NONFIX過去放送した番組

【企画意図】

 アメリカ空軍横田基地周辺に点在する洋式住宅、いわゆる米軍ハウス。1970年代半ば、ベトナム戦争が終わり大量に空家になったそのハウスに、日本人の若者が住み始めた。1960年代後半からのヒッピームーブメントの 流れの中で自由を求め、独自のライフスタイルを模索する若者にとって、3LDKという、当時としては広い部屋とフローリングの床のハウスは、安い家賃も相まって住空間として申し分のない条件を満たしていた。

 ここにたどり着いたのは、創造のスペースを求める美大生や芸術家崩れ家庭や学校からドロップアウトした若者たち。新しい文化が次々に生まれた、この時代の象徴が福生には集約されているかのように、彼らはタウン誌を作り、祭りを始め、ユニークなショップやライブハウスを開くなど、独自のハウス文化を築いていく。しかし、『限りなく透明に近いブルー』(村上龍著)が取りざたされた頃には、議会で「ハウスは得体の知れない若者の悪の巣だ」という発言がでるほどの鬼っ子扱いを受けた。しかしそれも、前任の石川市長時代には、市長の経営する造り酒屋の酒蔵がライブ会場に開放されるなど、ハウス住人との蜜月の関係を築くに至った。

 番組は、自らもハウスに住みながら、福生ハウスの若者たちを撮り続けた、坂野正人の写真集「Talking About FUSSA」(1980年出版)から始まる。ここに映し出されている若者がいま、四半世紀を超え、追い求めてきた"自由に生きること"とは何だったかを、あらためて捉える。自由とは、それを考えることとは何か―いまの私たちに通じる哲学を、そこに浮き彫りにしていく。

【番組内容】

『ハウスがあって音楽が続けられた』

 かつて福生では有名な地元バンド、「キングコングパラダイス」のリーダーだった南條幸司(50歳)。誘いがあっても、決してメジャーにはならずに、その後も全国のライブハウスをまわりながら、音楽活動を続ける。南條は収入が不安定でも、その生活を変えようとはしなかった。
 家族は、最初の妻(白血病で夭折)の子供と、二人目の妻、その間にできた子供の5人。数年前、原宿のラフォーレにあるブティックの店長をしている、長女・アヤ(22歳)が、恋人と同棲を始めるために家を出た。長男・カンタ(19歳)は現在、ハウス仲間の同世代と、空家になったハウスで独立しようとしている(現在手作りで改装工事の真っ最中)。音楽とともに奔放に生きる父の姿は、ハウス二世の子どもたちにとってどう映って来たのだろう。また南條は、音楽以外にも自然食のガイドブックを出版したり、障害者の共同作業所の運営に関わったりと、広いフィールドで活動している。

『自由を失わないために』

 北海道育ちの遠藤洋一(56歳)が福生ハウスにやってきたのは、1970年代。当時真っ盛りだったベトナム戦争反対の市民運動の活動で、兵役拒否をする米兵のカウンセリングのためだった。当時遠藤は、自分と全く同じ年齢の米兵と出会い、戦争が「遠い海の向こうの話」ではなく、自分の身に迫ったものだと感じた。
 自由とはいかにあるべきなのか…という原点がそこにはあった。
 フリーライターを経て、1979年にハウスの住人の代表として福生市議会議員に立候補し、当選。以来6期連続当選し、副議長も務めた。ベトナムからはじまり、湾岸戦争、アフガン、イラクを基地の街から見つめ続けた遠藤は今年、7月4日、アメリカ独立記念日に、ハウスの住人たちとイラク戦争反対のデモを行った。現在猫2匹と、妻(教師・別姓)とハウスに住んでいる。1996年に腎不全を発症、現在も週に3日は、人工透析を受けている。

『離島で校内暴力と立ち向かったときが一番自由だった』

 佐藤敏雄(52歳)は、多摩美術大学の美大生のときにハウスにやってきた。卒業後は芸術家の道ではなく、僻地教育がやりたいと、伊豆七島の大島に教師として赴任した。当時中学校は、全国で校内暴力が荒れ狂っていた頃だった。それは、離島でも例外でもなく10年以上にわたって荒れた中学校への赴任だった。佐藤はここで『生徒たち共同で大きな壁画をつくる』『職業体験学習』などを積極的に推し進めることで荒れる中学を3年で立て直した。その実績をかわれて、38歳で教頭に昇進。そしてその3年後には校長になった。現在は東京の多摩地区の中学の校長を勤めている。その佐藤にとって、福生の米軍ハウスの暮らしは何を教えてくれたのだろう。

『ハウスを卒業した鉄の彫刻家、茗荷恭介(54歳)』

 ハウスに暮らした当時は美大生だった。ハウス時代に鉄の素材と取り組みはじめ、その後、朝来彫刻展で大賞も受賞している現役のアーティストだ。今は福生を遠くはなれて、滋賀県彦根の琵琶湖のほとりの築100年の醤油蔵を工房にして活動を続けている。福生を離れて16年たった頃、なぜか繰り返し繰り返しハウスの夢を見たという。ちょうど彫刻家としての節目にさしかかった頃だった。彼は夢の内容を百枚の原稿用紙につづった。そうして、これは『原点に帰れ』という夢の啓示だと解釈し、原点、つまり素材にかえることと理解した。その後は、彼の制作の原点だった、鉄の錆や重たい、冷たいというイメージに対して、温かい表情をもつ作品を作り上げることで、茗荷は遊べる彫刻や物語を語る彫刻作品を作り出していったのだった。

■ 企画 坂野正人
■ プロデューサー 本田俊章
■ ディレクター 津金亜貴子
■ 編成 吉田 豪
■ 制作協力 東京ビデオセンター