5月26日 オンエア
66年ぶりに明かされる国境を超えた真実とは?
 
photo

今から4年前、和歌山県。 和歌山大学で准教授を務める剛志(つよし)さんは、ある日、SNSを通して不思議なメッセージを受け取った。 送り主はアメリカに住む女性。 しかし、剛志さんの全く知らない人物であった。

photo

それから、3ヶ月後。 剛志さんは、アメリカにいた。 訪ねたのはテキサス州に住むシャーナさんと、その母・バーバラさん。
あのメッセージの送り主であった。 この訪問をきっかけに、バーバラさんの運命の歯車が66年の時を経て動き出すことになる!

photo

実は、剛志さんはメッセージのやり取りの中で、バーバラさんが大切に保管していた、今から69年前の新聞記事を受け取っていた。 そこには、木川洋子という少女が養女としてアメリカに渡る事になったと書かれていたが…この洋子という少女がバーバラさんであった。
1947年、神奈川県横須賀市で生まれた洋子さん。 父はアメリカ兵だったと思われるが、物心ついた頃にはその姿はなく、生まれた経緯などは、何も知らされなかった。 そんな彼女を育ててくれたのは、母・信子さん。 母と遊んだ、楽しい日々。 そして、とても優しかった母の姿を彼女は記憶していた。

photo photo

しかし、当時の日本人の多くは、敵国の血を引いた子供を『恥ずべき存在』と考え、差別的な目で見ていた。 同居していた祖父も洋子さんの事をよく思っておらず、辛く当たる事があった。
そのためか、5歳の時、児童養護施設に預けられた。 それでも時々、母は洋子さんに会うため、施設に来てくれていた。

photo photo

だが…1953年頃、日本とアメリカの間で国際養子縁組が認められるようになり、洋子さんもアメリカへと渡った。 だが、アメリカ兵の中には、特別手当が付くために養子縁組する者もおり…彼女は養父母から虐待を受ける事に。 さらに英語が話せなかった事もあり、学校でも激しい差別を受けた。
そんな彼女の心の支えとなっていたのが、実の母の存在だった。 記憶の中の母は、いつも優しかった。

photo

アメリカ移住から13年後、バーバラさんは高校卒業と同時に結婚。 19歳で子供を授かり、幸せな日々を手に入れた。 そんな中でも、彼女は生みの母を忘れる事は決してなかった。
しかし、年齢を重ねるにつれ…母の顔を思い出す事が出来なくなっていった。 しかも彼女は、母の写真を一枚も持っていなかったのだ。 そしてその事が、母にもう一度会いたいという想いをより募らせる事となった。

photo

すると、その話を聞いた娘のシャーナさんが、バーバラさんの母探しを開始。 しかし、分かっている事は、名前と住んでいた地域のみ。 そこで、SNSを使用している、バーバラさんの日本名と同じ『木川』という名字の人物に、手当たり次第にメッセージを送ってみたのだ。

photo

そのメッセージを受け取ったのが木川(きがわ)剛志さんだった。 だが、バーバラさんの親族でもなく、心当たりもない。
剛志さんは、こう話してくれた。
「当時、僕の子供もちょうど5歳だったんですよ。バーバラさんがアメリカに渡った歳と全く同じ歳だったので、今のこの子が誰も知らない所に…それも言葉も通じない所に行くってどんな感じなんだろうというのはすごく感じて、これは何かしなきゃいけないなという事に繋がったと思います。」

photo

こうして剛志さんは、ただ名字が同じというだけにも関わらず、バーバラさんの母親・信子さん探しを決意したのだ。
神奈川県横須賀市、秋谷。 ここでバーバラさんは母と暮らしていた。 養子縁組した際にバーバラさんが受け取った戸籍謄本には住所が書かれていたが、古い番地であり、現在の住所と照らし合わせると広い範囲を示していた。 もう一つ書かれていたのが、日本名である洋子と、母・信子さん、そしてバーバラさんの祖父にあたる長太郎さんの名前。

photo

これをヒントに剛志さんは行動を開始した。 自宅がある和歌山県から、仕事の合間を縫っては横須賀市を訪れ、二人が住んでいた地域を中心に徹底的に調査。 しかし、66年も前の話…有力な情報を得る事は困難を極めた。
それでも、彼は決して諦めなかった。 すると、調査開始から3ヶ月後。 この日、秋谷にある神社で豆まき行事が行われており、そこで聞き込みをしたところ…ついにバーバラさんの実の家族を知る人物と出会えたのだ!

photo photo

これにより、バーバラさんの祖父が『床長』という理髪店を経営していた事が判明。 そこでは他の理髪店が今も営業を続けていた。
実は秋谷の住民は、『木川さん』という名ではなく『床長さん』の名で当時呼んでいたため、なかなか情報を得る事が出来なかったのであった。
さらに、当時の記録を市役所で調べたところ、信子さんは1962年に横須賀市から東京都八王子市に移り住んでいた事実が分かり、剛志さんは八王子市役所で記録を調べた。 その結果、分かった事は…信子さんは、今から35年前の1987年にこの世を去っていた。

これで、剛志さんの調査も終了…かと思われた。 だが、剛志さんとバーバラさんの対面から1年後の2019年10月、剛志さんはクラウドファンディングによって集めた資金で、バーバラさんと娘のシャーナさんら、その家族を日本に招待した。 それは、バーバラさんにとって66年ぶりの帰郷であった。

剛志さんはバーバラさんが育った児童養護施設や、幼少期に訪れたであろう浜辺などへ案内。 だが、多くの場所はバーバラさんの記憶にある66年前の風景とは様変わりしていた。
しかし、来日3日目、一行が訪れたのはバーバラさんの祖父の理髪店であり、実家であった場所。 そこには、幼い頃に見た井戸がそのまま残っていた。

そして、その次に向かった場所…そこにある人物が待っていた。 母・信子さんと親しかった女性であった。
そう、剛志さんは、信子さんが亡くなっていたと分かった後も、彼女を知る人物がいないか探し回っていたのだ。 その結果、見つけ出す事が出来たのであった。 彼女は、バーバラさんは信子さんによく似ていると話してくれた。

そして、バーバラさんのために当時を知る多くの人も集まってくれた。 ここでも知らなかった母のことを知ることができた。
さらに…「名前なんですけど、洋子(バーバラ)さんの名前は、多分 お母さんは日本人、お父さんがアメリカ人。洋子さんはそれを繋ぐ。オーシャン(大洋)、日本とアメリカを繋ぐ子(という意味)。多分、喜んで生まれた子だと思う。」
自分がどのように思われて生まれてきたのか…ずっと分からなかったその答えが少しだけ希望に傾く、そんな時間となった。

来日5日目、この日、訪れたのは…東京・八王子市。 そこにバーバラさんの母・信子さんが眠っていた。
この旅で、全てが明らかになったわけではない。 しかし、剛志さんが、母・信子さんの足跡を辿らせてくれた事で、母が自分の記憶のとおり、多くの人に偲ばれるほど優しい人柄だったという事実、それだけはバーバラさんの心に刻まれた。 これが、この旅のクライマックスかと思われたが…この日の夜、母信子さんの生きた証、欠けていた大きなピースがもたらされることになる!

それは、母・信子さんが働いていた、八王子のベーカリー店の同僚女性と会った時の事だった。 母・信子さんの写真が2日前に見つかったというのだ! それは、実に66年ぶりに見る、母の顔であった。
こうして、およそ一週間に及んだ、母の足跡を辿る旅は終わった。 そして、バーバラさんは再び、アメリカへと旅立った。

バーバラさんは、こう話してくれた。
「私自身の残りの半分を探す旅でした。欠けていた部分が沢山ありましたが。それを埋める事ができた旅でした。剛志が私の人生のために成し遂げてくれた事に対する感謝を表す言葉が見つかりません。」

一方、剛志さんは、バーバラさんに対して、こんな事を…
「僕の人生は、この事で大きく変わったと思います。やっぱり色んな事あって、今戦争もあるし、人間っていうものの醜さっていうことを感じる事が多い世の中ですけども、人間の強さと美しさということを、バーバラさんは僕に教えてくれたので、向こうは僕の事を恩人と思われてるかもしれませんが、僕にとって彼女は僕の人生の恩人なのかなって思いますね。」