9月26日 オンエア
奇跡の絆2時間SP! 12年越しの約束
 
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今月 20日に開幕した、ラグビー、W杯。 見事 逆転勝利を飾った日本代表。 大きな盛り上がりを見せる一方で、先月 23日早朝、かつてラグビーに青春を賭けたアラサーの男たちが富士山の山頂を目指しはじめた。 多くは、会社に有給休暇を申請。 中には、ラグビー・トップリーグに所属する選手もいた。 これは、一人の男とその仲間達が12年越しに起こした、ある奇跡の全記録である。

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すべては、今から12年前の4月、杉田秀之が慶應大学ラグビー部に111代として 入部したことから始まった。
杉田がラグビーを始めたのは中学の頃から。 地元クラブに参加するうち、たちまち注目選手になると…慶應義塾高校に入学。 神奈川県選抜に選ばれるなど、ラグビー部のエースとして活躍した。

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慶應大学ラグビー部は、総部員数約120名、6軍まである大所帯。 高校ではエースだった杉田も、大学の中では5軍スタート。 竹本など、同期のトップグループに追いつき、1軍に登りつめようと必死だった。 ラグビーへの熱意は誰よりも強く、同期に対しても妥協を許さず、厳しく叱責することもあった。

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さらに、その厳しさは自分にも向けられ、誰よりもストイックに練習に取り組んだ。 そんな中、杉田は監督の勧めもあり、高校時代のフランカーから一列前のプロップにポジションを変更。 スクラムの最前線で闘う過酷なポジションだったが、選手層が手薄で試合に出やすいためだった。

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この年、ラグビー部は35泊36日の夏合宿を敢行。 まず最初の2週間、全員で山梨県にある山中湖で合宿。 その後、40名の選抜メンバーだけが山中湖を離れ、ラグビー合宿の聖地である 長野県・菅平高原に移動。 最終日には、チームの結束を強めるため、全員で富士山に登るというプログラムが、この年から 取り入れられることになった。

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3軍まであがっていた杉田は、選抜メンバー入りを狙って、初日から猛アピール。 そして、念願の選抜メンバーに選ばれたのだ。 しかし…1年生約40名の中から選ばれたのは、わずか数名のみ。 選抜メンバーの練習は過酷を極め、ついていくだけで精一杯だった。

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そして、合宿が終われば『主務』を決めることになっていた。 主務とは、チーム運営全般を引き受ける、マネージャーのこと。 キャプテンと並ぶ重要な役職だ。 慶應大学ラグビー部では、学年ごとに選手同士の投票で選出する。 しかし、選ばれると、通常より早期に引退することになる。 選手にとっては、戦力外通告に等しかった。

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大学日本一から、やがては日本代表へ…杉田は夢へ向かい邁進した。 そんな中…合宿も終盤にさしかかった8月26日、強豪・関東学院大学との練習試合が行われていた時のこと。 杉田が耐えきれず、スクラムが崩れた。 そして、一人立ち上がれない杉田。 体を全く動かすことができず、ドクターヘリで長野県内の病院に救急搬送された。

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スクラムが崩れた際、不運にも相手選手の全体重が首を直撃、首の骨と神経を損傷したのだ。 当時の診断は四肢の『完全麻痺』、回復する見込みはないとされた。 ラグビーどころか、二度と歩くことができないだろう…そう宣告されたのだ。

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仲間からの手紙を持って、見舞いに訪れた林監督に、杉田は…
「試合、途中退場してすいません。どうなりましたか?」
「富士登山、行けなくて申し訳ありません」と言ったのだ。
林監督は、「お前が良くなったら一緒に行こう」と言った。

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その後、杉田は、慶應大学病院へ転院。 受け持った中村医師は、ノーベル賞を授賞した山中伸弥教授とともに、脊髄損傷患者の再生医療を研究している人物だった。 転院から約2週間後、麻痺が少しでも回復する望みをかけて、頚椎を固定する手術が行われた。
手術から9日後、右足の指が動いた! その後、四肢の麻痺も徐々に改善のきざしをみせた。 だが…歩けるようになる可能性はあるものの、ラグビーへの復帰は望めない。

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そんな中、部員たちのお見舞いも解禁されたのだが…誰もが自分を見て、かける言葉を失い、すぐに帰っていくように感じた。 その後、脊髄損傷患者専門のリハビリセンターに転院。 この頃には、手足がわずかに動くようになり、車椅子に座れるまでに改善していた。 だが…ラグビーができないと思うと、心はすさむ一方で、家族や友人たちに当たりちらした。

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ケガから約4ヶ月が経ったこの頃、ラグビー部は 8年ぶりの大学日本一に王手をかけていた。 4年生最後の勇姿を見てほしいと 強く説得され、杉田も会場には来てみたものの…試合の途中で帰ってしまった。 そして、これ以降、杉田はラグビー部との連絡を絶った。

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そして、リハビリをしている時のことだった。 胸から下が動かず、一生立てないと診断された少年と出会った。 彼に「お兄ちゃんは歩けて いいね」と言われた。 自分は 世界一不幸な人間だと思っていた。 だが…それより辛い思いをしている人間が病院には多くいたのだ。

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それからというもの、杉田は真剣にリハビリに取り組みはじめた。 ラーメンを箸で食べたい…新品の靴を汚れるくらい履き潰したい。 小さな目標に向かって努力を続け、ケガから1年3ヶ月後に 退院。 その後、アメリカで最先端のリハビリを行い、杖を使い、ゆっくりではあるが…自力歩行ができるまでになった。

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そして、ケガから1年8ヶ月後に復学。 だが、ケガをする前と大学は違うものに思えた。 ラグビーで日本一を目指した かつての前向きな姿はどこにもなく…杉田は再び、孤独と絶望を抱えていた。
そんな彼に頻繁に連絡をよこす人物がいた。 ラグビー部の同期、澤野だった。 澤野は杉田がケガをした合宿後に主務に選任された。 そのため、部の連絡は澤野がとっていた。 そして、杉田が無視しても、澤野は連絡を取り続けた。

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杉田が復学して、約1年。 同期が3年から4年にあがる頃のことだった。 澤野から『春からラグビー部に復帰しないか?』という連絡が来たのだ。 実は…澤野は杉田の様子を知りうる限りチームに報告していたのだ。
そして、杉田にこう言った。 「試合に出られなくても、杉田だからできることがきっとあると思う。」

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澤野の言葉を聞き、杉田はあるものを取り出した。 それは、林監督が見舞いの時に持ってきた、仲間からの手紙だった。 あれ以来、見ることもなくしまいこんでいたのだ。
手紙を読むと…誰もが杉田の復帰を願い、待ちわびていることが伝わってきた。

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ケガから2年8ヶ月後、杉田はデータ分析係として、ラグビー部に復帰した。 すると…誰もがケガする前と変わらない態度で接してくれた。 澤野や竹本など同期の協力もあり、次第とチームに溶け込んでいった。

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当時、慶應大学は、伝統ある早慶戦で10年にわたり未勝利。 勝利は至上命題だった。 杉田は何かチームに貢献したいと考えていた。

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そして…迎えた早慶戦当日。 部員たち部屋の前に1枚のDVDが置かれていた。 それは…自分をチームに戻してくれた仲間たちのために何かしたい、その一心で、杉田が過去の試合映像からベンチ入りメンバーの好プレーを厳選。 大一番に臨む仲間たちに、少しでもイメージを高めてもらうために作った、モチベーションビデオだった。 さらに…メンバーから漏れ、悔しい思いを抱えた4年生、一人一人に頭を下げ、メッセージをもらうと、BGMも自ら選曲、寝る間も惜しんで編集したのだ。 そして、夜中のうちに一枚一枚、選手の部屋の前に置いていたのだ。

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杉田の作ったモチベーションビデオで、一丸となったチームは、10年ぶりの勝利へ向け、強敵との戦いに挑んだ。 この年は例年にも増して激戦に…前半から3対3のまま1トライを争う展開。 慶應は防戦一方の中、死に物狂いで戦った。

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そんな中、ついに…キャプテン竹本のトライで均衡を破る。 点差を守るため途中出場で出て来たのは…1年生の春、杉田にダメだしされていた、落合陽輔だった! 杉田がラグビー部を離れた後、落合は不断の努力を続けた。 そして、4年生になり1軍メンバーに選ばれるほどの実力をつけていたのだ。
迎えたノーサイド。 結果は…10対8。 早稲田の猛攻に耐え、10年ぶりに、慶應大学が勝利したのだ!

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あの悲劇からおよそ3年…ケガにより全てを失った杉田秀之は、新たな人生を歩みだすスタートラインに立った。 チームはその後、日本一を逃すも…杉田はかけがえのない一年を過ごすことができた。 そして、同期から遅れること約1年半、慶應大学を無事卒業。 すでに卒業した同期も祝福に駆けつけた。

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世界的な金融企業に就職した杉田。 仕事に忙殺され、月日はあっという間に流れていった。
そんな中、ちょうど事故から10年後のこと…杉田は、家族とともに、ケガをした因縁の場所、菅平高原を久しぶりに訪れた。 そのことを、かつての仲間に何気なく報告。 すると…「みんなで富士山登りたい」という話が持ち上がった。

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林監督「良くなったら…おまえが良くなったら一緒に行こう」
10年前に杉田と監督が交わした富士登山の約束は…あの後、合宿地に戻った監督によって伝えられ、ラグビー部全員の約束となっていたのだ。
もちろん、杉田自身も忘れてはいなかったが…日常生活は送れるとはいえ、体には麻痺が残っている。 歩くのにも杖が必要で、これ以上、劇的な改善は期待できない。 登山など、とても出来るような体ではなかった。

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だが、30代になり、同期が結婚する機会が増え、頻繁に再会するようになると…会う度に、富士登山について詰め寄られた。
仲間たちは…こう言って、杉田を励ました。
「途中で足が動かなくなったら、オレらが担いでも登らせてやるから」
冗談ではなく誰もが本気だった。

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あの時の約束を果たす為に…何より、自分を支えてくれる人たちの思いに答えるために、杉田は富士登山を決意。 そして、昨年3月、同期のキャプテン竹本の結婚式。 その余興のVTRで…富士登山計画が発表された。
約束をした張本人、林監督を含む、数人の仲間による話し合いの末、杉田と近い学年の代にも声がかけられた。 また、決行日は、ワールドカップによるトップリーグの中断期間も踏まえ、あの約束から 約12年後の2019年8月23日に決まった。

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杉田は、仕事の合間を縫い、トレーニングを開始。 手足に麻痺が残る彼にとって…段差を越えるなど、登山に必須の動作は難しい。 さらに…トレーニング開始直後は、少し運動しただけで…痙攣、立つのがやっとの状態だった。
そこから週5日、以前から通うリハビリ施設だけでなく、アスリートも通うジムでハードトレーニングをこなし、体を鍛えていった。

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そして、今年の8月23日。 いよいよ、12年後越しの約束を果たす時がやってきた! 通常なら6時間で登頂できる富士山。 だが、杉田の足では最低12時間はかかる。
さらに、身体の疲労も考え、まず、初日で9合目まで行き、そこで一泊。 2日間かけて登頂を目指すことに。

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杉田本人をはじめ、主務の澤野、同期のキャプテン竹本、高校から同期の落合、そして 約束をした張本人である林監督を含め、この日程で登るのは約20名。 仕事などで初日から参加できない、後発隊60名以上は、翌朝 登山を開始し、先発隊と9合目で合流。 その後、全員で登頂する予定だった。 登山ガイドは、12年前もお願いしていた三浦雄一郎さんの次男・登山家の三浦豪太さんに依頼。

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準備は万全だったが…問題が1つあった。
天気予報によると初日・2日目ともに風雨が激しく、登頂できるかは五分五分。 プロの目から見て、予断を許さない状況だった。
それでも、午前4時半 登山開始。 ヒッポと呼ばれるアウトドア用の車椅子を、仲間たちが運ぶ。 足が不自由な杉田は、自力での下山が困難なため、これに乗せ、みんなで引っ張り下ろす予定なのだ。 激しい風雨のなか、一歩一歩 踏みしめるように登る杉田。

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先発隊の中に、今回の登山にひときわ熱い思いを抱く人物がいた…落合陽輔。 付属高校時代からラグビー部の同期、杉田のラグビーにかける思いの強さを誰よりも知っていたからこそ…杉田のケガで受けた衝撃も大きかった。 かける言葉がみつからず、会いに行っても話すことができず、会うのも辛い関係になってしまったという。 その後、4年生で杉田がラグビー部に復帰した時も…卒業後、仲間が富士登山をするように迫っていた時も、どこか杉田と距離を感じていた。 落合の胸の中には、自分は杉田と元の関係に戻れていないという思いがあった。 落合は、杉田との関係の修復を本当の意味で達成するため、登山に望んでいたのだ。

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そして、登り始めておよそ1時間、6合目に到着。 だが、風雨の勢いは増すばかり…翌日の午前中まで、天候の著しい悪化が予想されたため、当初の日程で登山を続けるのは ほぼ不可能だった。 通常の倍の時間がかかり、体力的にも不安な杉田の足では、明日1日で山頂まで行くことはできない。 明日、9合目まで登り、明後日 日曜日に登頂と日程を変更する必要があった。 しかし…遠方からのメンバーの中には、日曜日の早い時間に帰路につかなくてはならない者もいる。 そのため日程をずらせば、かなりの人数がかけることに…。 おそらく、二度とこの人数で集まることは不可能。 それは、登山計画の挫折を意味していた。 果たして!

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登山計画を阻む、悪天候。 それでも、この日 6合目の山荘にたまたま空きがあったため、天候回復にいちるの望みを託し、待機することに。
仲間たちは、まだ誰も登頂を諦めていなかった。 その想いが奇跡を引き起した。
一時的に天候が回復。 さらに、この後4時間は晴れることも判明。

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この日のうちに、一番時間のかかる7合目まで行ければ、杉田の足でも翌日の天候回復後、頂上を目指すことが可能。 だが…7合目の宿が満室のため、8合目まで行かなければならなかった。 そこで 杉田は、全員で登頂することを優先し、場合によっては登りでもヒッポを使うことにした。

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険しさを増す登山道。 すると…ここで、杉田の元へ向かう人物がいた。 先発隊の中で唯一、杉田がケガをした当時4年生だった金井健雄。 プロップに転向した杉田を、キャプテンとして指導。 怪我の瞬間を間近に見た人物の一人である。

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現在は、トップリーグでプレーする金井。 所属するチームでは、リザーブに回ることが多くなったが、それでも 現役にこだわるのには訳があるという…
「(現役を)続けて自分がラグビーしている姿、杉田が本当はこうしていたかもしれない姿を見せることで勇気付けられればいいかなと思って。」
いつも金井の心には、杉田がいたのだ。

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さらに、日本代表に選ばれたこともある同期の小澤直輝は…「途中で足が動かなくなったら、オレらが担いでも登らせてやるから」と言って、杉田の背中を押した人物だった。 小澤は 自らも大怪我を負った。 その際、登山のトレーニングをする杉田と同じジムに通い、日に日にたくましくなる杉田の姿に刺激を受けたという。 そのため、数日前に子どもが生まれたばかりにもかかわらず、参加した。

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そんな仲間たちとともに、ついに降り出してしまった豪雨の中…あるときは、体力回復のためヒッポに乗りながら。 あるときは、仲間に手を引かれながら登り続けた。 目指す8合目は目の前。 だが…ここからは、足の不自由な杉田にとって難関となる岩場が続いていた。

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そして、午後5時。 杉田は、予定より少し遅れたものの…この日の目的地、8合目に到着した! 一時は登山中止に追い込まれた激動の1日目が終わった。

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翌朝、予報は外れ、風雨はやんでいた。 そして、登り始めて約1時間後 9合目に到達。 すると、眼下には…後発隊の姿があった! このおよそ4時間前、60名以上もの仲間が富士山を登り始め、あと少しというところまで追いついて来たのだ!

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その中に 当時4年生だった岡本夏樹がいた。 怪我の瞬間、杉田の真後ろのポジションで、スクラムを組んでいた岡本。
「自分の組み方が悪かったのかなと思ったことは過去何度もありました。」
杉田が二度とラグビーができない…それを知って、当時 一番泣いていたのが岡本だった。 後発隊もそれぞれの想いを抱え、登って来ていた。

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疲労もたまり、苦しい中、仲間の助けが杉田に力を与える。 9合目出発から 約1時間、山頂前の最終地点に到着! すると…数分後、後発隊と合流。 後発隊は山頂で杉田を待つため…先に出発。

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仲間達から力を貰い…いざ、山頂へ。 最後の力を振り絞る…12年前の約束を果たすために。 仲間たちもそれぞれ、12年間の想いを胸に馳せながら杉田の登頂を待つ。 そして…登頂!
杉田は…「いや 嬉しいです。こんなに仲間がいるっていうのがうれしいです。最高です!」

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帰りは仲間に引かれ、ヒッポで下る。 約80名の参加者は、誰一人怪我することなく無事下山した。
登山後、杉田は自身のSNSにこうつづっている…『やっと本当にラグビー部に戻れた』と。

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杉田は、現在忙しい仕事の合間を縫って、脊髄損傷患者を支援する活動を行なっている。 回復する自分の姿を見て、希望を持ってもらいたいと思ってのことだ。

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富士登山を終えた2日後…杉田は、ある場所を訪れていた。 かたわらには、一人の女性。
実は約1年前に付き合い始めたアヤノさんに…今年5月、怪我をした地菅平でプロポーズ。 怪我をしてからちょうど12年目のその日に、入籍したのだ。

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アヤノさんは、登山を終えた杉田にこんな変化を感じたという…
「顔がなんか凛々しく、顔つきがちょっと変わったように私は感じまして。多分、焼けたのもあると思いますし…仲間と自分がやりたかったことをやり遂げて、その達成感が自信に出ているのかなと思って。そういう感じがします。」