10月15日 オンエア
一人の医師が社会を変える 人生かけた夢
 
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来年、開催が予定されている東京パラリンピック、東京での開催は2回目だ。 今から56年前に行われた前回大会は、見事に成功を収めた。
みなさんはご存知だろうか? その裏には、一人の男の並々ならぬ尽力があったことを。 中村裕(ゆたか)、彼は官僚でもなければ政治家でもない…スポーツとは全く無縁の一人の医師だった! さらに彼は、大会の実現に留まらず、誰も予想できない驚きのアイデアで日本を代表する大企業を動かし、人生をかけて社会さえも変えてしまった!

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中村裕は今から93年前、大分県別府市に開業医の息子として生まれた。 裕は病気から回復し、笑顔で帰って行く患者のたちの姿を見るのが好きだった。
その後、裕は父と同じ医師の道を選び、整形外科医として数多くの手術を経験。 国家公務員として国立別府病院に勤め、31歳の若さで整形外科科長を任されるほど優秀な医師だった。 (※2015年まで国立病院の医師の身分は国家公務員だった。)

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しかし、ずっと心にひっかかっていることがあった。 それは…脊髄を損傷し、車いす生活を余儀なくされた患者に笑顔がないこと。 当時の日本では、脊髄を損傷した患者は、仕事や趣味を失い、家や療養所に引きこもることが多かったのである。

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そんなある日…ヨーロッパでは治療方法の一つとして、『リハビリテイション』というものが行われていることを知った。
『再び』『適する』を語源とする、リハビリテイション。
身体的機能や社会的活動を可能な限り取り戻す訓練のことだが、当時の日本にはその概念すらなかった。

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患者を笑顔にしたい…その一心で中村はさっそく研究を始めた。 海外の文献を翻訳しながら、筋力回復はもちろん、日常生活や社会生活を送るために必要な訓練を一冊の本にまとめ上げた。

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すると、厚生省の指示で、イギリスの『ストーク・マンデビル病院』に留学することになった。 この病院には、世界に先駆け、国立脊髄損傷センターが設置されていた。 そのセンターを管理しているのが、神経外科医のルードヴィッヒ・グットマン博士だった。
彼は、中村に驚くべき事実を伝えた。 なんと、このセンターでは、脊髄損傷で下半身麻痺となった患者の85%が、およそ6か月の治療と訓練で社会に復帰しているというのだ! 当時日本で下半身麻痺となった患者が社会に復帰している例はほとんどなかった。

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だが…中村自身 実際のリハビリを見るのは初めてだったが、文献で学んだ方法となんら変わりはなかった。 リハビリの前段階の手術や治療の様子も見学したが…日本との違いは分からなかった。 中村は何か魔法のような医療技術があるのかもしれないと思った。

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そんなある日…患者たちがバスケットをしていた。
グットマン博士は、中村にこう言った。
「彼らはこれからの長い人生、車いすで生活する。自分の足のように扱わなければならないんだ。そのためには強い腕力や上半身の力をつける必要がある。スポーツはそれが自然に身につく。スポーツこそリハビリに最適なんだよ。」

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さらに…
「障がい者はどうしても家に閉じこもりがちだ。しかし スポーツをすれば仲間が増える。勝つ喜びも知るし、自信もつく。困難を乗り越えて、自分の力で生きていこう。そんな意欲がわいてくる。スポーツは心のリハビリでもあるんだ。」

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半年の留学を終え、病院に戻った中村は、危険だと反対する医師達を粘り強く説得。
病院の許可を取り付け、体育館に患者を集めた。 初めは消極的だった患者たちだったが、いざやりはじめると、彼らはバスケットボールを楽しんでいた。

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中村が始めた車いすバスケットボールの噂は徐々に広がり、いくつかのチームが作られるようになっていった。 時には『障がい者を見世物にしている』など、厳しい批判も寄せられた。 だが中村は、障がい者にとっていかにスポーツが有効であるか…自らの目で見た『魔法』を信じて、行政に働きかけた。
帰国からわずか10ヶ月後には、大分県身体障がい者体育協会が発足。 その年の秋には、県内の障がい者選手を集め、大分で日本で初めての障がい者スポーツ大会が実現。 卓球や水泳など、他の種目の競技も行われ、大会は成功に終わった。

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だが…大分県内の大会だったため、取材に来たのは、ほとんどが地元のマスコミ。 国や自治体、医学界の関心も低く、この大会をきっかけに障がい者スポーツを全国に広めようとした中村の思惑は完全に外れてしまった。

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そこで、中村が思いついたのは…この翌年に開催される、当時、世界で唯一の国際身体障がい者スポーツ大会に選手を派遣し、注目を集めるという方法だった。
中村が留学した、イギリスの病院が主催する「国際 ストーク・マンデビル競技大会」、1952年から毎年開催されており、次の大会で11回目。 競技委員会会長は、あのグットマン博士が務めていた。

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選手として選んだのは二人。
卓球の伊藤は、元オート三輪の運転手。 土砂崩れに巻き込まれ脊髄を損傷、下半身麻痺に。
そして、水泳の吉田は、元漁師。 航行中の事故で脊髄を損傷し、下半身不随になった。

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だが 当時は、自由に海外へは行けない時代。 仕事や留学など、渡航できるケースは限られており、航空券は高級車1台分に匹敵するほどの金額だった。
中村は資金調達に奔走したが、必要な金額を集めることはできなかった。 そこで、中村は大事にしていた愛車を売り、選手達の渡航費用に当てた。

すると、国際大会ということもあり、国もようやく関心を示した。 首相官邸で壮行会が行われると、その後、マスコミも二人の選手を大きく報道。
そしてこの大会で日本人選手が予想外の快挙を成し遂げた。 水泳の吉田が、3位という成績を残したのだ! 吉田は試合後、「中村先生のために絶対に負けたくなかった」と語ったという。

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こうして、日本の障がい者スポーツの草分け的存在となった中村は、翌年、国際ストーク・マンデビル競技大会の会議に出席。 3年前のローマ大会から、オリンピックのある年は、開催地でこの大会も行われていた。 そのため、次のオリンピックが開かれる東京にも開催の打診はあった。 だが、日本を含むアジアは開催経験がなく、かつ、20世紀初頭から障がい者スポーツに取り組んでいる欧米諸国に比べ、障がい者への理解も浅いという理由で、会議では不安視する声も多く飛び交った。

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すると、グットマン博士が開催を後押ししてくれた。 博士は、中村が大会に日本人選手を派遣したことを評価していたのだ。
その後、東京での開催が正式に決定。 下半身麻痺を意味する「パラプレジア」から、パラリンピックという愛称も生まれた。

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しかし、残された時間はわずか1年…国立別府病院の医師として患者と向き合うかたわら…大会の準備に奔走した。 さらに、選手選考にあたっても、中村は大いに活躍した。 自分の患者はもちろん、他の療養所にいる者の中からも、これはと思う者を発掘していったのだ。
その中の一人に、須崎勝巳がいた。 須崎はバイク事故で脊髄を損傷。 中村の治療とリハビリを受け、わずか1年で車いすバスケットボールができるまでに回復していた。

そして1964年、11月。 のちに東京パラリンピックと呼ばれることとなる、第13回国際ストーク・マンデビル競技大会が開幕。 21カ国、378人の選手が参加し、5日間に渡る熱戦が繰り広げられた。
須崎は車いすバスケットボールに加え、水泳や陸上競技など、6種目に出場を果たすなど、大活躍。 結局、日本人選手は金メダル1つを含む10のメダルを獲得した。 障がい者スポーツを多くの人たちに知ってほしいという中村の願いは叶った。

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大会を成功させたにも関わらず、中村の心は晴れなかった。 実は、大会中にある課題を見せつけられていたのだ。
外国人選手たちは、それぞれ職業を持ち、自立していた。 だが、参加53名の日本人選手のうち、職業を持ってるのはわずか5名。 当時の日本では、障がい者は社会が保護するものという考えが主流で、大会が終わったら、また家や療養所に閉じこもるしかなかった。

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すると…中村は大会の後に知り合った知人と、工場経営を始めた! 使われていない施設を購入し、地元別府市内の町工場の下請けとして、金属加工や木工、洋裁などを請け負う工場を作ったのだ。
開業資金の一部は、国や県からの補助金と支援者からの寄付。 足りない分は中村が出したのだが…それは、自宅を抵当に入れて工面したお金だった。

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定員15名の募集に対し、100名を超える応募があった。 その中には、大会で活躍した須崎の姿もあった。
施設の名前は、全ての人に分け隔てなく光が当たるようにという思いを込めて『太陽の家』と名付けられた。 マークの中央には、踏まれれば踏まれるほど強く育つという麦が描かれている。

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中村は東京での国際ストーク・マンデビル競技大会からわずか1年という短期間で太陽の家をスタートさせた。
中村は当時の取材で、施設のスローガンをこう語っている。 「No charity but a chance!チャリティーはいらないけど、働く機会は与える、雇用するということを中心にやったわけですね。」

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しかし、まだ実績がない太陽の家に仕事を発注してくれる企業は、なかなか見つからなかった。 中村は 医師として働きながら、無理にでも時間を作り、営業に回った。 彼自身は太陽の家から一銭ももらわず、無償で活動していたという。

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中村の営業で、少しずつ仕事は増えていったものの、木工や金属加工はもともと利益率が低く、普通の企業並みに従業員に給料が払えるほどにはならなかった。 太陽の家を軌道に乗せたい…そう思った中村は知人のつてを使って、ラジオで太陽の家の存在をPRした。 こうして根気よく続けられたPR活動は、徐々に効果を上げ始め、中村の元には全国から寄付が届くようになった。

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しかし、またも問題が浮上する。 太陽の家の活動が国家公務員法の職務専念の義務に抵触する恐れがあるとして、どちらかを選ぶよう迫られたのだ。 すると中村は、国家公務員という安定した地位を捨て、自ら開業した個人医院で医師をしながら、太陽の家の活動を続けることを決めたのだ!

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そして中村は、一世一代の勝負に出る。
太陽の家の敷地に工場を増設、そこに企業を誘致することで、収益を安定させ、同時に雇用も拡大できると考えたのだ。 だが、200社以上の企業を回ったが、色良い返事をもらうことはできなかった。

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最後の候補は、京都にある立石電機…現在のオムロンだ。 中村は、創業者 立石一真の元を訪ねた。
中村は、太陽の家が費用を負担し、建設した工場に企業を誘致しようとした。 だが…立石は、共同出資で双方が経営に責任を持つことを条件ならと、誘致を承諾。 こうして、オムロン太陽電機株式会社が誕生した!

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絶対に成功させてみせる。 そんな空気がみなぎる中、ついに操業が始まった!
製造したのは電子回路を制御する部品。 彼らは朝早くから夜遅くまで、根気強く熱心に働いた。 すると…驚くべき形でそれは成果となって現れた。

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投資が先行する起業当初の赤字は珍しいことではなく、立石社長は最低でも2年は続くと見込んでいた。 しかし、設立からわずか4ヶ月で黒字経営に転じたのだ!
なぜなら…他の工場で作られた物に比べ、不良品率が圧倒的に少なかったからだ。 それは一人一人が思いを込め、丁寧に作った証…働くことができる喜びが彼らを動かしたのだ!
そして、従業員たちにボーナスを支払うことができた!

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さらに…納税することができたのだ。 社会福祉法人ではなく、株式会社として自分たちの力で利益を生み、税金を納めたのだ!
日本の障がい者関連事業として、国に税金を収めた初めてのケースとなった。 患者を笑顔にしたい…中村の長年の夢が叶った瞬間だった!

オムロン太陽電機の成功をきっかけに、様々な企業が太陽の家と共同で会社を立ち上げることになった。 その企業のひとつが世界を席巻した大ヒット商品「ウォークマン」を作ったソニー。 あのウォークマンは、この工場でも作られていたのだ。
また、工場を訪れたホンダの創業者、本田宗一郎氏は、懸命に働く従業員の姿を見て心を打たれ、その場でバイクのスピードメーター工場の建設を決めたという。 そこには縮こまって生きる、かつての彼らの姿はなかった。

太陽の家で多忙を極める一方、中村は東京大会の後も、オリンピックとともに開かれたカナダ大会、1980年のオランダ大会まで、毎年のように国際ストーク・マンデビル競技大会に参加。 1988年のソウルからは、東京で生まれたパラリンピックという愛称が正式に採用された。

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太陽の家ができてから19年後、中村は持病の肝炎が悪化し、57歳でこの世を去った。
太陽の家を…障がい者のみんなを頼むよ…そんな言葉を家族に残して。

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現在、太陽の家はさらに発展。 障がい者1099人の他に、健常者も合わせて計1861人が共に働いている。
そして、太陽の家を有する大分県別府市亀川は、街中に障がい者用の施設が整い、障がい者と健常者が自然な形で交流する、バリアフリーの街となっている。

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太陽の家の成功もあり、日本では、障がい者が仕事を持つことは、今や当たり前となりつつある。 中村の情熱は後進に引き継がれ、日本社会の在り方を確実に変えている。
中村の次男、英次郎氏は、こう話してくれた。
「父は本当に心から優しい人だったので、自分が関わった人を元の生活に少しでも近づけようという、優しい気持ちが非常に使ったんだと思います。人が喜ぶと自分が嬉しいという(父のそういう部分が)好きだったと思います。」

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56年前の東京大会に出場した須崎さんは、その後 結婚。 仲人は中村夫妻が務めた。
須崎さんはこう話してくれた。
「中村先生に会う前は、これでももう治らなかったら、人生真っ暗闇。死んだほうがいい、消えた方がいいと思っていた。中村先生と会ってからは、みんなでスポーツしたり、仕事したりしてるうちに、毎日毎日が一番幸せ、そんな人生に変わっていきました。」

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障がいのある人、ない人が自然にふれあい、当たり前のようにそばにいる社会…そんな理想を求めていた中村は生前、こう語っている。
『いつか、太陽の家なんてなくなればいい』と。

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開所から55年…様々な企業と提携を重ね、現在、太陽の家の共同出資企業は8社となった。
当初は身体障がい者が多かったが、現在は知的障がい者など様々な人が働いている。 聴覚障がいのある人でも働きやすいように、生産ラインにはランプの合図がある。

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工場で働きながら、大きな夢を持つ従業員もいる。
「今、やり投げで東京パラリンピックに出られるよう目指しているところです。」

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オムロン太陽電機の初期メンバーであり、国際ストーク・マンデビル競技大会にも出場した江藤さんは…
「国際大会に出られたことと社会復帰できたこと、この2つの目標を中村先生のおかげで達成した。(中村先生は)自分にとって素晴らしい存在…今 感謝してます。バイクでツーリングしたりとか、そういうのは趣味でやってます。年金生活で遊んでますし、最高です。」

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そして、現在の太陽の家は、6F建の立派な建物となり、2Fから上は従業員たちの住居となっている。 敷地内には、体育館、ミュージアム、スーパー、銀行など、あらゆるものが揃い、その全てが障がい者が利用しやすいように設計されている。

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中村は生前、「足りないところは科学の力で」と語っていたという。
近年、使用が開始されたのが、リハビリをアシストするロボット HALだ。
こちらは、ドローンでサッカーを行う競技場。

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様々な試みをしている太陽の家、現在理事長を務めている山下さんはこう話してくれた。
「三菱太陽創立の調印式の時に先生をお見送りに行ったんですね。その時、『君たちが頑張らないと成長しないんだ、頼むぞ』と言ってですね、手を差し伸べて私と握手をしたんですね。その時の裕先生の手の温もり、今でも忘れことができませんね。私が家族を持って自立できたのは、先生が太陽の家を設立したおかげで、今の私がいると思っております。1人でも多くの障がい者の方に納税者としての喜びを感じていただきたい。チャンスを作っていくのが我々の仕事。」