オンエア

東京ディズニーシー誕生秘話
日米の絆が生んだ奇跡のパーク

開園から23年を迎える、『東京ディズニーシー®』。 今ではお馴染みのテーマパークだが、みなさんはご存じだろうか? この夢のような世界がどのように生まれたのかを。
ウォルト・ディズニー・カンパニーと、東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランド。 共に思いは同じ…『何度でも来園したくなる、最高のテーマパークを造る』。
人生の全てをかけて挑んだ男。 海を越え、真の友情を築いた男。 利益ではなく『心』を追い求めた男。
日米の文化の違いを乗り越えて、同じ夢を見た人々が紡いだ絆。 足を運ぶ前に是非知ってほしい、東京ディズニーシー誕生の裏にあった奇跡の実話である。

「東京ディズニーリゾート」を運営する「オリエンタルランド」が設立されたのは、1960年。 千葉県を中心に路線を持つ「京成電鉄」などが出資し、浦安近郊・東京湾の埋立事業を進めるために造られた。 埋め立てにより造成した土地を利用し、レジャー施設や商業地をはじめ、住宅地などを開発していく予定だった。
そこに「東京ディズニーランド」を誘致しようと発案したのは、当時の社長・川﨑千春。 アメリカ出張で見た、カリフォルニアのディズニーランドに衝撃を受けた川崎は「こんな世界を日本の子供たちにも見せてやりたい」と強く思ったという。

そして、東京ディズニーランド実現に向けて、埋め立てを進めるにあたり、地元漁師への漁業補償の交渉役として入社したのが、髙橋政知だった。 度量が大きく、小さな事にはこだわらない豪放磊落(ごうほうらいらく)な人物。 たとえ断られても、何度でも粘り強く足を運び、その結果、わずか半年ほどで交渉をまとめる事に成功。
そして、交渉成立から22年。 オリエンタルランドの社長になっていた髙橋は、総工費およそ1800億円をかけた、東京ディズニーランドをオープンさせたのだ。 予想を遙かに上回るペースで、5年目には来場者が年間1300万人を超えた。

そんな中、開かれた開園5周年の記者会見で髙橋は、サッカーコートおよそ139面分の未使用の用地に『第2パーク』を建設すると、突如発表したのだ。 前年にアメリカのディズニー社から提案があったのだが、この時はまだ、一部の役員しか知らない極秘事項だった。

「せっかく東京ディズニーランドが軌道に乗っている時に、もう一つのテーマパークを造るのは冒険だ。失敗すれば経営が傾くリスクさえある。」
そう感じていたのは、当時、常務だった加賀見俊夫。 1936年、東京都生まれ。 大学卒業後、京成電鉄に勤務していた加賀見は、オリエンタルランドの業務も兼任することとなり、運命に導かれるように、東京ディズニーランドの開発や運営に携わることに。

第2パークをどんなパークにするか? コンセプトを考え決定するのは、あくまでアメリカのディズニー社。 そんな彼らが提案してきたのは、映画スタジオをテーマとしたパークだった。
映画スタジオをテーマとしたパーク自体は、まだアメリカのディズニーテーマパークにもなかったが、ディズニー社はこの1年後に『映画スタジオがコンセプトのテーマパーク』をフロリダに完成させた。

オリエンタルランドの幹部は、現地を視察。
すると…「映画スタジオをテーマにする方向で、進めても良いのではないか。」
そんな空気が、日を追うごとに、輪郭を持ち始めていた。
その頃、髙橋は…「映画スタジオをベースとしたテーマパークが、果たして今の日本で国民の関心を呼び、何度でも訪れるような魅力を持つだろうか?」と疑問を持っていた。
その想いは、加賀見も同じであった。

なぜなら、当時の日本の映画興行収入は、年間およそ1700億円であり、北米のわずか4分の1にも満たなかったからである。
そして「日本のゲストが満足でき、何度でも来園したくなるパークでなければならない」…その想いを何よりも大切にしてきた髙橋。 社内の会議で「ある意向」を伝えると、それがオリエンタルランドの統一見解となった。

そして、日本で行われたディズニー社との会議で、その意向を社長・ウェルズを筆頭とする、首脳陣に伝える事となった。 「白紙に戻し再検討」…それが髙橋の意向だった。
映画スタジオがテーマのパーク作りに、相当な自信を持っていたディズニー社は、落胆の色を隠せなかった。

それから半年も経たない 翌92年2月、再びウェルズ社長が来日。 白紙に戻すという大胆な提案をされたにも関わらず、日本の意見に寄り添い、新たな第2パークの企画案に『セブン・シーズ(7つの海)』という構想を提示したのだ!
東京ディズニーシーの企画・設計・施工などを担当した『ウォルト・ディズニー・イマジニアリング』の一人、マルホーランドさんは、当時をこう振り返る。
マルホーランド「東京のテーマパークに『海』というコンセプトが相応しいと思った理由は、東京湾に面しているからです。あの壮大な景色を生かしたいと私たちは思いました。まるで、東京湾がすぐそこにあるかのような、そんなパークにしたかったのです。」
浦安沖の海の上にできた土地に、再び『海』を創造する事にしたのだ。

プロジェクトが動き出すと、ウェルズはアメリカから幾度となく来日し、髙橋や加賀見はもちろん、若手の社員に至るまで、どんなスタッフの相談にも分け隔てなく乗り、時には熱く鼓舞したという。

そんな時だった…髙橋が長年連れ添った妻・弘子さんが病で天に召された。 髙橋の最大の理解者であり、その全てを支え続けた人だった。
実は…髙橋は、夢の国実現のために都心の一等地に建つ、広大な邸宅を手放していた。 それでも弘子さんは一言の文句も言わなかったのだと言う。

妻に先立たれ、さすがに寂しさから気落ちが感じられた髙橋は、体調も優れない状況が続いた。
そんなある日、ウェルズからロサンゼルスに招待されたのだ。 体調が悪い髙橋のために、医者や看護師まで手配をするから、絶対に来て欲しいと言われたのだ。

ウェルズからの強い要望を受けた髙橋は、精密検査を受けた上で渡米。 出迎えたウェルズは「ロサンゼルスへ、ようこそ。無理を言って、すみません。でも、どうしても、お招きしたくて…大切な友人としてね。今回はのんびりと気分転換なさってください。」と言ったのだ。

このことについて、加賀見さんはこう話してくれた。
加賀見「どうしたら元気になるかと、その手段としてロスに来いよと言ったと思う。ロスに来れば気分転換になると。プライベートジェットを東京に迎えにやるよと。そのくらい、髙橋さんを大切にしてくれた。」
その後も、事あるごとにウェルズは、髙橋や加賀見を食事などに招待してくれたという。
マルホーランド「彼はオリエンタルランドが大好きでしたし、一緒に働くのも好きでした。印象的なのは、彼らを夕食に誘っていたのですが、時には 家族まで招待していたことです。」

なぜ、ウェルズは、そこまで日本に寄り添ってくれるのか? その根底には『ある出来事』が関係していた。 実はウェルズは、『冒険家』としての顔も持っていた。
そして、ディズニー社の社長に就任する前に、南極大陸の最高峰『ヴィンソン・マシフ』に挑んだ時のこと…
加賀見「すごい山が荒れて(登頂は)厳しかったそう。その時 助けてくれたのは日本人なんですよ。三浦雄一郎ですよ。その後 二人は仲良くなった。そういう関係もあってか、すごく日本に対する信頼があった。」

実はこの時、ウェルズは三浦率いる日本チームと合同で登頂に挑戦。 途中、ウェルズは初期の凍傷になってしまったのだが、その際、三浦が自分の荷物やスキー道具一式を持っているにもかかわらず、率先してウェルズの装備を全部背負ってくれたのだという。 その結果、無事に登頂に成功したのであった。
この登頂後、ウェルズはこう語っていたという。
ウェルズ「三浦という男は、私が出会った世界中の人間の中で誰よりも素晴らしい人格の持ち主だ。私はこの出来事を一生忘れない。」
極限の中で、支えてくれた日本人への感謝と敬意。 ウェルズの日本側への言葉や行動の根底には、その時の感謝の気持ちが常にあったのだという。

ロサンゼルスでは『7つの海』をテーマに、より具体的なパークの内容がウェルズ社長よりプレゼンされた。
そこには『冒険とイマジネーション』にあふれる、個性豊かな7つのテーマが盛り込まれるなど、現在の東京ディズニーシーの考え方が既に存在していた。

5年後の開園は実現しなかったが、それでも着実に歩みを進めていた頃…誰もが想像を絶する出来事が起こった。 ウェルズが、スキーから帰る途中、ヘリコプター事故で亡くなったのだ。
体調が優れなかった髙橋の想いも預かり渡米した加賀見は、ウェルズ夫人の元へ。
加賀見「お互いに涙だけですよ。言葉にならなかったですね。最大の協力者でしたから、真っ暗になりました。」
髙橋の悲しみは、計り知れなかった。 それでも『第2パーク建設』に向け、漕ぎ出した船は、前へ進めなければならない…ウェルズの想いに報いるためにも。

アメリカでは、『セブン・シーズ(7つの海)』というテーマに沿って、マルホーランドを始めとした『ウォルト・ディズニー・イマジニアリング』が、各アトラクションの具体的なデザインのプランを練り始めた。
その責任者が、スティーブ・カーク。 それまでも、世界各国のディズニーテーマパークの企画・設計などを25年以上も手掛けてきたベテランである。

一方、オリエンタルランドでも、5人のコンセプトチームを編成。 アメリカのデザインチームに加わり、日本側の要望を出しながら、プランをブラッシュアップしていくことに。 髙橋は、5人にレポートを書かせ、意見を聞く機会を度々設けた。 自らの想いを心底理解してもらうために一人一人と何度も議論を重ねた。
そしていよいよ、コンセプトチーム、渡米の時…髙橋はチームメンバーにこう伝えた。
「何度でも行きたくなるほど満足させる。そんなパークにするには、日本人の感性や文化の要素もきっと必要だ。それをディズニー社へしっかりと伝え、理解してもらう。」

渡米した5人は早速、イマジニアリング・チームから、具体的なパークの内容についてプレゼンテーションを受けた。 メンバー達は、冒険をモチーフにしたあまりに壮大な世界観と、想像を超える発想に圧倒されていた。
そんな中、日本のコンセプトチームが不安に感じたのは、テーマパークの象徴となる『シンボル』。 東京ディズニーランドにおける『シンボル』はシンデレラ城だが、ディズニー側が第2パークのシンボルに選んだのは…灯台
アメリカでは、冒険の象徴、祖国に戻ってきた時のシンボルというイメージが強いという。

ミーティングを終え、一時帰国したコンセプトチームから髙橋は報告を受けた。 日本では、灯台に孤独・哀愁のイメージを持つものも多い。 そう思っていた髙橋は、新しいシンボルのイメージを語り始めた。
「大きな水の惑星!それをイメージしたんだ。尊さと温かさがあり、それを見ると誰もが愛情を感じるもの…それこそ、地球なんだよ!」
ディスカッションでディズニー側にイメージを伝える…コンセプトチームに、重要なミッションが加わった。

再び渡米すると、ディスカッションの前に『ウォルト・ディズニー・ワールド』を1週間かけて見学する行程が組まれていた。 アトラクションの成り立ちや世界観などはもちろん、どんな人をターゲットにどう作られているのかなどの細やかなレクチャーが連日行われた。
しかし、そのあまりに膨大な量の情報を処理することすらままならず、想いを伝えるためのスタートラインすら見えない状況だった。 時期を見て渡米した加賀見も、疲弊している部下達を前にどうすることもできなかった。

そんな中、いよいよ始まったディスカッション。 カークはまず最初に「第2パークへの想いを率直に聞かせて下さい。」と聞いてきた。
連日の細かなレクチャーもあって、必要以上に構えていた5人にとっては、拍子抜けするほどシンプルな質問だった。
そこで、「とにかく楽しくて、何度でも行きたくなる。明るさに溢れたロマンティックな場所。日本人にとっては、それが『海』なんです。第2パークは、そんな場所にしたいんです!」と伝えた。
すると、カークはこう言った。
「よかった、間違っていなかったようだ。とにかく楽しくて、何度でも行きたくなる場所、そうゲストに思われることが、我々のテーマパーク造りの原点なんだよ。」

カークたちのおかげで、緊張がほぐれ、原点にある想いを再認識した日本チームは、日本人が好む趣向について活発に発言。 その後のシンボルについてのディスカッションでも、髙橋の想いをストレートに伝えた。
こうして日本チームのアイディアを採用したカークが具現化させたシンボルこそ、東京ディズニーシーの入り口の前でゲストを迎える『ディズニーシー・アクアスフィア』である!
下から噴き上げる水に支えられた大きな惑星。 迫力と温かさを持ってゲストを迎えるパークの象徴。 日本とアメリカの様々な想いが愛となり、見る人全てを魅了するシンボルへと昇華したのだ。

そして、その全ての想いを間近で見続けてきた加賀見は、それを自らの言葉に変え、伝えた。
加賀見「当初の提案にあった冒険色の強いイメージから、ロマン溢れるパークへ!私たちの要望はこれに尽きます。モア・ロマンティック!」

加賀見さんはこの時の想いを、こう話してくれた。
加賀見「ハート。愛だとか、単に楽しいだけじゃなくて、どういう形でそこに愛情を注ぎ込んでいけるか。単にビジネスだけで進めたら、うちの会社はどこかで挫折したと思う。時には損してもいいからやろうとか。ハートをどうビジネスの中に導入していくかというのが大きいと思います。」

模型が作られ、各エリアやアトラクションの形がより具現化された頃、髙橋は会長職を退き相談役に。 加賀見は社長に就任。
そして構想がほぼ固まり、いよいよ建設が動き出す。 ところがそんな頃、齢85を過ぎた髙橋は体力の衰えが徐々に目立ち始め、持病の心臓病も悪くなっていた。

髙橋は、病床でも…東京ディズニーシーのことを気にかけていたという。
髙橋「後は100%君に任せる。思う存分やってくれ。」
それが髙橋と加賀見の最後の会話となった。
葬儀の後、加賀見は、髙橋を乗せた霊柩車を先導し、建設中の東京ディズニーシーの外周を回った。

その後、髙橋の思いを背負った加賀見がプロジェクトを牽引。 そして1年後、ついに東京ディズニーシーがオープン!
実は、そのオープニングセレモニーが始まる前まで、小雨が降っていたのだが…
加賀見「式典の時は晴れて、御光が差した。我々は『髙橋さんが見てくれている』と思った。東京ディズニーシーのオープン日、9月4日、これは髙橋さんの誕生日なんです。髙橋さんの気持ちを残していかなくてはいけない。その想いは、いまだに心に中にあります。」

もう一人、その大きな功績を忘れてはならない人物がいる。
東京ディズニーシーのテーマを決めただけでなく、頻繁に来日しては日米のスタッフの心の架け橋となったディズニー社のフランク・ウェルズである。
オープン前日のセレモニーでは、ウェルズ夫人がこう語った。
ウェルズ夫人「フランクは、どれほどこのパークの完成を喜んでいることでしょう。」

実は、東京ディズニーランドにも東京ディズニーシーにも創業時、それを記念し石碑が建てられている。 東京ディズニーランドでは、ディズニー社とオリエンタルランド、想いはそれぞれのレリーフに刻まれているが、東京ディズニーシーではレリーフは1枚。 そこに髙橋とウェルズ、それぞれの名が並び、こう刻まれている。
「東京ディズニーシーは、この二人の情熱と夢から生まれました。彼らの努力と信念は、永遠に私たちの心に生き続けることでしょう。」