慎吾

『翔んだカップル』(1980)から3作続いたコメディドラマ。画面には当時開発されて間もないスキャニメイトによる映像効果を多用。スタッフロールには「映像効果:金田全央、小高金次」とクレジットされている。

1980年
ムツゴロウさんと
動物のふれあいを描いた
人気ドキュメンタリー番組

1982年
出演:松坂慶子、津川雅彦

1987年
出演:市毛良枝、
中井貴恵、三田村邦彦

1986年
出演:中山美穂、中村繁之

1987年
出演:中井貴一、
国生さゆり、柴俊夫

1989年
出演:和田アキ子、
高橋一也、城島 茂

1979年
山城新伍が言った
「チョメチョメ」が
流行語に

1987年
出演:田村正和、
石原真理子、布川敏和

1986年
出演:田村正和、
鳥居かほり

手描き文字

金田さんの手描き文字の特徴は、なんとも味のあるユーモラスなタッチです。文字の組み方、文字間の詰め、そしてバランス感覚が素晴らしい。金田さんはバラエティ番組を多く手がけていたからか、筆文字ロゴを見つけることはできませんでした(ここでいう筆文字とはいわゆる“達筆” “流暢な筆文字” という類のものです)。

■「3時のあなた」手描き予告テロップ 1974年頃

※色帯以外は全てフリーハンド!

映像としてのタイトルデザイン

スタッフロールにおける金田さんのクレジットには「タイトル」、「タイトルとイラスト」、「映像効果」、「タイトルスキャニメイト」、「オープニングタイトル」など、数種類見ることができます。タイトルデザイン室では、タイトル文字描きとイラストは担当デザイナーの仕事。クレジットは「タイトル:~」というのが普通でした。「タイトルとイラスト」のように併記することは珍しく、このあたりはデザイナーが主張しなければクレジットされないので、金田さんにはかなりこだわりがあったのではないかと思います。1970年代後半からは、「スキャニメイト」というアナログビデオエフェクトでのタイトル制作に打ち込んでいた金田さん。山形さんによると「編集所に入り浸りでタイトル室にはあまりいなかった」ということでした。

『第一回一億人のテレビ夢列島』(1987年)

『女はダバダ』(1991年)

※画面キャプチャー

金田さんの息子さんから当時の様子を伺いましたのでここに紹介させていただきます。

-1970年代私がまだ小学生の頃は、河田町の父の職場(タイトル室)にちょくちょく遊びに行きました。毎週日曜の昼になると、父は自宅で「クイズドレミファドン!」のサブタイトル「第○○回 ○○大会」みたいなテロップが出る画面を、ポラロイドカメラで撮影していました。
『翔んだカップル』シリーズのドラマのエンディングで、「Happy Valentine」とテロップを出すところを間違えて「Happy Balentine」と入れてしまい、それが放送されたのを観て、「地方のネット局はまだ間に合うから直さないと」と家を飛び出していったこともありました。「スキャニメイト」の仕事が始まった頃は、東洋現像所に泊まり込んでいたのもよく覚えています。父がオープニングとタイトルを担当した『YMO in 武道館』のテレビを観て、僕もYMOが好きになりました(先日、CSのフジテレビTWOで43年ぶりに再放送されたのを、懐かしく拝見しました)。中学生の頃には、『夜のヒットスタジオ』のスタジオのキャットウォークから生放送を見学させてもらったこともありました。目玉マークに変わってからの「放送開始」「放送終了」のCGを担当したことなども、強く思い出に残っています。父の思い出は尽きませんが、こうやって今、アナログ時代のテレビのタイトルに注目が集まっているのをとても嬉しく思います。

■スキャニメイトによるアニメーション
タイトル

「イエロー・マジック・オーケストラ・イン・武道館」(1980年)※画面キャプチャー

1.東京タワーから “losangels” “london” “paris”などの都市名が電波のように現れる。

2.文字は電波になり東京タワーから発信。

3.東京タワーは火を噴きながらロケットのように上空へ。

4.高層ビルは下方にスライドし、武道館が中央に。

5.和風をイメージしたのかYとOは凧がモチーフ(Mは不明)。タイトルはゆらゆらとアニメーション表示。

6.“WORLD TOUR '80〜”のロールタイトル。

7.立体感のついた“IN 武道館”の筆文字タイトル。文字の光沢は擬似的なものだが動きがついているのでキラキラと反射しているように見える。

8.エンドロールには“タイトルスキャニメイト 金田全央”とクレジットされている。この頃は東洋現像所(現IMAGICA)の小高氏との連名での表示が多く見られる。

'80年代のスキャニメイトとCG、金田さんのこと

クロージングのCGアニメーション(1986年)
※画面キャプチャー

タイトル室を去った後もTVタイトルを手がけていた金田さんは、『第一回一億人のテレビ夢列島』(1987年)、『女はダバダ』(1991年)、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(1994年)など、スキャ二メイトやCGでのタイトル制作に関わっています。中でも1986年のフジテレビのオープニングとクロージングのCGアニメーションは、絵本のようなグラフィックと優しい色使いで、初期のCG作品の中でも画期的なものであったと思います。当時の編集所での様子を知るフジテレビ伊原氏に話を聞きました。

〈フジテレビ:伊原〉
私がIMGICA(旧東洋現像所)に勤めていた頃に、CG制作の依頼を受けて何度か一緒にお仕事させていただいたことがあります。
金田さんはとても恰幅の良いダンディな方で、セーターを肩に掛けて歩く姿は、まさに当時の業界人そのもののような出立ちでした。
とにかく“あたらしもの”好きで、日本に一台しかないスキャニメイトというビデオエフェクターを使ってよく制作されていました。スキャニメイトはアナログ式のリアルタイム特殊効果発生システムで、同じ効果は再現できない一発撮りのシステムなので、納得出来るまで何度もトライして、編集室で夜を明かすことも多かったようです。
その後日本で初めてのCGプロダクション業を始めた時も、真っ先にIMAGICAに仕事を発注してくれ、「夜のヒットスタジオ」OPやフジテレビのステーションコールを制作しました。
当時のCG制作というのは今のようにリアルタイムで制作できるものではなく、手描きアニメーション制作の延長線上にあり、コンピュータで描画した画像を一枚一枚ビデオでコマ撮りして制作していました。しかし当時最先端のコンピュータを使っても一枚描画するのに何時間もかかることがあり、アニメーション一本制作するのは大変時間のかかる作業でした。にもかかわらず金田さんはチェック時に長時間制作場に滞在して、出てくる画像をああでもない、こうでもないと指示を出されていました。締め切り時間が近づいて直しの作業が入ると、間に合うかどうかやきもきしたものです。
このようでしたので、私の金田さんに対する印象はデザイナーというよりはむしろディレクターというイメージでした。

ちょっと品があってポッと弾けてる

以前の連載で紹介した山形憲一デザイナーは、金田さんからデザインの影響を強く受けているということで、当時のお話を伺いました。
山形さんはタイトル室に入ってから、金田さんのデザインの魅力にどんどん引き込まれていったそうです。1960 年代後半にはフジテレビ近くのアパートに仕事場を借りていた金田さんに呼ばれて、徹夜で仕事の手伝いをしたことも少なくなかったそうです。
フジテレビの仕事はもちろんですが、宝石(指輪)のカッティングデザイン、選挙ポスターの文字デザインなどテレビ以外の仕事も多かったそうです。中でも一番思い出深いのは、西武新宿駅にできる商業施設(西武新宿ペペ)の企画コンペに、金田さんが仲間と一緒に参加したときのこと。「随分使いっ走りもやった。何でもやったね。」という山形さん。手伝いのあとは、新宿の寿司屋で奢ってもらうのが楽しみだったそうです。コンペは落選したそうですが、応募した商業施設のネーミング「終着駅」のロゴはもちろん金田さんがデザイン。山形さんは面白いデザインだったと言っていましたが、さてどんなデザインだったのでしょう。
「ちょっと品があってポッと弾けてる」金田さんのデザインを山形さんはこう表現します。優しさと品の中にイタズラっぽい弾けるような楽しさがある。それが金田さんのデザインの特徴のようです。今回お話を聞いた中で「金田さんには何をやっても敵わなかった」という山形さんの言葉が印象的でした。
しかし、この金田さんのデザインテイストは後の山形さんの仕事にしっかりと継承されていくのでした。