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時を超えた父からのメッセージ
誕生した誰もが知るあの超有名店とは!?

夢も目標もなかなか見つけられなかった、一人の女性。 試行錯誤しながら、人生を歩んできたが、ついに先の見えない所にまで…暗闇の中、何もする事が出来なかった彼女。 そんな時、目の前に現れたのは、小さな赤い箱。 その中に入っていたのは…広告の裏に書かれた、小さなメッセージ。 これが、彼女に大きな夢を与える事になる! その結果、今や日本全国ほとんどの都道府県にある、あの超有名店が誕生!

今から26年前、大阪府大阪市。 田中洋江は大学卒業後、希望していた広告代理店に就職したが、訳あって退職。 その後、別の職を得たが、新たな目標を見つけられずにいた。 そんな彼女は大の酒好きで、あるバーの常連客になった。

そのバーを経営していたのは、一つ年上の貫啓二。 勉強嫌いで、高校卒業後、大手運輸企業に就職。 それとは別に、パーティーなどのイベントも主催し、これが大人気に。 自分も楽しめる上に儲かる…それに気をよくした彼は、親しくなった人たちが来てくれると見込み、大阪でショットバーを開店したばかりだった。

啓二は「この店を大阪一、いや、日本一のバーにしたる」と言っていた。 自分とは違い目標があり、しかも笑顔で楽しく働いている…洋江には啓二がそんな風に見えていた。
啓二に「何か やりたいことないの?」と聞かれ、思いついたのは…料理。 洋江には忘れられないおふくろの味ならぬ『おやじの味』があった。

大阪府西成区で生まれた、洋江。 両親と3人家族だったが、父は単身赴任が多く、あまり家にいなかった。
そんな父は仕事に向かう際、必ず洋江にある事をしてくれていた。 それは、広告チラシの裏に洋江への一言メッセージを残す事。 収集癖のある洋江は、それを全て宝箱の中に集めていた。

生活は決して楽ではなかったが、食が趣味の父は、自宅に帰ってくると、おいしいお店に洋江を連れていってくれた。
それでも洋江は、父が作ってくれるものが食べたいとねだった。 それは普段全く料理をしない父が、唯一作ってくれるものだった。

料理まで手が回らないという啓二のショットバーで、洋江は夜だけアルバイトする事になった。
好きな料理で誰かに喜んでもらえる…毎日に張り合いが出てきた、そんな矢先だった。 オープン当初は大盛況だった啓二の店だが、日が経つにつれ客足は遠のいていき、次第に客が来ない日が増えていった。

このままではいけないと、啓二は新たな店を開く事を決意! 洋江も昼間の仕事を辞め、彼の手伝いに専念する事に。
2人で打って出た勝負! この後 訪れる波瀾万丈の展開とは!?

まず二人は、大量のグルメ雑誌を用意し、トレンドを頭に叩き込んだ。
さらに、啓二にとっては、生まれて初めての事業計画も作成。 神棚に飾り、毎日拝みながら、計画を進めていく。

そして、洋江がバーで働き始めて3年後の2001年、大阪の繁華街に和食レストランをオープン! しかも、大阪きってのデザイナーに依頼し、トレンド最先端のデザイナーズ・レストランに! 開店資金のため背負った借金は、6000万円。 だが、狙いどおり、おしゃれな店構えとこだわりの料理が多くの雑誌やTVに取り上げられ、店は大繁盛。

これを受け、さらに勝負に出る。 それは、東京進出! 港区青山に京懐石料理店をオープンしたのだ。
するとこちらも、有名雑誌に取り上げられたことで、連日予約で満席になる、人気店になった!!
その勢いのまま、啓二と洋江も東京に引越し。 洋江は店長として現場を担当し、啓二は経営に専念。

そんな中、洋江はある夢を抱く事に。
それは…父の味を再現した店をだすこと。 しかし、記憶を頼りに何度も試したが、どうしても父の味を再現することは出来なかった。

その一方で、飲食店のナンバー1になる、そんな啓二の夢は一歩一歩近づいている…はずだった。 どの店も、開店当時はトレンドの最先端だったが、流行りには終わりが来るもの。 店は次第に飽きられ、客足は減る一方だった。
さらに追い打ちをかけたのが、2008年に起きた、リーマン・ショック。 特に東京の店は、接待で利用される事が多かったため、客足が急激に減少。 最終的には、負債が1億円以上にも膨らんでしまったのだ。

こうして二人は、東京からの撤退、そして大阪の店も畳む事を決意。 だがこの後、思いもよらぬ運命に導かれる事に…それは、洋江が大阪へ戻るため荷造りをしている時だった。 見つけたのは、存在自体忘れていた、子供の頃の宝箱。 大人になってから開けたことは一度もなかった。 その中にあるものを見つけた。

洋江は啓二を呼び出し、あるものを食べてもらった。 それは…父が作ってくれていた、あの料理だった。
実は、子供の頃の宝箱の中に父が書いたレシピが入っていたのだ。 啓二は最後にこれでチャレンジしてみようと提案。 こうして二人は、洋江の父の味を売りにした店を始める事に。

とはいえ、用意出来た予算は雀の涙程度。 そのため繁華街ではなく、東京・世田谷区の住宅街の居抜き物件で、前の店が残していったテーブルを利用し、手作りの木札に手書きでメニューを書き、それを吊り下げる。 この結果、それまでの店では、6000万円以上掛けていたのに対し、なんと300万円ほどで作り上げた。
以前の店のように、メディアの取材オファーもなく、十分な宣伝もできない状況だったが、今から16年前の2008年12月、店をオープン。

こうしてスタートした、2人にとっての最後の店だったが! なんと、二人の予想に反して、オープン日から大盛況! しかも、その後も客足が減るどころか、どんどん増えていったのだ!!
父のレシピを元に生まれた大人気店、それは…『串カツ田中』!
そう、『串カツ田中』の『田中』は、田中洋江の父にちなんで名付けられた。

なお、父のメモには、串カツのソースと衣の材料や配合など、美味しく作るコツが書かれていたと言う。 とはいえ、串カツは簡単に言えばあげるだけの料理、それほど味に大きな違いが出るのだろうか?
そこで今回、食専門の雑誌「ダンチュー」の編集長・植野広生さんに話を伺った。
「その食材をどういうふうにお客さんに食べてもらうかを作り手は考えるんですね。しっかり火を入れることで食材の甘みを立たせるのか、あるいはレアな状態にして食感とか旨味をだすのか、それを考えた上で皆さん作られるので、それに合わせて衣をどう付けるか、しっかり衣を付けるのか、薄衣にするのか、どんな温度で揚げるのか、どのくらい揚げるのか、あるいは温度を上げていくのか下げていくのか、串カツと一言で言いますが、そこには色んな要素・技術が凝縮しているんですね。非常に奥深い楽しみが広くて深い料理なんですね」

なお、通常の串かつは、衣が分厚く、衣と具材の間に隙間ができることが多いのだが、『串かつ田中』の串かつは、薄い衣が具材にぴったりくっついているため、素材の味が生き、軽い食感でいくらでも食べることができると評判に! さらに、材料や量によって、甘味や酸味、コクが大きく異なってくるソースも、串カツ田中の人気の秘訣。
洋江さんも父のレシピを基に作った際、こんな想いが…
「串カツとソースも作って、ソースとバランスがすごく良いんですよね。市販のソースをかけたらおいしいのかというと違う。父のソースだから串カツとして成立している。バランスが良い」

父の味を再現した店が、これほど人気になるとは思ってもいなかったが、もう一つ 予想外の事が。 『串カツ田中』は、あくまでも居酒屋の一種。 そのため、仕事終わりのビジネスマンが主なターゲットと考えていたのだが…住宅街だった事もあり、多くのファミリー層が訪れてくれたのだ。
今までの店は、トレンドに乗った店作りをした結果、流行の変化と共に客足が遠のいていったが、『串カツ田中』は真逆の庶民的な作り。 つまり、流行り廃りにも左右されることはない。 むしろ多くのリピーターの存在もあり、売り上げは予想を遥かに上回る事に!

この成功を足掛かりに、次々に店舗数を拡大! 2021年には300店舗に達し、現在は残り3県で全国制覇というところまできている。
なお、貫啓二は300店舗達成した際、社長職を自ら退き、現在は会長として、田中洋江は副社長であったが、現在は相談役として『串カツ田中』の未来を見守っている。

父のレシピが出てきた事に関して洋江さんにはこんな思いが…
(父のレシピが)なぜあのタイミングで出てきたのが今でもわからなくて、父が後世に残していきたいって思ってくれたからなのか、すごく大変な時だったので、助けてくれたのかなって思います」

子供の頃、単身赴任で留守がちだった父が、洋江さんのために作ってくれた料理…それが串カツだった。
洋江「こんな隙間あったら、串カツ店かたこ焼き店かというくらい近所に沢山あって。私がすごく「好き」「食べたい」と言うものだから(父は)研究して色んなお店の大将とかに聞いて、作ってくれたんじゃないかなと思います」

洋江さんは、子供の頃、父がくれた小さなメッセージを大切に保管していたが、実はもう一つ、父との思い出が詰まった物がある。 それが、インタビュー取材中に身に付けていた腕時計。 これは、高校卒業後、家族で香港旅行に行った際、父が買ってくれたものだという。
洋江「何かある時は、父が買ってくれた時計を…今日も父の事を聞かれるというのがあったからしてきた。会社の行事でも背筋をピッとしなきゃいけない時とかは必ず付けています」