6月24日 オンエア
瀬戸大橋建設!一人の男のアンビリバボーな生き様
 
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本州と四国を車でわずか10分、岡山県と香川県を結ぶ、巨大な橋『瀬戸大橋』。 開通を祝して建てられた記念館に、一人の男の銅像がある。
実はこの人物、瀬戸大橋建設の最大の立役者である一方…仕事に生きることが当たり前だった時代、他の人とは異なり、妻や娘のために生きた男でもあった。 自らの信念を貫いた男の家族との絆、そのアンビリバボーな生き様とは?

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今から約50年前、かつてない大工事が始まろうとしていた。 全長9kmを超える橋の建設である。
その指揮を執ることになったのが…杉田秀夫。
杉田は指揮を執るにあたって、部下たちに今までのやり方は忘れるように指示した。

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これには理由があった。 瀬戸大橋の最大の特徴は、車も電車も通る併用橋であるということ。 実は当時、世界にあった併用橋、橋脚と橋脚の間は最長のモノでも約500m。 しかし瀬戸大橋は、その倍以上の1100m。 ここを列車も通る計画だったのだ!
そこで杉田が考え出したのが、「ケーソン」と呼ばれるコンクリートの箱を土台とし、橋を支える工法。 その高さは最大55メートル、とてつもない大きさだった。

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部下たちが驚いたのは、画期的な工法だけではなかった。 部下と一緒に海岸まで行くと…杉田は着くやいなや、ウェットスーツに着替え、岸壁から海へ飛び込んだ!
当時、海中の工事は、ダイバーを雇い水中カメラを使って状況を確認していた。 しかし、カメラの性能が低く、濁った海ではあまり役に立たなかった。 杉田は技術者でありながら、水中で自らの目で確かめられるようにと、潜水士の資格まで取っていたのだ!
さらに海底に潜る体力をつけるため、自宅から事務所までの片道12kmを毎日自転車で通勤。 彼がそこまで瀬戸大橋に執念を燃やすのには理由があった。

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香川県丸亀市で育った杉田。 東大を卒業後、JRの前身、国鉄へ。
入社2年目、鉄橋建設の現場にいた時だった。 岡山と香川を結ぶ、国鉄の連絡船が大型貨物船と衝突! 168名が犠牲となった。 四国と本州を繋ぐ橋さえあれば…故郷で起こった悲劇に胸を痛めた。

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それから17年、連絡橋建設のプロジェクトが本格的に始まった。 杉田は事業を担う公団に赴任した。 悲願の実現に向け、過酷な日々が続く中…差し入れや部下を誘っての食事、すべて杉田がポケットマネーで支払っていたという。

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その一方で、家計を預かる妻、和美の苦労は絶えなかった。
13歳年下の和美は、同じ香川県の出身。 夫婦の間には3人の娘がいたが瀬戸大橋の現場を任されるようになってからは、家族サービスをする時間はなかった。 それでも彼女は、不満一つ言わなかった。
なぜなら…夫は小児喘息だった長女の体力をつけるため、出勤前に1時間、一緒にジョギングすることを欠かさなかった。 和美は夫の家族への思いを受け止め、多忙なのは責任感の強さゆえと、理解していたからだ。

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一方、瀬戸大橋を支えるために必要な世界最大の土台作り。 しかし、そこには大きな壁があった。
当初、杉田は、大きな鉄製パーツを使い、海中で骨組みを作成、そこにパネルを差し込み、大量の石を投入、コンクリートで固める方法を考えていた。 しかし、同じ材質でミニチュアの骨組みを作り、海中に沈め、実験してみたところ…貝や海藻が骨組みを格好の住みかにしてしまい、短期間で倍以上の太さに膨れあがってしまったのだ。

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そこで杉田が考えた新たな方法とは…それはケーソンを事前に陸の上で作るというもの。 なおかつその一部を密閉することで、『浮き』の役目を果たせるようにした。 これにより、ケーソンを目的地まで運ぶことが出来る上に、貝や海藻に悩まされることもない、そう考えた。 杉田の粘り強い提案に、最終的に上司も納得、採用されることとなった。

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だが着工を5日後に控えた時だった。 国が突然の工事取りやめを決定。
原因は、オイルショック。 石油価格が高騰し、経済は大混乱。 橋の建設は景気が回復してからと、着工が無期延期となってしまったのだ!

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しかし、先行きの見えない状況の中でも杉田は、こう部下たちを鼓舞した。
「着工の延期はむしろ、チャンスと思ってくれ。各自、じっくりと何を準備するべきなのかを考えてみてくれ。」
実は杉田は、本四連絡橋公団にやってくる際、国鉄を退職していた。 大仕事に打ち込むためには、国鉄からの出向ではできないと退路を断って来ていたのだ。
瀬戸大橋の建設工事が無期延期となったことにより…数千人いた職員は、元いた企業に戻るなど次々と異動。 それでも、杉田の覚悟に賛同した若い技術者、47名が公団に残った。

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工事はいつ始まるかわからない、それでも杉田は部下とともに準備を進めた。 全部で11ある土台の中でも最大の高さ55mのケーソンを海底に設置するためには、この海域特有の厚さ30m以上ある堆積層を取り除き、その下にある岩盤を掘削するしかない。 水深45m辺りにある岩盤を砕くためには、海中でダイナマイトを爆発させる方法しかないと、杉田は考えていた。

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しかし問題があった。
瀬戸内海は豊かな漁場、ダイナマイトで爆破すれば魚にどんな影響があるかわからない。 中でも、島民の7割が漁業に携わっていた「与島(よしま)」では、激しい反対の声があがっていた。

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そこで杉田が代表して、話し合いに臨んだ。 喧嘩腰の島民たちに、杉田は「魚への影響は…確かに出ます」と正直に打ち明けた。
それでも、橋を建設する為には岩盤をダイナマイトで砕かなければならないこと。 まずは魚への影響を調べるために、ダイナマイトで小規模な実験を行いたいことなどを説明したのだが…島民たちの理解は得られなかった。

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島民らとの交渉を続ける一方、杉田は部下とともに世界中の橋の建設記録を調べ、魚への被害を最小限に食い止める方法を探り続けた。

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杉田は島民らとの話し合いを、約3年に渡り、のべ500回以上行ったという。 そんなある日のことだった…組合長から「橋が出来るかどうかも分からないのに、なぜそこまで頑張る?」
と聞かれ、杉田は橋の建設に対する熱い思いを話した。
「私は瀬戸内に面した、貧しい農家で育ちました。畑を耕し、その日の食糧を確保することしか考えられず、海の向こう側に行きたいとすら思いませんでした。四国はもっと本州に近くならんといけません。経済も発展しなければ。そのためには絶対に橋が必要です。」
すると、杉田の思いは島民たちに伝わった。

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こうして島民らの協力を得た杉田は、同時に海外の橋の建設記録を調べ、スウェーデンのある技術に着目した。 それが…岩盤に穴を複数開け、少量のダイナマイトを間隔をあけ設置、時間差で爆破していくという方法だった。 こうすれば魚への影響はさほどないのだという。

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さらに杉田は考えた。 瀬戸内海には厚さ30mもの堆積層がある。 その下の岩盤にダイナマイトを仕込めば、堆積層が蓋の役目を果たし、ほとんど魚への影響なしに岩盤を崩せるはずだと。

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時は流れ、突然の建設延期から5年。 この間に、日本の景気も少しずつ回復。 ついに、半年後から瀬戸大橋の工事が始まることが決まった。
だが、ちょうどこの頃、杉田家に異変が…妻・和美が体調を崩していたため、杉田は妻を検査入院させた。

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検査の結果、末期の胃がんが見つかった。 杉田は、妻・和美には胃潰瘍だと偽り、手術を受けさせることに。 開腹手術の結果、ガンはすでに腹膜に転移。 食道の一部と胃の半分を切除したものの、手の施しようがないほど進行していた。

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家族にも妻は胃潰瘍だと伝え、仕事が終われば毎日、病院へ。 トイレの世話まで行い、夜は毎晩、病室に泊まり込んだ。 朝は洗濯物を持って自宅に戻り、着替えを病院に届けてから、職場へ向かう日々。 こんな状態にも関わらず、杉田は部下たちにも妻が病気であることすら、一切告げず、所長としての仕事をいつも通りこなした。

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長女・広子の運動会直前、医師の判断により、一時的な退院が認められた。 だが、回復したわけではなかった。 それどころか…医者からは「今度入院するときは、駄目だと思って下さい」と言われていた。

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そして、一時退院から、2ヶ月…妻 和美が痛みを訴え、再入院。 日を追うごとに体は衰弱、余命幾ばくも無いことは明らかだった。
それでも杉田は「瀬戸大橋から見る夕日は、格別だよ。家族みんなで、渡ろう」と約束した。

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この頃、杉田は多忙を極めていた。 年明けには、巨大ケーソンを設置するための最大のヤマ、ダイナマイトによる、岩盤の爆破が迫っていた。 杉田は激務をこなしながら、できる限り和美に付き添った。
その年の、クリスマスイブの日、杉田は、初めて現場を休んだ。 この日の早朝…和美は、夫に看取られ、34歳の若さでこの世を去った。 翌日、部下たちにも杉田の妻の死が知らされた。

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和美の遺影の前で、杉田は小石を握りしめていた。
土台の設置を終え、中にコンクリートを注入する前に、関係者達が願いなどを書いた小石を入れる儀式がある。 その話を杉田は和美にしたことがあった。 その小石は、和美が娘たちと願い事を書いて、杉田に渡したものだった。

工事開始から3ヶ月、いよいよ杉田の考えた作戦を決行する日がやってきた。 少量のダイナマイトを時間差で爆発させ、岩盤を崩す。 果たして…爆破は無事成功した。
その後、大型の作業船で、砕かれた岩盤と堆積層を掴み取って取り除く。 魚など、生態系への影響も見られなかった。
そして巨大な機械を使って、ケーソンが正確に設置できるよう、海底を平らにしていく。 本当に海底が平らになっているか、責任者の杉田が自ら潜水服を着て水深50mまで確認に行った。 すると…見事に平らになっていた。

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そして、その数ヶ月後、ついに瀬戸大橋の中で最大の7Aケーソンが、タグボートにひかれながら出発。 高さ55m、重さ2万トンの鉄の塊が見事に浮いている。 12隻の船を使い、岡山県から20時間かけて海上輸送。
そしていよいよ巨大ケーソンを海底に設置する。 ケーソンに水を注入し、50メートル下の海底まで沈めていく。 しかし注水だけでは無重力に近い状態となるため、安定を得られない。 そこで海底まで約3メートルとなったところで、大型クレーン船の登場だ。 40本のワイヤーでケーソンを吊り、その姿勢を制御しながら着底位置を調整する。 着底予定地である赤線に重なるように、ケーソンの現在位置を合わせていく。 そして…ケーソンは見事、計算通りの位置に着底。

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しかし杉田は…自らの目で確かめるため、海底に潜っていった。 自らの信念にどこまでも忠実な男だった。
そして…「機械は、実に正確だった。沈設完了」
土台作りの最大のヤマを越えた瞬間だった。

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数日後…ケーソンの設置を終えた杉田は、その足場にいた。 そして、和美から預かっていた小石を投げ入れた。
あとはケーソンの内部に、大量の石を投入。 コンクリートを注入し固定化する、仕上げの作業を残すのみ。 このために、海上でコンクリートを精製する船が作られた。 数か月間、連続で注入し続け、ようやくケーソンが固められるのだ。

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瀬戸大橋の建設工事の最難関の作業は終わった。 ここから杉田達が完成させた土台の上に、橋桁や、道路、レールなど様々なモノを造っていくことになる。 だが、なぜかその現場に杉田は一切、姿を見せなかったのである。
ニュースで連日、瀬戸大橋の工事の進捗状況が報じられていた頃。 杉田は家族と東京にいた。一体なぜ?

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それは瀬戸大橋の基礎工事を終えた頃のことだった。 公団から「他の本四架橋にも、力を貸してくれないだろうか?」と頼まれた杉田は、これを断り、定時で帰れる残業のない部署への異動を希望した。
妻が亡くなる前から、杉田は家族のために生きることを決意していたのだ。

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だが、男手ひとつで3人の娘を育てるのは、想像以上に困難だった。 平日は5時半に起き、娘たちの朝食と弁当を作る。 そして洗濯を済ませると3人を起こして、朝食を食べさせ、8時半に出勤。

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夕方は、帰宅途中に献立を考えて買い物。 毎晩、夕食を作ったという。
平日の睡眠時間は4時間。 休みの日は、泥のように眠った。 最愛の妻が残した3人の娘とともに人生を歩んだのだ。

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杉田が東京の本社に異動してから6年後。 十年の歳月と、総事業費1兆1300億円をかけた夢の架け橋、瀬戸大橋が開通。 ついに本州と四国は陸続きとなった。
盛大な開通式は、トップニュースで全国に報道された。 だがこの場にも杉田の姿はなかった。 休日だったその日は、通っていた料理教室に娘といたのだという。

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杉田が瀬戸大橋を初めて渡ったのは、完成から1年後のことだった。 妻・和美への誓いを最後まで全うした杉田は、瀬戸大橋開通から5年後、自らも癌で入院、娘たちに囲まれ62歳でその生涯を閉じた。
それから今年で28年。 杉田秀夫は今も、ふるさと香川県で、瀬戸大橋を見守っている。

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瀬戸大橋が開通して今年で33年。 1日の通行量は車2万2千台と開通当初の約2倍に増え、人の往来や物流を支えるインフラとして定着している。
杉田たちが造った土台、ケーソンに支えられ、堂々と立つ瀬戸大橋。 あらためて近くで見ると、その巨大さがよく分かる。

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足元の海に潜ってみると、潮の流れは激しく、透明度は低い。 水深50mの海底に設置されたケーソンには、貝や海藻がこびりつき、外壁すら見ることは出来ない。 しかしその強度は折り紙付き。 あの阪神淡路大震災の際も全く影響を受けなかったという。

杉田が確立した「設置ケーソン工法」の技術は、瀬戸大橋の十年後に開通した明石海峡大橋にも活かされ、さらにデンマークのグレートベルト海峡大橋などにも採用された。 そして今も、世界各国の橋の建設に大いに役立っているという。

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瀬戸大橋 土台の設置終え、現場の仕事をきっぱりとあきらめ、30年以上も前に家族のために生きるという働き方改革を行った杉田秀夫。 一緒に働いてきた大塚さんには、潜水後に忘れられない思い出があった。
「最後に上がった杉田さんの」スキューバのボンベに大きなタコが絡みついて上がってきたんです。みんなでおおっと言って抑えて、潜水の詰め所がありので、みんなでいただいたと、そういうことがありました。」
とにかくお酒と食べることが大好きだったという杉田。 宴会になることも多かったという。
工事の安全を祈願し、職員の士気を高めるため、海の神様を祀る金比羅神社の1368段の階段を登るマラソン大会を企画したのも杉田だったという。 工事成功のためには、自分が率先してみなを引っ張るべきだと自覚していたのだという。

それでも表舞台に立つことは嫌った杉田。
彼の貴重な肉声が残っている。 開通の翌年、母校の丸亀高校で行った創立記念講演での言葉。
「瀬戸大橋の技術的な話題というのは、皆さん方の人生に益するところはほとんどないわけです。なぜかといいますと技術の価値は、具体的にいかに役に立つかということ。所詮はそれだけのことなんです。橋をつくる経験が人より多少余計にあったからといって、これは人生の価値とは全く別のことなんです。じゃ、偉大なる人生はどんな人生をいうのかということなんですが、これは非常に難しい問題でありまして、瀬戸大橋よりはるかに難しい。」