見ているだけで、食欲がそそられる、中華料理。
今や、日本人に欠かせないグルメとなっているが、皆さんご存知だろうか。
中華料理が、これほど全国の一般家庭に広まった裏側には…一人の日本人女性の存在があった事を。
今から88年前、一人の少女がこの村に連れてこられた。
小堀洋子、当時3歳。
彼女は、酒店を営む両親と東京で暮らしていたのだが、母が病気になったため、親戚の家に預けられる事に。
だが、両親が迎えに来ることはなく、気付けば、その家の養女となっていた。
親戚は、洋子を本当の娘の様に育ててくれたのだが…『親に捨てられた』という思いが消えることはなかった。
そして19歳になった彼女は、ある決心をする。
それは、東京で自立した生活を送るという事。
都会に出て来た洋子は、中国人の要人が暮らす屋敷で、家政婦として働き始めた。
当然、その家では中国語が飛び交うのだが…洋子は、中国語も分からず、この仕事に就いていた。
それでも少しずつ言葉を覚えていき、2年ほどで日常生活に必要な中国語はマスター。
そして、上京して4年、彼女は別の屋敷で、新たに雇われた中国人コックの通訳をする仕事をすることになった。
そして このことが、洋子の人生を大きく変えることになる。
その料理人こそ…陳建民!
後に、中華料理の神様と呼ばれることになる人物だった。
後に東京・赤坂に『四川飯店』をオープンしたことにより、中華料理を日本中に広めた陳。
ちなみに息子は、かつて放送されていた番組、『料理の鉄人』でも活躍した…陳建一である。
しかし、中華の神様も当時はまだ来日2年目、全く無名の料理人だった。
初めて会った時、陳は洋子に一目惚れ!
こうして陳の通訳兼助手として、働く事になったのだが、陳は常に洋子にくっ付いて離れないようになった。
洋子には、彼がなぜ付いてくるのか、分からなかったのだが…働き始めて数週間後の事。
陳からプロポーズされたのだ!
だが、陳には、四川と香港に家庭があると言う!
実は、当時の中国は、経済力のある男性が数人の女性を養い、家族を持つことが出来る、事実上の一夫多妻制だったのだ。
中国人男性にとって、多くの妻を持つ事は、成功者の証でもあったのだ。
だが、洋子はこれを断った。
その後も、陳は毎日のように結婚を申し込んだ。
すると次第に、洋子もその状況に慣れていき、陳の事を可愛い人だと思うようになった。
さらに、料理に対して真剣に向き合う姿や、優しい一面を日々感じるようになった。
洋子が陳の元で働き始めて2ヶ月後。
陳は洋子の誕生日に赤い靴をプレゼント。
そして、プロポーズをした。
洋子はこのプロポーズを受けた。
この時の事を、彼女はのちにこう語っている。
「何か嬉しかったんだね。それでついそうなっちゃたんだねえ、赤い靴と一緒にさ。結婚してください、いいよって初めて言った。根負けってとこかな。」
出会ってわずか2ヶ月、2人は結婚。
その後、長女・高子、長男・建一という2人の子供にも恵まれた。
これで幸せな日々が送れる、洋子はそう思っていた。
だが、突然、陳がカナダに行きたいと言い出した。
実は、陳には若い頃から『放浪癖』があった。
一箇所に長く留まる事をせず、働く店も次々と変えている過去があったのだ。
その後も、彼は毎日のように『カナダに行きたい』と、言ってきかなかった。
家族になったのに、一家の主人が海外に行きたいなんていうことは洋子には信じられなかった。
実は、陳は中国の農家で、10人兄弟の末っ子として生まれていた。
父親が病死し、家族は離散。
母と貧しい生活を送っていた。
そして、10歳で母とも離れ、料理人として働き始めた。
家庭の温かみなど、ほとんど味わうことのないまま。
その結果、中国で結婚し家庭を築いても、家族を残して別の土地を放浪するような生活を送っていた。 仕事のためなら、それが当たり前。 いつしか陳は、そう思うようになっていたのだ。
そこで、洋子は陳に家族の愛情を知ってもらいたいと、暖かい家庭づくりに全力を注ぐことにした。
すると…いつしか、陳はカナダに行きたいと言わなくなった。
「夫に家族の愛を知ってもらいたい」そんな洋子の気持ちと行動が、陳を日本にとどめることになったのだ。
その後、陳は政界などの要人に向け料理を振る舞い、徐々にその名が知られるようになっていった。
そして結婚から5年。
日本中に中華の味を広めるきっかけとなった店、『四川飯店』をオープンした。
だが、洋子は料理を食べて、こう言った。
「この辛さ、普通の日本人だと受け付けないと思うわ。」
本場の中華料理は当時の日本人にとって、辛すぎたのだ。
それまで、陳が要人たちに四川料理を出していた時は、本場中国の料理が味わえることをステイタスに感じていた者が多く、辛さが問題になることはなかった。
だが…四川飯店は、中華料理に馴染みのない、一般のサラリーマンや家族連れがターゲットだった。
このままでは、多くの日本人は食べたがらない、洋子はそう感じたのだ。
例えば麻婆豆腐。
本場のものは黒い山椒がたっぷりと使われ、とても辛かった。
料理の中には、日本人の舌に合わないものもある。
そこで陳は、四川料理の看板をかかげてはいるものの、日本人向けにアレンジすることを決めたのだ。
また本場のエビチリも、豆板醤を大量に使用するため、日本人にとっては辛すぎた。
そこで…同じ赤さを出すため、ケチャップを使うことを思い付いた。
そこに卵を加え、まろやかにしたものこそが…今、我々が当たり前のように食べている『エビチリ』である!
さらに、洋子のアイディアをもとに陳がゴマ風味のスープを加え、完成させたものこそ、日本人が知るあの担々麺である!
さらに洋子は、思いもよらぬ行動に出る。
夫が中国に残してきた妻や、その子供たちを日本に招待し、再会させたのだ。
その後、陳建民は「美味しいものは皆が作れたほうがいい」と、自分のレシピを弟子たちに惜しみなく教えていった。
その結果、日本中に陳が考案した、日本人の口に合う中華料理が浸透していき…今や、我々の食卓にも欠かせない料理となったのだ。
そして、今から31年前に陳建民さんが、その8年後には洋子さんが天国へと旅立った。
二人亡き後、四川飯店は息子の建一さん、そして孫の建太郎さんが、その味を守り続けている。
陳建民さんが日本人流にアレンジした料理は、他にもある…それが回鍋肉。
実は本場四川のものはというと…キャベツではなく、葉にんにくが使われていました。
しかし葉にんにくは、当時、日本では入手しづらかったため、建民さんは代わりにキャベツを使いました。
それが今、私たちがよく知る回鍋肉になったんです。