9月9日 オンエア
産みの母を探す女性 たどり着く驚愕の真実とは!?
 
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スウェーデンのストックホルムに住むマリアは、家族を何より大切にする両親に育てられ、幸せな生活を送っていた。
だが、いつも心のどこかに引っかかるものを抱えていた。 それは…スカンジナビア系の白い肌の両親に対して、自分は褐色の肌であること。

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マリア、そして血の繋がりはないが弟であるダニエルは、ともに当時貧困のため国際養子縁組を多く活用していた南米のチリから、その受け入れに積極的なスウェーデンに住む養父母の元に預けられた。
養父母と、マリアたちは本物の家族になっていたが、彼女は大人になったら自分のルーツを探してみたい…そう思っていた。

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マリアが11歳になった時、母は彼女に養子縁組の書類を見せてくれた。 産みの母について、当時、養母から聞かされたのは、住み込みのメイドをする10代の少女だったということ。 マリアの兄に当たる子どもを両親に預けて働いていたが、大変貧しく、生まれたばかりの赤ん坊の幸せを考え、マリアを手放したということ、それだけだった。

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そして時は流れ、20歳を迎える頃、マリアは自分と両親を引き合わせたスウェーデン国内の養子縁組センターを訪れた。
ところが、マリアの情報は書類に載っている以上のものはないため、チリ本国に問い合わせてみるしかないという。

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どんな些細なことでもいいから、産みの母について知りたかったマリアは、それから3年後、ついに北欧のスウェーデンから13000キロ離れた、生まれ故郷である南米のチリへ飛んだ。
ところが、チリの家庭裁判所は個人情報の開示を拒否。 その後も手がかりを求め、児童福祉局などを回ったが、産みの母親の現状に関する情報は得られず。 結局、何の成果もないまま帰国した。

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それはマリアがチリから帰国して、5年ほどが経ったある日のことだった。
なんと、母親探しをする中で知り合いになっていたチリ人のジャーナリストが、調査の結果、マリアの産みの母親に当たる人物と実際に会うことが出来たというのだ。
しかし、今は別の男性と結婚し、子どももいることから、マリアと直接会うことは難しいとのことだった。

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後日、二人は電話で話をすることだけは許された。 そこで母は意外なことを言った。
「これだけは信じて。私はあの時、あなたを養子に出すつもりなんてなかった。あなたは…盗まれたのよ。」
もちろん当時、産みの母は探そうとしたが、何もわからず、途方に暮れるしかなかったのだという。

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盗まれたとは一体どういうことなのか? 真相を知りたいと思ったマリアは、スウェーデン養子縁組センターの責任者に会いに行った。
だが、結局、養子縁組センターに行っても、新たな情報を得ることはできなかった。 この先、母と直接会うことも叶わない以上、もはやどうすることもできない。 こうして産みの母探しの旅は終わったかに思えた。

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だが、それから14年後、驚愕の真実が明らかになる!
その頃 マリアは、すでに結婚し、オーストラリアへ移住。 3人の男の子にも恵まれ、幸せな毎日を送っていた。 一方で、会えないままの生みの母親への思いが心から消えることはなかった。

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そんなある日、彼女はチリ国内で放送された養子縁組をテーマにしたドキュメンタリー番組の存在を知る。 番組を見て、やはり諦めきれないと思った彼女は、かつて母探しに協力してくれたジャーナリストに再び連絡を取り、調査を依頼した。
すると、そのジャーナリストから、チリで保管されている、かつては見せてもらえなかった養子縁組の書類が手に入ったという連絡があった。 そして…「チリ側の記載内容には間違いや記入漏れが多数あり、公式書類としては異常なほどずさんでした。不正に行われた養子縁組だった可能性が非常に高いと思います。」ということだった。

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自分のルーツを探り始めてから、すでに20年以上。
ショックを受けつつもようやく確かだと思える情報を手に入れたマリア、そんな彼女が次に考えたのは、自分と同様にチリから養子でやってきた弟・ダニエルのことだった。 ダニエルは幼い頃から外見のせいで、いじめられてきたこともあり、大人になったあとも鬱に苦しみ、睡眠薬なしでは眠れない。

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マリアは以前入手できなかった自分の書類が手に入ったということは、血の繋がらない弟・ダニエルの母も探せば見つかるかも知れないと考えた。 もし見つけることが出来れば、生きることに苦しんでいる彼が前向きになるきっかけを作れるかもしれない。
彼女は、同じジャーナリストにダニエルの情報を送り、産みの母探しを依頼した。

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すると…調査の結果、産みの母親が見つかったとの連絡が。 マリアは一度話をしたいとのメッセージを、ダニエルの生年月日などの情報を添えて送った。 すると、帰ってきた返事の内容は、あまりに衝撃的なものだった。
「仰る意味がわかりません。確かにその年のその日、私は出産しました。でも、その子は生まれてすぐ、死んでしまったんです。」

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だが実はマリアにとってこの答えは、大きな驚きではなかった。
なぜなら、今回彼女を動かすきっかけとなったドキュメンタリー番組、その内容というのが… 1970年代から80年代、盗まれたり、死んだことにされたりして、海外へ養子に出された子どもが、チリには2万人近くいるのではないかというものだったからだ。

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番組によれば、子供を奪い取っていたのは、養子縁組の斡旋業者だったと言う。 斡旋業者は、医師や看護師など病院関係者を買収して、子どもを奪い取り、裁判所に申請。 認可する裁判官たちも買収していた。
こうして奪い取った子供を、純粋に子供が欲しい、または貧しい子供を救いたいという海外の養父母の元へ送った。 そしてそんな心優しい養父母たちから、活動費の支援などを募り、寄付金という名目でお金を受け取っていたのだ。
しかし、これは完全な人身売買、本来ならばとんでもない重罪だ。 にもかかわらず、なぜ 当時このことが問題にならず、関わった人間が誰も取り締まられなかったのか?

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実は、当時のチリには、驚くべき特殊な事情があった。 マリアが生まれる2年前、軍事独裁政権がクーデターにより誕生。 国際的に大きく孤立していた。
それゆえ、国は極度の貧困に陥っており、何とか諸外国との国交を回復させる必要があった。 そこで当時の政府が目をつけたのが、以前から多く行われていた国際養子縁組制度のさらなる活用だった。
貧困の中で生まれた子供を養子に出し、「人道的に支援して欲しい」と世界に訴えることにより、チリ政府自体が「人道的な国家」であることをアピール。 国際的な孤立から脱却する狙いがあったという。

こうして政府は斡旋業者と利害が一致したため、斡旋業者の横暴を黙認。 政府の中にはむしろ積極的に加担していた者も数多くいたと指摘されている。
この実態を告発したドキュメンタリーが今から4年前に発表されると、瞬く間にチリ全土を揺るがす大スキャンダルへと発展。 現在は正常な民主国家として生まれ変わっているチリ政府は、これを受けて3年前、調査委員会を設置。 1年後の中間報告で、その行為が「人権侵害だったことは明白」という発表を行なった。 現在も全容は調査中で、この問題が解決に至るのは、まだまだ先になりそうである。

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だが、この問題が発覚したことによって、長年の苦しみからほんの少しだけ解放された人もいた。
幼い頃から、自分が何者なのかわからず苦しみ続けていたマリアの弟ダニエルは、今から2年前、一度も会ったことがなかった産みの母、パトリシアさんとついに会うことができた。
その後、ダニエルは一時的にチリに移り住むほど、血の繋がる家族との親交を深めた。 もちろんスウェーデンの両親との関係も良好で、彼にとっては今自分を心から支えてくれる2組の家族がいることが何よりの誇りなのだという。

そんなダニエルとマリアは、現在、自分達と同じような境遇でチリから養子として外国に渡った子供とその実の親を再会させるための活動を精力的に行っている。