8月13日 オンエア
戦争に運命を翻弄された少年たち
 
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今から51年前、ベトナム上空。
敵からの襲撃をくらい、米軍の飛行機が墜落した。
搭乗していたダニーは、九死に一生を得たが…生き延びでしまったことを悲しんでいた。

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この出来事から11年前の11月、アメリカ・サウスカロライナ州 コロンビア。 この街に住むダニーにとって、この日が運命の始まりとなった。 近所に住んでいたロンが、一人の少年を連れて、ダニーの両親に挨拶に来ていた。 ロンの母が、その少年を養子に迎え入れたのだという。

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少年の名は、スティーブ。 日本人の母親とアメリカ人の父親の間に生まれ、日本で生活していたのだが、ロンの母・ルイスの養子になるため、この日、アメリカに来たばかりであった。 ロンはダニーにもスティーブを紹介したのだが…スティーブは何も言わず、怯えているように見えた。

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実は、ダニーの家に来る前の挨拶まわりで…日本人に対する嫌悪感をあらわにされていたのだ。
当時、終戦から13年が経っていたが、真珠湾攻撃は、まだアメリカ人の記憶に新しく、『日本は敵国』という意識を強く持つ者も多かった。

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ダニーはスティーブをキャッチボールに誘った。 スティーブはまだ英語が理解できず、モジモジしていた。
そこで、ダニーはジェスチャーでスティーブとコミュニケーションをとり、2人でキャッチボールをした。

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スティーブはダニーと同じ小学校に通うことになったが、英語ができなかったため、一学年下に編入。
学校が終わると、ダニーは毎日のようにキャッチボールに誘った。 2人は言葉はわからずとも、ジェスチャーで通じ合う仲になった。

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しかし、いつまでもジェスチャーだけというわけにはいかない。 ダニーは、スティーブに英語も教えた。
日々、スティーブの手助けをしていったダニー。 すると、スティーブに笑顔が増えていった。

スティーブは、1947年に、香川県で生まれた。
その時の名前は、後田義明。
4歳の時、一緒に暮らしていた母親と別れ、神奈川県大磯町にある(児童養護施設)『エリザベス・サンダース・ホーム』に預けられた。

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終戦後、連合国の占領下に置かれていた日本では、日本人女性とアメリカ兵との間に多くの子供が誕生した。 日本人は、敵国の血を引いた子供の存在を認めず、『あいの子』と呼び、蔑んだ。 中にはアメリカ兵の一時的な欲求によって生まれた子もいたため、『恥ずべき存在』と考えるアメリカ人もいた。 母親だけでは育てられず…街中などに子供を置き去りにしてしまう者も少なくなかった。

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そんな子供たちを救おうと、立ち上がったのが、三菱財閥創始者・岩崎弥太郎の孫、沢田美喜だった。 戦後、GHQに接収されていた実家の別荘を買い戻し、『エリザベス・サンダース・ホーム』を創設。
しかし、施設に預けられた後も、義明は出生に関する事を何も教えてもらえなかった。 また…街中を歩けば、悪意に満ちた言葉が浴びせられた。 それでも、将来 強く生きていけるように、沢田は子供たちを厳しく育てた。

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そして、義明が10歳を迎えた頃…ホームの依頼で野球を教えにやって来たのが、当時、米軍座間基地で任務についていたロンだった。
沢田は、子供達の将来を考え、日本よりも生活的に豊かなアメリカの家庭に積極的に養子に出していた。 その考えに感銘を受けていたロンが引き受けを申し出た際、沢田が選んだのが義明だった。

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ある日、スティーブがダニーにある物をプレゼントした。 それは、スティーブが日本を発つ時…沢田からプレゼントされた箱入りの箸だった。 自分が一番大切にしている物をプレゼントするほど、スティーブにとってダニーは大切な存在になっていたのだ。

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小学校卒業後、2人は中学・高校ともに別々の学校へ進学。 それでも仲が変わることはなかった。
しかし、ひとつ大きく変わった事が…ダニーとのキャッチボールをきっかけに野球にのめり込んでいったスティーブは、徐々に頭角を現し、この頃には将来有望な選手として、地元では名の知れた存在となっていた。

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身も心もたくましくなったスティーブ。 しかし、差別的な言葉を聞くと、心に刻み込まれた苦い思い出がよみがえり、下を向いてしまう。
そんな時、ダニーといると明るく社交的なスティーブに戻ることができた。

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そして、出会いから6年が経った頃…成績優秀でスポーツ万能、女子生徒の憧れの的となっていたスティーブは、学校一の美女との呼び声が高い シャーロットと交際を開始。
同じ頃、ダニーは 住み慣れたサウスカロライナ州を出て、建築を学ぶため、テネシー州の大学へ進学することに。 そして、その1年後にはダニーの後を追うように、スティーブは野球の成績を評価してくれたテネシー州の大学へ進学を決意した。

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出会いから8年。
19歳となったスティーブは、無事 高校卒業を迎えた。 校内の『最高人気者賞』を獲得し、高校生活最後の日を華やかに飾った。
しかし…シャーロットの父親から彼女と別れるように言われ、2人は引き裂かれた。

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シャーロットとの別れから1ヶ月後。 スティーブは突如、アメリカの市民権を申請し取得、正式にアメリカ国民になった。
そして、2人の人生はここから劇的に動き始める。

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野球の才能にさらに磨きをかけたスティーブの元に、メジャーリーグ『シンシナティ・レッズ』からスカウトがきたのだ。 一方、ダニーは陸軍に志願することを決意していた。
当時、アメリカは ベトナム戦争に介入していた。 アメリカ政府は、『ベトナムを共産主義から守る正義の戦い』と謳い、多くの若者をベトナムに送り込んでいた。

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ダニーは1967年5月、20歳で空軍に入隊、アメリカで基礎訓練を受け始めた。 その数ヶ月後、スティーブ元を訪ねると、ダニーに報告があるという。 なんと、スティーブは陸軍に志願することにしたと言うのだ!
スティーブは、自分はアメリカ人になったものの、まだ何者にもなれていないと感じていた。 そして、まずアメリカ人としての義務を果たしたいと考えたのだ。

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ダニーの入隊から5ヶ月後、スティーブも陸軍に入隊。
その翌年の7月、ダニーが物資の輸送担当として、10月にはスティーブが戦闘部隊として、それぞれベトナムに上陸した。 そして、2人は任務の合間を縫って、互いに手紙で近況を報告し合うようになった。

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年が明けた1969年2月。 スティーブからの手紙にはこう書かれていた。
『実は5月に1週間の特別休暇が取れそうなんだ。もし同じ時期に休暇が取れたら、一緒に日本に行かないか?』 『僕が育った施設にダニーを連れて行きたいんだ。そして、沢田園長に聞きたいんだ。子供の頃に聞けなかった事を』 『僕はどういう形で生まれて、どうして施設に預けられたのか。そして、本当の母親がどんな人だったのかを』
そして、ダニーは、スティーブにこう返事を返した。
『日本へ一緒に行こう 約束だ それまで必ず生き抜こうな』

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その手紙のやりとりからおよそ1ヶ月後、任務中のダニーに母親から連絡が入った。 スティーブが戦死したという知らせだった。
1969年3月25日、スティーブ・フラハティ戦死。 休憩中、近くに潜んでいたベトナム兵に頭を撃たれ、即死だった。

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ダニーは翌日も任務をこなしたが、世界で自分一人だけが取り残されたような感覚に陥った。 そして、生きる事への執着を捨てた。
そんなある日のこと…敵から襲撃され、ダニーが搭乗していた米軍の飛行機が墜落。

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病院で目が覚めた時、日本にいることを知らされた。 墜落後に搬送されたのが、東京・横田基地内の病院だったのだ。
スティーブが来たがっていた日本に、自分だけがいることが悔しかった。

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その年の4月、怪我が原因で除隊したダニーは、アメリカの実家へと戻った。
そして、スティーブの死から1年後、ダニーは自ら命を断とうとした。 だがその時、スティーブからもらった箸が目に入り、思いとどまった。

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当初 アメリカは「攻撃を受けたことへの報復」を大義として、ベトナム戦争に介入していた。 しかし、スティーブの死から2年後、その攻撃の一部をアメリカ政府が捏造した可能性があることがわかった。 正義のための戦いは偽りかもしれないと知り、虚しさは一層増した。 同じ頃、両親の薦めで、夢だった建築家になるため、再び大学へ通ったが…情熱を持つ事は出来なかった。

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スティーブの死から4年後、アメリカ軍は6万人近い死者を出し、ベトナムから撤退。
スティーブの死から5年後、ダニーは庭師になった。 理由は…誰とも話さず、一人でいられると思ったから。 死ぬ事も出来ず、何かのために生きる事も出来ず、虚無感の中、ただただ、過ぎ行く日々をやり過ごすだけであった。

ダニーさんは、インタビューでこう話してくれた。
「スティーブの死を知った時、その場で泣き崩れました。私が軍に志願したことで、彼も志願したのではないかと思い、自分の判断を悔やみました。」

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スティーブの死から26年後の1995年。
48歳となったダニーはこの日、ロンの自宅に招かれた。 そこで紹介されたのが、後田次恵(ツギエ)さん。 そう、義明ことスティーブの実の母親であった。

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彼女は終戦の翌年、アメリカ兵に襲われ、義明を身籠った。 だが、一人で育てていくことが困難になり、エリザベス・サンダース・ホームに預けた。
その後、アメリカ人と結婚し渡米。 経済的にも豊かなアメリカの家庭なら、義明を迎え入れることができると考えたからだ。 後にわかったことだが、皮肉なことに一時期 彼女は、スティーブが住む街から車でたった4時間の距離にある街に住んでいたのだ。
その後、生活は困窮、夫も暴力をふるうようになり、義明を迎えに行くことは諦めざるを得なかった。

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時は経ち…一時的に帰国した折、偶然目にしたのが『エリザベス・サンダース・ホーム』で育った子供たちのその後を紹介するテレビ番組だった。 ロンに抱かれた遺影が、後田義明として紹介され、我が子の死を知ったのだった。
その後、ホームに掛け合い連絡先を入手、ロンのもとを訪れたのだ。 次恵さんは、一度も我が子のことは忘れたことはなかったという。

終戦後に生まれたが、生涯、戦争に運命を翻弄され続けたスティーブ。 それでもダニーという親友が寄り添ってくれたことで、彼は前を向き、またその姿がダニーに勇気を与えた。
しかし、支え合い生きて行くはずだった2人の未来は、戦争によって閉ざされた。
ダニーさんは 今も、枯葉剤の後遺症に苦しみながら、スティーブが眠る街で1人、暮らしている。 まるで、スティーブが生きられなかった時代を代わりに生きているかのように。

エリザベス・サンダース・ホームの創設者・沢田美喜さんは、スティーブさんの死を知った際、人目もはばからす、泣き崩れたという。 多くの子供たちを救った彼女は、スティーブさんの死から11年後、天に召された。
神奈川県大磯町にあるエリザベス・サンダース・ホーム。 沢田美喜さんの意志を受け継ぎ、今も様々な理由で預けたれた子供達の成長を見守っている。

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2008年、創立60周年を迎えた際、アメリカからマリア像のオブジェが届けられた。 送り主は、スティーブさんを育てたロンさん。 そして、もう一人 ある日本人女性だという。
この女性は、ロンさんが座間基地で任務についていた時、同僚だった女性。 ボランティアでホームの手伝いもしていた彼女が子供たちに野球を教えて欲しいと、ロンに依頼したのだ。

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実は2人、互いに惹かれ合っていた。 しかし、ロンさんの所属する部隊では、機密漏洩を防止する理由で、日本人女性との結婚を許していなかった。 ロンさんは、この女性と結婚し、アメリカに連れて行きたいと思っていたが、国籍という厚い壁に抗う術はなく、アメリカへ帰国していた。
しかし、別れから50年後、2人はアメリカで再会。 同じ年に2人の思い出の場所に、このマリア像を連名で送ったのであった。 その翌年の2009年、ロンさんは静かにこの世を去った。

スティーブさんの実母・後田次恵さんは、97歳となった現在もアメリカで家族と暮らしている。
彼女は、施設に預ける前に唯一撮影した スティーブさんの写真を今も大切に持ち続けている。

そしてダニーさんは、今も定期的にスティーブさんの元を訪れているという。
「私は月に2〜3回はスティーブの元を訪れます。ここを通り過ぎる度に寄って行くんです。ここに来たら、いつもスティーブに話しかけます。今日起こった事や昨日の出来事など、悩み事がある時も彼に相談します。『スティーブならどうする?』ってね。私が死んだ後、スティーブの墓に私の遺灰を巻いてくれと頼んでいます。彼は私の唯一の親友ですから。」