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未確認生物 日本代表! カッパ伝説

日本では古くから各地で様々な未確認生物、UMAが世間を騒がせきた。
全国各地に生息すると信じられている、爬虫類型UMA、ツチノコ。 その太くて短い形状が藁を打つ「槌」に似ていることから、その名がつけられたとされる。 蛇に似ているとされるが、ジャンプ力は2m。 坂道ではタイヤのように転がって移動する説なども存在する。 多くの目撃談から、何度も懸賞金が出され、実は現在でも捜索が行われている!

そしてヒバゴン
広島県の中国山地にある、比婆山連峰に生息すると言われる獣人型UMA。 比婆山の名からヒバゴンと名付けられ、海外でもジャパニーズビッグフットとして認知されている。
最初の目撃は1970年。 その4年後、ついにその姿がカメラに捉えられた。 当時、その不鮮明な写真は数多くの物議を醸したが、その後も目撃情報が相次ぎ、足跡などの痕跡も発見された。 地元ではいまだに捜索が続いているという。

そもそもUMAとは目撃例や伝聞はあるものの、その存在が確認されていない生物の総称。 そんなUMAの中で日本代表とも言えるほど有名なのが…カッパ!
日本全国には、古くからカッパにまつわる伝説や伝承が存在し、多くの目撃情報もあることから、実在する生物として信じられてきた! 江戸時代中期に発行された「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」は、動植物や鉱物、芸能や装飾品に至るまで、世の中に存在するモノや事柄を記録した百科辞典だが、日本で初めてカッパが絵図として紹介されている。
この中でカッパは「川太郎」として紹介され、内容を要約すると…
『谷間や池川に多く、10歳ほどの子どもの裸形で、頭の天辺にくぼみがあり、一掬いの水、人語を解す、人間を見れば相撲を取る』と記されている。 各地の伝承によってさまざまだが、その他に体は主に緑色、甲羅があり、口はクチバシのように尖り、手足には水掻きがあるとされている。

そんな日本で馴染みのあるUMA・カッパ。 実際に見たことがあるという芸能人に我々は話を伺うことができた。
「どうもこんばんみ!ビビる大木です!」
大木「埼玉に岩槻城址公園というのがあるんですけど、そこに5才の時かな?行って、父親と2人で。池があるんですけど、僕の記憶にあるのはおでこくらいまで。顔の表情はわからない。ここが水面だとしてチャポンチャポンって感じで。カッパだって!そしたら親父もそうかみたいなね。カッパ見たってこと人に言うんじゃないぞって。笑い事じゃないんですよ!僕のこのカッパ体験談は」

大木さんが子供の時にカッパを目撃したというのがこの公園の池! 確かにいそうな雰囲気だが、実際に見たカッパを描いてもらうと…
大木「本当におでこ。人間でいう目とか眉の辺りまでは見えていないというイメージです。カッパの方も見ている人間がいたから、引っ込んだのかなというスピードだったんですよ。本当一瞬。俺もあっと思っちゃって、本当にこういうお皿が見えたので、あれはカッパだってなったんですよ!」
証言をまとめると、カッパは大木少年の気配を感じ、顔を出す前に逃げたと考えられる。

大木「捜索お願いしたいですね。カッパはいます。僕は見ました。」
ということで我々は大木さんがカッパを見たという埼玉県、岩槻城址公園でカッパ調査を敢行! 池の周り3カ所にカメラを設置。 それぞれの場所には、カッパの好物とされるきゅうりの仕掛けや、相撲の掛け声を現場で鳴らすなどの仕込みを施し、カッパを誘いこむ。 果たして大木さんが見たカッパはやってくるのか?

蠢くものの姿はあるものの、決定的な映像は撮影できず。 仕掛けの相撲音声が虚しく鳴り響く中、タイムアップを迎えてしまった。 残念ながら、カッパを撮影することはできなかった。

そこで、カッパの痕跡、実在を探るべく番組で総力取材!
民俗学の文献による伝説や目撃情報によると、最も多いのは九州。 江戸時代の説話集によると、実はカッパは5世紀前半ごろ、中国から熊本県の八代市に泳いで渡ってきたのだという。 そして、ここに棲みついたカッパの一族は、9000匹に。 頭領は九千坊と呼ばれるようになったとされる。

まず我々が向かったのは、その熊本県・八代市。 この辺りの歴史に詳しいという、進 英夫(すすみひでお)さんに話を伺うことができた。
「そこいらがカッパの伝説が残る一帯でありましてですね。それがあの…カッパの碑と称しておりますけどですね」
中国からカッパがやって来た伝承を記した碑が存在!

中国から、八代市にやって来たというカッパ達、その後、どうなったのか?
「伝承として聞いている話では、水を治めたという、いい仕事もしたといういい話も聞いていますけど、悪さもしたんでしょうな。当時の武士達から散々な目に遭って、追い払われて、筑後川の上流に田主丸に移っていったり、そこから佐賀県、長崎県の方に分派していった一軍もおるらしいし。江戸時代かと思いますけど、そういった話も残っちゃおります」
この地では、今でも祭りとして街の人々に親しまれているという。

そこで次に我々が向かったのは、進さんの話に出てきた福岡県久留米市・田主丸町。
なんと駅舎がカッパ! そして、カッパのモニュメントが町の至る所に!! ここ田主丸は、カッパが住み着いた地とされていて、目撃例も多いのだという。

この町でカッパ伝説を伝えている菰田(こもだ)さんに話を伺うことができた。
菰田「私たちの親とか祖父の代の頃は結構カッパを見たという話を聞いてたんですけど、最近はなかなか姿を現さないようになってきている」
スタッフ「菰田さんはカッパを見たことはありますか?」
菰田「1度だけカッパだったろうという体験があります。小学校1年生か2年生の頃だったと思うんですよ。川で夕方遊んでいた時に突然川に引きずり込まれて溺れそうになった。その時のが河童の仕業なんじゃないかと思います」

菰田さんがカッパに襲われる体験をしたというのがこの川。 季節によって水量は変わり、当時遊んでいた時は、顔まで浸かるほどの深さだったという。
菰田「石垣の所で遊んでいたら、後ろから足を引かれたような感じになって、溺れそうになって、石にしがみついて助かりました」

さらに、九州には、カッパが大騒動になった事件も存在。 それは今から40年前、長崎県対馬の厳原町(いづはらまち)で起こった。 その11年後、全国ネットで放送された検証特別番組が残されている。 夜11時半ごろ、仕事を終えた一人の男性が不審な人影を発見、直後、川に消えたという。
しかし翌朝、その痕跡となる足跡が残っていたのだ! 足跡はオタマジャクシのような形をし、長さ22センチ、幅12センチほど。 それが50〜60センチ間隔で20メートルにわたって続いていた。 触れるとネバネバしており、夏の日差しにさらされ、道路にこびりつくような形で残されていたというのだ。 元々この町にはカッパ伝説が語り継がれており、足跡はカッパのものに違いないと誰もが思ったのだ。 その後も足跡の正体は解明されないままだという。

カッパの痕跡が多く残されている九州。 我々が次に向かったのは、佐賀県伊万里市。
創業1716年の老舗造り酒屋「松浦一酒造」。
明らかにカッパにあやかったこの酒造に保管されているもの…
その存在は、代々当主たちに口伝てされていたものの、ある時代からはそれが何なのか、どこに在るのかすら分からなくなっていたのだと言う。

18代目当主の、田尻泰浩さんに話を伺った。
田尻「昭和28年に母家の方の瓦の葺き替え作業をしているんです。その時に大工の棟梁さんが屋根裏の梁の上から、黒い古い箱を見つけてきたんです」
その箱がこちら! 記されていたのは…『河伯(かはく)の文字。
日本で河伯とは、カッパのこと。

この箱の中にはカッパのミイラが入っていたとう。 カッパの痕跡にこの旅で行き着いた。 しかし一体なぜ、そんなものが家に保管されていたのか?
田尻「はっきりとはわかっていないんですけど、うちの先祖をずっと辿っていったら450年くらい前に(福岡県に)高田町という地があるんですけども、そこの近くに田尻という地名があるんですよ。そこの出身なんですよ。450年前に佐賀県伊万里に移ってきた時にミイラを持ってきたか連れてきたかしたんじゃないか」

松浦一酒造のルーツは、現在の福岡県みやま市高田町田尻。 そこは、田主丸町に流れる河川、筑後川の流域だった。
それではご覧いただこう…これがカッパのミイラである。 その体長は約70cm、頭がい骨が皿のようにくぼみ、人間とは違い16個の背骨が突出している。

田尻「甲羅自体はついていないんですけど、肉付けしてあげると、盛り上がって見えるようになると思う。それが甲羅みたいに見えたんじゃないかな?」
さらに、口にはクチバシのようなものはなく、歯や舌のようなものが!
田尻「クチバシはないんですけど、何かがえぐり取られた跡というか、何かついてたんじゃないかっていうのはあります」

原型を留めていないので、全てではないが、我々がよく知るカッパの特徴がいくつか見られる。 これは、本当にカッパのミイラなのか?
スタッフ「検証したことってあるんですか?」
田尻「検証はないです。今はうちの蔵の守り神として、お酒の神様として大切に祀ってあるので、検証とかは全く考えていないです」

日本各地で古くから伝わるカッパ伝説。 多くの目撃情報があり、実在した痕跡らしきもの残っている。
カッパの正体が明らかになる日は、来るのだろうか?