1月18日 オンエア
失われた日本の美徳を守る職人の闘い
 
 
photo  瀬戸内海に浮かぶ、小豆島。 風光明媚なこの島に誰もが驚く空間がある。 それが…こちらの醤油蔵だ。 明治時代に作られたというこの蔵には、直径およそ2m、高さ2mに及ぶ木桶が66本も立ち並ぶ。 その多くは100年以上、中には150年以上もの間、醤油造りに使われ続けている。
 
 
photo  小豆島は、醤油造りが盛んな島であり、このような醤油蔵が全部で21 存在している。 その中で、特に注目を集めているのが、このヤマロク醤油。 先祖代々続く醤油の味を守り続けているのは、5代目、山本康夫さん。
 
 
photo  今から45年前の1972年、ヤマロク醤油を経営する山本家の長男として誕生した康夫さん。 物心がついた頃には、父・健司さんが4代目として醤油造りを行っていた。 先祖から祖父へ、祖父から父へと受け継がれてきたヤマロク醤油は、昔ながらの醤油造りを続けてきた。
 醤油は昔からあったのだが、江戸時代に大桶ができたことによって、大量生産・大量物流が可能になり、全国に広がっていった。 醤油が広がることによって、今の和食の形が作られ、小豆島でも江戸時代から醤油造りが始まり、今に至るという。
 
 
photo  醤油はまず、原料の大豆と小麦に麹菌と塩水を混ぜ、諸味と言われる状態を作る。 それを木桶の中で、およそ3年間…時々空気を入れるため、かき混ぜながら熟成させる。 すると…天然の酵母菌や乳酸菌が作用し、諸味は徐々に発酵。 それを絞り、さらに熱を加え、不純物を取り除いて、ようやく完成。
 現在の醤油のほとんどは金属のタンクで工業的に造られている。 理由は、木桶での醤油造りは温度調整などの管理が難しく、非常に手間と時間がかかるからである。 そのため…木桶で造られている醤油は、日本全国で造られている醤油のうち、1%未満だという。
 
 
photo  銀座『鮨よしたけ』、ミシュラン3つ星にも選ばれたこの店では数年前からヤマロク醤油を使用している。
店主の吉武正博さんは、木桶醤油の魅力をこう話してくれた。
「他の醤油と違うのは、一口なめた時に塩っぽさが先に来ない。大豆の甘みがきて、塩分濃度が後からついてきて、なおかつ口に広がる香り、大豆の香りを生かしている。国産の本マグロを使っているんですけど、本マグロの酸味とか香りを引き出してくれるような、丸みのある醤油なので、そこらへんが非常に良い感じですね。」
 
 
photo  しかし、一体なぜそんな味がでるのか? 康夫さんによれば、生態系が関係しているという。 木桶や蔵の柱や梁、土壁に菌が棲みつく、蔵によって菌の数や種類は様々。 その菌が発酵の過程で様々な形として作用し、それぞれが複雑に絡み合って、醤油の旨味、甘味、香り作り出していると言われるが、詳しいことは科学でも解明できていないという。
 
 
photo  幼い頃から父の醤油造りを見てきた康夫さんは、いつからか、その後を継ぐことを考えていた。 そんなある日…醤油の味見をしたところ、いつもと味が違うことに気がついた。 実は…原料の大豆を変えたものだという。 父は祖父から醤油造りを受け継いだだけでなく、自分でも工夫を凝らしていた。
父は康夫さんにこう言ったという。 「お前も継ぐんだったら、その時は自分なりに色々と考えなきゃダメだぞ」
 
 
photo  こうして、醤油のことを少しづつ知っていった康夫さんも、大学を卒業。 当然、家業を継ぐつもりで小豆島に戻った。
しかし…父は「醤油屋は儲からん、お前は別の所に就職しろ」と言ったのだ。 経営があまり良くないということは、分かってはいたが、康夫さんはショックを受けたという。
 
 
photo  明治初期から醤油造りを行っていたヤマロク醤油だったが、戦後の爆発的な人口増加と高度経済成長により、醤油も大量生産の波に飲み込まれ、価格はどんどん下がっていった。 ヤマロク醤油も祖父の代から経営が悪化していった。
 
 
photo  そして、そのしわ寄せは、父の代にも…当時、ヤマロク醤油は業務用の醤油の生産をしていたのだが…業者が求めていたのは、質よりも価格や量。 ヤマロク醤油も無添加の味にこだわった醤油を造りながらも、添加物を入れて量を増やした安い醤油を主力商品にしていた。 だが、大手メーカーのように大量生産もできないため、経営は苦しかった。 それでも、工夫を重ね新たな味に勝機をかけたが、売り上げはかんばしくなかった。 そのため、父は康夫さんに「継がなくていい」と告げたのだ。
 
 
 こうして、ヤマロク醤油で働くことが叶わなかった康夫さんは、佃煮メーカーに就職。 photo 小豆島を出て、東京などで働いたのだが…島を出て6年経っても、ヤマロク醤油への思いは捨てられずにいた。
 そんなある日、都内のスーパーでヤマロク醤油が置いてあることに気がついた。 店の人に聞いてみると…味の評判が良いため、小豆島から取り寄せているということだった。 高くても良いものを分かってくれる人がいる…康夫さんは嬉しかったという。 そして…康夫さんは小豆島に戻り、父に後を継がせてくれるように頼み込んだ。
 
 
photo  こうして29歳の時に、康夫さんはヤマロク醤油に戻り、父の元で醤油造りを一から学んでいった。 その翌年、小児科で医師を務める妻と結婚。 家庭を持ったことで、より仕事に打ち込んだ。
 しかし、2年後の2003年、思わぬ事態が起きた。 父が突然、倒れたのだ。 何とか一命を取り留めたが、ウィルス性の病気だったため、醤油造りの菌に影響を及ぼすこともあり、しばらく蔵に入ることはできず、醤油造りは康夫さんに託された。
 
 
photo  こうして、急遽 5代目として後を継ぐことになった康夫さん。 しかし、それはあまりにも厳しい船出となった。 ヤマロク醤油の経営は想像以上に悪化していたのだ。 毎年 赤字が続いており、このままでは倒産するのも時間の問題だった。
 実は、小豆島に400件あった醤油蔵も現在では21件に減っていた。 それでもヤマロク醤油がここまで潰れずにこれたのは、父が新しい大豆で勝負をしたりなど、色々工夫していたからだった。
 
 
photo  康夫さんは、考えた末、ある思い切った手段に出た。 何と、安売りの醤油を止め、全て無添加の醤油に切り替えたのだ。 さらに、大半を占めていた業務用の商品を縮小、個人向けとして、145mlの小瓶の販売を開始した。 小瓶に入れたのは、再仕込みという手間はかかるが、より角の取れたまろやかな味になる「鶴醤(つるびしお)」。 そして、父が丹波の黒豆で造り上げた「菊醤(きくびしお)」。 この2種類にかけたのだ。
 
 
photo  小瓶なら、気軽に試し買いをしてくれる可能性が高い。 ヤマロクの味を1人でも多くの人に味わってもらいたいという思いからだった。 個人消費者に向けた仕事は、梱包作業や輸送など、それまでの業者向けの仕事よりも何倍も手間がかかったが、康夫さんや社員たちは寝る間を惜しんで仕事に励んだ。
 さらに、一度でもヤマロク醤油を買ってくれた顧客たちに、ダイレクトメールを送るなど、地道な作業を続けた。 すると…じわりじわりと注文が増えていったという。 そして、後を継いで5年。 ついに赤字を脱することに成功した!
 
 
photo  その後、父・健司さんの容体も回復。 3人の子宝にも恵まれた康夫さんは、幸せな家庭を築いていた。 そんなある日のこと…長男の康蔵くんが「お父さんと一緒に醤油屋になる!」と言った時…母が「それまで桶が持つといいわね」と言ったのだ。
 醤油造りの木桶は、寿命が100年から150年と言われている。 そのため、戦後以降、新しい桶を補充していないヤマロク醤油の木桶も息子の代以降まで持つかどうか分からなかったのだ。
 
 
photo  そこで康夫さんは、改めて桶造りについて調べてみた。 すると…100年前には大阪の堺に47件あった桶を造る会社が、今は1件に減っていたのだ。 しかも、最後に残った1件、藤井製桶所も数年後に廃業してしまうことがすでに決定していた。
 
 
photo  木桶が使えなくなれば、子供や孫の世代でヤマロク醤油が造れなくなる…そんな思いを抱きながら、蔵を見ていた時…桶の脇に木材が置いてあることに気がついた。 それは蔵で使われていた桶の材料だという。 実は、康夫さんが大学生の頃、フォークリフトを蔵に入れるため、木桶を2つ解体したことがあった。 その時、父・健司さんは、今の桶が使えなくなった時に蔵の菌が棲みついたこの木材を使うことができるようにと、解体した木桶の材料を捨てずに取っておいたのだ。
 
 
photo  翌日、康夫さんは すぐさまある場所に電話をかけた。 康夫さんが起こした行動…それは何と、桶造りの職人に弟子入りすることだった! 木桶は3人でないと組み立てられないため、小豆島の大工2人に協力を頼み、共に木桶造りを学んだ。
 桶造りには、独特のノウハウが必要だったため、修行は連日続いた。 そして…1つの桶が完成。 それは、今を未来へと繋ぐ桶だった。
 
 
 こうして、技術を学んで小豆島に帰った康夫さんは、さっそく、自分たちだけで桶造りに取り組もうと思ったのだが…小豆島には真竹を扱っている材木店が1件もないことが判明した。
photo  木桶を造る際、竹を材料としたタガで木材を締めて隙間ができないようにする。 直径2mの木桶に使用するタガを造るには、13m以上の長さの真竹が必要だった。 その長さにするには、竹林の竹を定期的に間引く作業が必要なのだが、小豆島にはそこまで長い真竹が存在しなかったのだ。
 京都には長い真竹があるはずだが、その長さの竹を車で運搬することは不可能。 竹をあらかじめ丸めておけば、車でも運搬可能だが、型がついてしまい、きつく締められなくなってしまう。 ヘリでなら運搬は可能だったが、そんな費用はなかった。
 
 
photo  近所の老人が竹炭造りが趣味だと聞いて、どこかに長い竹がないかと聞いて見ることにした。 すると…その老人の裏山に真竹があるという!
 そしてなんと、この竹を植えたのは康夫さんの祖父だというのだ! 祖父は生前、木桶を造る職人が減っていることを危惧し、さらに、竹を間引いて真竹を育てる職人もいなくなるかもしれないと心配していたという。 そして、真竹は外から持ってこられない…ヤマロク醤油が康夫さんの代になったら、きっと必要になるからと、その老人の土地に真竹を植えさせて欲しいと頼んだのだという。
 
 
photo  材料は整った。 康夫さんは自宅で木桶造りを開始。 その眼差しは、はっきりと未来を見据えていた。 さらに、噂を聞いた小豆島の他の醤油蔵も交代で桶造りに参加。
 実は、現在の醤油のほとんどが金属のタンクで造られているなか、小豆島の醤油蔵の多くは、ヤマロク醤油と同じように木桶を使って醤油を造っている。 その伝統を絶やしたくないという共通の思いが、人々を動かしたのだ。
 
 
 そして現在、父の残した桶の木材、そして祖父が残した竹で造った新しい桶が実際に使われている。
photo 康夫さんはこう話してくれた。
「次の世代、次の世代に繋ぐために何かしら手を打ってきている。これは醤油だけの話ではないと思う。昔から繋がってきている事は意味があるから続いているんです。繋げていくのって駅伝だと思うんです。タスキを繋いでいくんです。我々は今、タスキを渡された…この渡されたタスキを次の世代に渡していくのが自分たちの役目なんです。」
 
 
photo  康夫さんは、5年前から毎年 木桶を造っており、その数は14本となった。 そしてここ数年は、全国の醤油蔵だけでなく、味噌蔵や酒蔵の方たちも木桶造りに参加。 和食の原点である調味料の製法を絶やしたくないという思いが広がっているのだ。 これらの新しい木桶は、まだ未使用のものもあるのだが…新しい木桶は、康夫さんの子供や孫の世代で使えるように、蔵に置いて菌がつくようにしている。
 
 
photo  実は、これらの桶の底板には、それぞれ子供達の名前と手形が記されているのだという。 さらに…桶の板の接地面に炭で未来へのメッセージが記されているという。 今から100年後、この桶が使えなくなり、桶が解体された時に初めてそのメッセージが出てくるのだ。