東京都内の名門高に通いながら、成績 最底辺だったヤンキーが抱いた夢。
それは…「俺は、人生をかけて、世界平和を実現する」
誰もが、無理だと思っていた。
だが彼の抱いた夢は…世界の片隅に大きな奇跡を起こすことになる。
三重県志摩市にある公立の総合病院、志摩市民病院。
今から8年前、三重大学附属病院の総合診療科から、ひとりの新人医師が派遣されてきた。
江角悠太、当時33歳。
だが、その病院は…どこか奇妙だった。
およそ5万人をカバーする市民病院でありながら、何故か患者が少なかったのだ。
半年経っても、その状況は変わらなかった。
志摩市民病院は、戦後、住民たちの希望で設立された公立の総合病院だった。
だが、過疎化で人口が徐々に減少。
さらに医師が都会を好む傾向もあり、どんどん病院を離れ…悠太が入る以前は、常勤医が院長を入れて3名のみ。
しかも外科2人に整形外科1人と、総合病院の体をなしていなかった。
そのため患者を断るケースが増え、結果、住民の信頼を失い、訪れる人はさらに減少。
元々、公立の病院には、市から補助金が出るのだが、市の想定を大きくオーバー。
年間、およそ4億円もの金額がさらに税金などから賄われていた。
そんな状況に見切りをつけ、看護師20名が一斉に退職。
やる気のあるスタッフがどんどん辞めていき…人員不足により、90あった病床は40にまで減らされた。
そして、悠太の着任からおよそ1年後…院長ふくめ、他3名の医師の退職が決まった。
事務員や看護師はいたものの、医師はついに新人の悠太1人になってしまう事が決定したのだ。
三重大学附属病院の上司に状況を報告すると…「すぐ戻ってくるといい」と言ってくれた。
だが…「オレは、志摩市民病院を再生させようと思います」と返事をした。
さらに「志摩市民5万人を幸せにできずに、世界平和なんて実現できるわけないスから!」と言ったのだ。
上司に対し、世界平和と本気で口にする新人医師・江角悠太。
この発言の裏には、彼自身の波乱の半生があった。
さかのぼること、34年。
東京で江戸時代から続く、医師の家系に生まれた悠太。
父は医師で、後に国立がん研究センター東病院の院長を務める、エリート中のエリート。
さらに母も医学の研究者。
両親共に仕事に明け暮れ、家に帰ってくるのは夜遅く。
ようやく帰宅したかと思えば、口答えなど一切許されず…遅くまで塾に通わされる日々。
一生懸命勉強しても…父から褒められたことは一度もなかった。
長く続く医師の家系とはいえ、医者には悪いイメージしか持てなかった。
さらに悠太にとって怖い存在は、両親だけでなかった。
母方の祖父、こちらも医者だった。
祖父からは、「自分の力は、自分勝手をするためにあるんじゃない。世の中のため、人の為に使いなさい」と言われた。
両親や祖母からも言われたその言葉は、小さな胸に刻みこまれ…なかった。
高校生になると悠太は、立派なヤンキーへと成長。
まったく勉強せず、成績は最底辺。
警察の厄介になることも度々で、世の中のためどころか、逆に世間に迷惑をかける始末。
さらには、高校2年の修学旅行で、旅館にあった絵画を台にして、麻雀。
ちょっとしたイタズラ心。
バレても怒られる程度だと思っていた。
だが、今までの素行の悪さもあり、退学処分になるはずだったのだが…悠太の担任が反対し、他の教師を説得。
何とか退学だけは免れた。
後日、そのお礼を言おうと担任の元を訪れた時、こう言われた。
「人からの信頼を崩すのは一瞬、崩した信頼を取り戻すのは一生だぞ」
「いいか?これから、おまえは一生かけて信頼を取り戻すんだ。そして、誰にも恥じることのない生き方をするんだよ。」
自分と正面から向き合ってくれる存在…悠太は救われた思いがした。
だが、その一方で…父との仲は相変わらずだった。
その、数ヶ月後。
悠太は医者になることを決意した!
一体…何があったのか?
実はその少し前、時間をつぶす為にと見た、一本の映画が影響していた。
その映画とは…実話を元にした作品『パッチ・アダムス』。
主人公の医師、パッチ・アダムスは、貧しい人々が無料で医療を受けられる病院を設立し、ユーモアと愛情で患者を幸せにした実在の人物。
当時 話題になっていた映画だった。
悠太は、感受性が豊かな高校生だった。
すでに高校3年生の4月。
それまで全く勉強をしていなかった為、中学生で習うことも忘れているレベル。
それでも悠太は、先生に頼み込み、猛勉強を開始。
そして…二浪の末、三重大学医学部になんとか入学した。
こうして、医学生となった悠太の胸には、ある夢が芽生えていた。
悠太の目標はパッチ・アダムスからさらに進化、世界平和の実現になっていた。
どんなことをすればそれが可能なのか、具体的な方法までは思いついていなかったが…ことあるごとにその夢について語った。
そして…ドン引きされていた。
学生たちに人気だったのは、皮膚科、眼科、整形外科など。
患者の命に関わる科は、多忙や責任の重さを理由に敬遠されている様に感じたという。
その後も世界平和への想いを抱き続けていた悠太。
彼の人生に決定的な出来事が起こったのは、沖縄の病院で研修医として2年間を過ごし、三重に戻ろうとしていた2011年3月のこと…東日本大震災が発生。
二週間後、悠太は後輩数人と福島県いわき市へ駆けつけたのだが…『もう医者はたくさん来てるから。大丈夫です。』と突き返されてしまった。
大丈夫なはずがない、と食い下がると…
『実は原発30キロ圏内は誰も行っていない。そこに300人住んでいることは知っている、けれど誰も行っていない。そこに助けに行ってはいけない決まりになっている。行きたいなら自分たちで行け』と言われた。
取り残された300人を見捨てるわけにいかない。 原発30キロ圏内に入り、救助活動を行なった。 悠太たちの行動に触発され手伝ってくれる人が現れはじめた。そして4日後には制度が変わり、30キロ圏内で医療活動を行なって良いことになったという。 制度や政策からこぼれる、少数の人を助ける…そのシステム作りこそが、全ての人を幸せにできる道なのかもしれない。 悠太の目には 原発30キロ圏内と、過疎化が進み誰も行きたがらない日本の田舎がシンクロして見えた。
悠太さんはこう話してくれた。
「地球規模で少子高齢化、人口減少が予想されているのであれば、日本の田舎で起こっている少子高齢化、人口減少の問題を解決できる方法が、これからすべての国々の人々を助けられる方法になるんじゃないかなという方程式が立ったので、やっとそこで、今まで結びついてなかった全ての人を幸せにするという目標と、医者という手段が結びついて、あとは突き進むだけだ。僻地の医療を作り直す。そこから田舎や僻地を専門とする医師を志した。」
そして悠太は、内科や整形外科、皮膚科、小児科などあらゆる患者を診る医師である総合診療医となり、三重大学医学部でさらに3年の勉強を重ねた。
そして今から8年前、悠太は自ら希望し、過疎化が進む志摩の市民病院に派遣されてきたのだ。
だからこそ、院長ふくめ他3名の医師の退職が決まり、自分一人になったとしても…病院に残ることを選んだのだ。
こうして、志摩市民病院の運命は、4ヶ月後、院長に自動的に就任することになる、1人の新人医師に委ねられた。
とはいえ、赴任して1年ほどの悠太には、病院が住民から本当に必要とされているかどうかもわからなかった。
そこで、志摩市民300人から話を聞いた。
住民たちは、巨額の赤字を出す市民病院を 税金の無駄使いと非難。
存続を望まない声が多かった。
だが、病院の近くに暮らす高齢者が反対の声をあげた。
市民病院の北には県立病院があったのだが、交通の便が良くないため、高齢者や体の不自由な人が通うのは困難。
もし、志摩市民病院がなくなれば、高齢者の多い志摩市の医療は崩壊する危険性がある。
さらに、この時、病院には近くに住む高齢者を中心に30人近い入院患者がいた。 だがこのままでは、3ヶ月後の4月には、悠太以外の医師がいなくなってしまう。 それまでに悠太を含む常勤の医師、3名を確保する必要があった。 出来なければ、規定で病院の規模を縮小せざるを得ず、3分の1近くの患者は入院させておくことができなくなる。 志摩市の人々のため、なんとしても病院を存続させなければならないと考えた悠太だったが…巨額の赤字を抱えた過疎地の病院への赴任を引き受ける者など、そう簡単に見つからなかった。
医師を確保するため、探す範囲を関東にまで広げた。 そして、行き先の決まっていなかった若手を見つけ、常勤の医師を一人確保する事ができた。 さらに、同級生や後輩たちに声をかけ、非常勤の医師になってほしいと頼み込んだ。 結果、常勤の医師3名分の勤務時間をまかなえる人員をぎりぎり確保。 病院の縮小をなんとか免れる事ができた。
こうして、正式に院長に就任した悠太。 だが、まだ問題は山積みだった。 スタッフたちは市民から給料泥棒などと言われ、働く意欲を失っていた。 彼らのモチベーションはもちろん、赤字の面でも病院再建のメドは全く立っていなかったのだ。
悠太は、あらゆる患者を診る総合診療医という自らの特性を活かし、どんな患者も断らず、住民の信頼回復に努めると決めた。
患者を絶対に断らない…それは口で言うほど簡単なことではない。
医師も看護師も圧倒的に数が足りないのだ。
総合診療医として、ひとりであらゆる患者を診る一方…担当患者一人につき、作成しなければならない書類は大量にある。 その上、院長として病院の経営や市との折衝など、仕事は山積み。 さらに、入院患者の急変に対応するため、病院に泊まり込むことも多かった。 月曜に病院に来て、金曜の夜に帰宅する事もあった。
志摩市民病院には解決しなければならない重大な問題があった。
それは、院内の風通しの悪さと、スタッフ同士の繋がり。
そこで、悠太が考えた秘策が…皆で協力する事が必須のイベントを実施することで、スタッフの連帯感を高める。
さらに病院内を公開し、住民たちに親近感を持って貰おうと考えたのだ。
だが、多忙な悠太は祭りの準備にさほど時間を割けない。
スタッフの自主的な協力が不可欠だった。
立候補してくれたスタッフが中心となりプロジェクトチームが発足。
4ヶ月後に行われる本番に向け、様々なイベントを考案。
どうすれば住民に喜んでもらえるか?多忙な仕事の合間に必死に知恵を絞った。
こうして病院内の雰囲気は、少しずつ良くなっていった。
だが、人手不足は依然 解消されず、住民のニーズに十分応えられる状況ではなかった。
そこで悠太が打った手は、体験学習生の受け入れ。
医学部や看護学部の学生の受け入れは他の病院でも行っている。
その対象を高校生や中学生まで広げ、医療経験の全くない若者たちに患者と直接触れ合ってもらい、患者にできるだけ寄り添ってもらおうと考えた。
反対意見が多かったが、悠太が説得。
一度実施してみることになった。
これが、予想を超える効果を生む。
体験に来た学生が、終末期の入院患者のケアをしていた時のこと…、「何かしてもらいたいこと、ありませんか?」と聞くと、患者に、「本当はね、うちに帰りたいの…でもね、迷惑かけちゃうでしょ」と言われた。
それまでスタッフらは、彼女自身が病院で最期を迎えることに納得していると思っていた。
だが…優しく寄り添う女子学生につい、本音を漏らしたのだ。
すぐに家族と話し合った結果、自宅で穏やかに最期を過ごすことができた。
1人の人間として、患者と真摯に向き合う学生の姿。
それを、目の当たりにした病院スタッフたちもまた…患者と真摯に向き合うようになっていった。
そして10月、4ヶ月にわたって準備が行われてきた病院祭が開催された。
「100人来るのがやっとだろう」、当初はそう思われていた。
だが工夫をこらした出店の食べ物は、1時間で売り切れ。
さらに、子ども向けの医師や看護師に仮装できるコーナーなども大好評。
目標を大きく上回る、1500人もの市民が病院を訪れてくれた。
すると、院内にもある変化が…患者が少しずつ増えていっただけではない。
働くスタッフの意識そのものが変わり始めたのだ。
病院のため、地域のため、何か出来ることはないか?
それぞれが自分で考え、行動するようになった。
だが、そんな時、志摩市民病院を再び存亡の危機が襲う。 激務が続く病院の仕事に常勤の医師が退職。 再び、医師不足に陥ってしまったのだ。
さらに…祖父がガンに侵され、余命いくばくもないと知らされた。
そして一週間後、在宅療養の末、95歳でこの世を去った。
葬儀の際、祖父の近しい人から聞いて悠太は初めて知った。
祖父が地域医療に熱心に取り組み、多くの人に愛され尊敬されていた医師だったことを。
病院へ戻った悠太は、また寝る間を惜しんで働き続けた。 確かに、悠太の行動で周りの人々は変わった。 だがいくら探しても、病院に来てくれる常勤の医師は見つからなかった。 過疎化が進む地方の病院のおかれた現状は、それほど切迫したものだった。
病院を信頼し、やってくる患者が増える一方、毎日病院にいる医師は悠太一人のみ。 もはや常勤医師が一人増えようとも、どうにもならないほどの状況だった。 だが、それでも懸命に働き続けた。 目の前の患者の幸せのため、今まで支えてくれた人たちの気持ちに応えるため。 そして、天国にいる祖父の想いに応えるため。
そんなある日…悠太の元を訪れたのは父だった。
いったい、どういうことなのか?
実は数ヶ月前、父が常勤医師になることを申し出てくれたのだ。
さらに…沖縄の研修医時代、ともに学んだ土田医師。
彼はそれまでの安定した病院の仕事を辞め、悠太と共に志摩市民病院で働くことを決めたのだ。
父と土田、二人の医師が来てくれたおかげで、医師不足という最大の問題が解決した志摩市民病院。
悠太の目指す、志摩市民5万人を幸せにする地域医療は、ようやくスタートラインに辿りついた。
悠太が院長に就任しておよそ4年。
悠太たち医師、そしてスタッフたちの頑張りにより、市の想定をオーバーし、税金などから賄われていたおよそ4億円のほとんどを解消する事が出来た。
現在、志摩市民病院は、志摩市全域の地域密着型の中核病院にまで成長しつつある。
頼もしい戦力として中堅の医師二人も、さらに常勤の医師として加わった。
そして救急が専門だった土田医師は、総合診療について1から学ぶため別の病院で研修を積み、およそ一年半後に帰って来るという。
悠太の挑戦は今日も終わらない。
いつか、本当に世界平和を実現できる…その日を心から信じているから。
年間およそ200人もの学生が研修に訪れている志摩市民病院。
研修を担当している清水さんは、1年半ほど前、自宅を新築。
実はこの家…学生たちのため。
周辺に宿泊施設が少なく、気軽に集まれる場所もなかったことから新築に踏み切った。
学生が20名ほど泊まる事ができ、家族のプライベートスペースは、10分の1ほどだという。
清水さんはこう話してくれた。
「学生たちに言っているのは、一緒に働くのもいいし、あるいは何か違う形でもいいから一緒に志摩に関わってくれたら嬉しいし、というのが非常にありますね。」
悠太さんは、数年前、実習に来た一人の医学生と出会った。 その学生は実習の初日に「自分はなぜ医者になるのかわからない」と言った。 彼は地域医療、僻地医療を充実させる助けるという志しで大学に入ったにも関わらず、周りから『そんなもの医療じゃない』と言われ、悩んでいた。 だが、1ヶ月の実習を終えたあと、地域医療や僻地医療という部分を患者さんからも応援され、病院のスタッフからもぜひそういう医者になってほしいと要望されて、もう一度、そういう医師になろうと決意したという。
彼のような思いを持った医師たちが、全国にいるのではないかと思った悠太さんは、地方創生医師団を設立した。
医学生や若手の医師の迷いを受け止め、解決する事がその目的だ。
メンバーは、全国の田舎で、高い志を持って医療活動を行なっている若手の医師たちだ。
悠太さんに今後の展望について聞いてみると…
「日本の僻地や田舎を同時に盛り上げて、同時にみんなで明かりをつけていくという方法が大事だなと思ったので今、その地方創生医師団で集まってきている、全国から来ている医師、看護師たちと問題を共有しながら、すべての田舎のそういう病院が同時によくなり、結果、病院きっかけでその地域が同時に住みやすくなる。日本のどこに都会に住もうが、地方都市に住もうが、田舎に住もうが、最期まで自分らしく生きがいをもって暮らせるというようなのを実現できれば、それが今後日本モデルとして、これからやってくる少子高齢化、人口減少に立ち向かうすべての国々に対してのロールモデルとして発信していければなと」