6月29日 オンエア
警察庁長官狙撃事件★前代未聞の出来事!威信かけ捜査
 
 
photo  日本の治安を守る警察のトップが、突然、狙撃されるという前代未聞の出来事。 国松長官狙撃事件。 混迷を極めた捜査、その舞台裏に迫る!
 第16代警察庁長官、国松孝次氏が狙撃され、3発の銃弾を浴びた事件が起こった。 犯人は、マンションの通用口から秘書と共に出てきた長官に狙いを定め、正確に射抜いていた。
 警察は威信をかけた大捜査を展開。 彼らが真っ先に疑いの目を向けたのは、麻原彰晃、本名・松本智津夫を教祖とする宗教団体『オウム真理教』だった。
 
 
photo  なぜなら、1995年3月20日、長官狙撃事件の10日前に『地下鉄サリン事件』が発生。 その2日後、教団への強制捜査に踏み切った人物こそ、当時の警察庁長官、国松孝次だった。
 しかも、彼が襲撃された1時間後、テレビ局に電話があり、「オウムに対する捜査をやめなければ、他にも怪我をする人物が出る」との脅迫が告げられていた。 こうした事実から警察は、事件にオウム真理教が絡んでいる可能性が高いと考え、徹底捜査を開始。 アンビリバボーでは、ジャーナリスト・鹿島圭介氏が7年に及ぶ取材をもと著した本をもとに事件を紐解いていく。
 
 
photo  3発の銃弾を浴びた国松長官は、日本医科大学付属病院に救急搬送された。 成人男性の全血液量の2倍に相当する10リットルの輸血が行われた結果、奇跡的に一命を取り留めた。
 捜査本部が置かれたのは、現場を管轄する南千住警察だった。 今回のケースは、本来であれば殺人などの捜査を行う、刑事部の捜査一課が担当する事件である。 しかし、当時、刑事部は地下鉄サリン事件の捜査や、オウム真理教関連施設への強制捜査に追われ、捜査員はフル稼働状態だった。 そこで長官狙撃事件の特捜本部を主導することになったのが、公安部だった。
 
 
photo  公安部はオウムによる捜査撹乱を狙った組織的な犯行ではないかとにらみ、オウム在家信徒、元出家信徒に面接を行った。 麻原彰晃の信頼を勝ち得ているかどうか、犯人の潜伏先に直結するような情報があるかないかなどの捜査を行った。
 さらに、実行犯の痕跡を探すべく、徹底した現場検証も行っていた。 結果、犯人のものと思われる遺留品が発見される。 1つは、北朝鮮で製造された『人民軍記章』、軍人が身につけるバッジである。 そしてもう1つは、『韓国のウォン硬貨』。 さらに国松長官の体内に残っていた銃弾から弾は火薬量が多く、先端が丸くカットされたタイプのものであること。 また、使用された銃は、長い銃身が特徴のコルト社製のパイソンである可能性が高いことが判明した。
 
 
 それだけではない、聞き込みの結果、マンションの住民にただ1人、狙撃の瞬間を目撃していた女性がいたのである。 現場は「アクロシティ」というマンション群、女性は当時、犯人から30メートルほど離れた棟の3階に住んでいた。 ベランダに出た時に音がして、パッと見たらちょうどピストルを構えて撃っている姿が見えたという。 犯人は、動きが非常にスマートで、映画を見ているような印象を受けたという。
photo  さらに、逃走する犯人を見たという人々の目撃情報によれば、犯人は自転車に乗り、アクロシティの敷地内を大通りへ向かって走り去ったという。 その目撃者たちの証言によれば、犯人の身長は170cm以上、年齢は20代〜30代だったという。
 犯人像が徐々に絞り込まれていく中で、公安部がやはり一番重要視したのは、それまでに教団が起こした数々の事件で身柄を拘束されていた、オウム信者への取り調べだった。 だが結局、犯人と結びつく決定的な証拠を見つけることはできなかった。
 
 
photo  有力な容疑者にたどり着くことはできず…事件から1年半が経過。 捜査が行き詰まったと思われた時、マスコミ各社に匿名の告発文が送られた。 その内容は、『国松警察庁長官狙撃事件の犯人は警察庁警察官(オーム信者)既に犯行を自供している。しかし、警察庁と警察庁最高幹部の命令により捜査は凍結され隠蔽されている。』
 犯人は身内である公安の現職警察官。 告発文によりその存在が明らかとなったK巡査長とは、いったいどんな人物なのか?
 事件の8年前、専門学校を卒業し警視庁の警察官に採用された彼は、その翌年、オウム真理教へ入信。 地下鉄サリン事件など、様々な事件の捜査にあたる一方で、捜査状況を教団関係者へ漏らしていたというのだ。
 
 
photo  とある信者から、この事実を知らされた捜査員がK巡査長の事情聴取を秘密裏に行ったところ、彼は国松長官を狙撃したことを認めた。 その供述によれば、事件当日、国松長官が住むアクロシティからほど近い駐車場で、救済という大義のもと、教団幹部から狙撃を指示されたという。 教団幹部は、捜査をかく乱するために、植え込みの近くにバッジとコインを置いて立ち去ったという。 事件の翌日、K巡査長は神田川に拳銃を投げ捨て、着ていたコートもクリーニングに出したという。
 特捜本部は、神田川で徹底した凶器の捜索を行った。 しかし、2ヶ月近く探し続けたにも関わらず、銃が発見されることはなかった。
 
 
 警視庁は警察の内部情報を漏らしていた彼を懲戒免職とする一方、取り調べは続けていた。 K元巡査長は、事件の前日に荒川の河川敷にあった看板を狙い、射撃の訓練をしたと供述。 photo その看板には『自動車のドアはロックしてください』と書いてあったという。
 後日、特捜本部は、荒川の河川敷でその看板を特定した。 だが、そこには銃弾の跡が残っていないどころか、事件の1年も後に立てられたものだった。 つまり、供述の裏付けをとることは出来なかったのだ。 それだけではない、K元巡査長が共犯として名指しした他の信者も、地下鉄サリン事件など他の事件については関与を認めても、国松長官狙撃に関してだけは、一貫して犯行を否認。
 
 
photo  公安部が犯人だと睨み、追いかけていたオウム信者のK元巡査長。 しかし、決定的証拠は得られず、捜査は完全に行き詰まっていた。 さらに実は、K巡査長以外にもう1人、容疑者がいた。
 長官狙撃事件から7年後、名古屋の銀行で現金輸送車襲撃事件が発生。 犯人はその場で取り押さえられたのだが、逮捕当初、男は何1つ話そうとはしなかった。 そのため、氏名はおろか年齢、職業、住所など全てが不明だったのだが、指紋を照合すると、この男には前科があることが分かった。
 男の名は、中村𣳾、当時72歳。 遡ること46年、この日、中村は車の中で仮眠をとっていた。 職務質問をしようとした警察官に向かっていきなり発砲、殺害したのだ。 その後、中村は20年近くを刑務所で過ごした後、出所した。 中村は、事情を聞こうにも一向に口を開く気配はなかった。
 
 
 鹿島氏によると、そんな中、愛知県警の捜査員は地道な捜査を重ね、鍵となる人物を突き止めたという。 大阪で経営コンサルタントをしていた斉藤雅夫(仮名)。 かつて殺人事件を起こし、中村と同じ刑務所に入っていた。 鹿島氏によると、間もなく捜査員は斉藤の居場所を突き止め接触、ついに中村のアジトを聞き出した。
photo  三重県の名張市にアジトはあった。 アジトから、偽名のパスポート、偽造された運転免許証、さらに、自分の指紋を残さないように作られた偽造指紋まで見つかった。 さらに、中村が利用していた銀行などの貸金庫には、16丁の拳銃の他に、ライフル、手榴弾など様々な銃器類が保管されていた。 中でも捜査員たちが最も驚いたのは、アジトから見つかったダンボールだった。 中には、国松長官に関する記事が入っていた。
 鹿島氏の取材によると、中村は1回に200万円を超える高額の株取引を偽名の通帳を使って行っていたという。 さらに、ガスマスクや偽名パスポートなどに使ったと思われる写真も発見された。 捜査線上に突如浮上した中村という人物、彼は一体何者なのか?
 
 
photo  アジトからは、フロッピーディスクも発見されていた。 その中には、詩が入っていたのだが、その内容は驚くべきものだった。 詩が書かれたとされるのは3月30日。 長官狙撃事件があった、その日である。
 『命のためでなく、名を売るためでもなく、恨みもなく、だれにも強いられず、ただこの世のことは今生で片付けよと内なる声に迫られて、戦いの場に赴いた無名の老鎗客(ろうそうかく)』
「老鎗客」とは老いたスナイパーという意味。 まさに狙撃を匂わせるような内容だった。 これを機に、公安部が主導する特捜本部とは別に、刑事部である警視庁捜査一課が密かに動き始めたという。
 
 
photo  狙撃事件の65年前、中村は3人兄弟の長男として東京に生まれた。 成績優秀で複数の外国語を習得し、東大にも難なく合格。 入学後は、学生運動に身を投じる毎日を送っていたが、2年で自主退学すると『世界平和実現のためには、国を戦争に導く政権首脳を暗殺するのが近道』、いつしかこんな思想を抱くようになる。
 心の内に芽生えた歪んだ正義感。 その目的を果たすべく、国内でテロ活動を模索。 武器を調達するだけでなく、活動資金を得るために金庫破りなどの犯罪にも手を染めていたという。 あの時、警官を殺害したのも、所持していた武器の発覚を恐れ 犯行に及んだものだった。
 
 
photo  鹿島氏は、長官狙撃事件と中村の関連性について、どのメディアよりも早く記事にしていた。 ただ、それはあくまで犯人の可能性が高いのは中村だという、推察の記事にしたという。 鹿島氏は、中村に取材内容をぶつけて、感触を取ろうと思ったのだ。 中村は、鹿島氏の記事をスクープだと認めながらも、こう答えたという。 「私は長官狙撃事件については『否定』も『肯定』もしません」
 
 
photo  中村の犯行を匂わす数々の状況証拠。 こららは当然、刑事部から公安部にも伝えられた。 しかし、公安部は彼を重要な容疑者とはみなしていなかったという。
 公安部は、オウム信者1本に絞っていた。 さらに、目撃証言によれば、犯人の身長は170cm以上、年齢は20代が〜30代だったのだが、中村は身長160cmほどで年齢も当時65歳。 証言とはかけ離れていたのである。 一方、K元巡査長は、目撃情報と近い犯人像だった。
 
 
 目撃情報とは違えど、長官狙撃事件との関わりを匂わせる中村。 刑事部の捜査員たちは、その後も取り調べを重ねたという。 しかし、事件から9年が経過した2004年7月7日、公安部が主導する特捜本部は、K元巡査長を含むオウム信者3人を長官狙撃事件の殺人未遂容疑で逮捕したのだ。
photo  以前は供述の裏が取れず、彼を逮捕・起訴できなかった公安部だが、今回は事件への関与を裏付ける決定的な証拠を手に入れていた。 それが、射撃残渣である。 これは、発砲の際、銃弾から出るごく微量な火薬や金属成分のこと。 最新鋭の鑑定技術によって、K元巡査長のコートからこの射撃残渣が検出されたのだ。
 しかも、その成分が事件直後、発砲現場の壁から採取されていたサンプルと一致。 すなわち事件当日、現場にいたのがK元巡査長であり、彼が長官を狙撃した可能性が高いことを示す証拠だった。
 
 
 発生から9年、ついに混迷を極めていた事件に終止符がうたれる…誰もがそう思った。 だが、中村は「これは完全な誤認逮捕ですよ」と言い出した。 ところが、K元巡査長の逮捕は事実誤認だと指摘しつつも、自分が事件に関わっていたかどうかは、依然として曖昧な返答に終始した。
photo  しかし突然、事件の2日前、現場に行ったことを話し始めた。 長官の車のナンバーが変わっていたこと、長官宅を2人の男が訪ねていたことを供述。 さらに、長官宅を訪ねた男たちは私服だったが、警察の人間だろうと推察し、長官の警備体制がより厳重なものへとシフトしたと感じたという。
 だが、中村が話したのはここまで、それ以上事件について語ることはなかった。 後日、捜査員が車両と長官宅を訪ねた男たちの確認をとると、中村の供述に間違いがないことが判明した。
 
 
 一体どちらが犯人なのか? 捜査が混迷を極める中、事態が再び大きく動き出す。 K元巡査長の逮捕から約2ヶ月が過ぎた頃、なんとK元巡査長が嫌疑不十分で不起訴となったのだ。 photo さらに、他のオウム信者は事件への関与を完全に否定。
 確かに当時最新鋭の装置によって、コートから微量の射撃残渣が検出されてはいた。 しかし、あまりに少量で壁から検出されたものと完全に同じだと断定できなかった可能性があるという。 こうして、オウム信者、K元巡査長の犯行説が薄れるなか、それでも公安部は教団関係者の中に犯人がいないか、徹底捜査を続けていた。 しかし、有力な情報も得られぬまま時間だけが過ぎていった。
 
 
photo  だが、事件の時効まであと2年と迫ったある時、中村がついに犯行を認めたのだ。 供述によると、現場に到着した中村は、捜査をかく乱するため、足元に北朝鮮人民軍バッジを置き、エントランスホールに向かって、韓国の10ウォン硬貨を放り投げたという。 この時、長官との距離およそ21メートル。 1発目は長官の背中に命中、長官が倒れこむ寸前に2発目を撃ち込み、秘書官が長官に覆いかぶさったため、3発目はかろうじて露出していた長官の右足の付け根あたりを狙ったという。 さらに追撃を防ぐため威嚇射撃を行い、その後は、逃走用に用意していた自転車に乗り、猛然とペダルを漕いで現場を後にしたという。
 逃走用の自転車は、マンションから出て数百メートルほどの所にある、喫茶店の脇に乗り捨てた。 その際、スタンドを下さず、自転車を立てかけたままにしておいたという。
 それにしても一体なぜ、中村は突如、犯行を認める供述を始めたのか? 鹿島氏はこう推察する。 「本人にとってはメモリアルな事件について、墓場まで持っていく、歴史には残さないと思っていた。ところがK元巡査長の犯行説が出て、横取りされるような悔しさがあった。時効が迫る中で事件と自分との関係をどこかで誇示したいという思いがあった。」
 
 
photo  鹿島氏による捜査員への取材で明らかとなった自供の内容。 実はこの中にも、犯人にしか知りえない事実、『秘密の暴露』が存在していたという。
 中村が植え込みから投げたと語ったウォン硬貨。 当時の新聞報道を見てみると、人民軍のバッジと共に植え込み近くに落ちていたと報じられていた。 だが実際は、狙撃地点から3〜4mほど離れたFポートのエントランス付近に落ちていたのだ。
 
 
 事件2日前の供述、ウォン硬貨の遺留地点、中村への疑い深まる中、鹿島氏にはどうしても気になることがあった。 それは、犯行動機。 鹿島氏は、手紙のやり取りや面会を重ね、中村の心の闇に迫っていった。 中村は動機についてこう話していた。「国松長官はある種、犠牲だったんです。オウムから日本を守るための、やむ得ない犠牲だったんです。」
photo  中村のこの考えには、きっかけとなる出来事があったという。 『地下鉄サリン事件』の9ヶ月前、長野県の住宅街でサリンが撒かれ多くの人々が命を失った、松本サリン事件である。 当初、警察は第一発見者を容疑者とし、オウム真理教に疑惑の目を向けることはなかった。
 半年後、教団施設付近からサリンの成分が検出されたことをマスコミが報道。 これを受け中村は、『松本サリン事件はオウムの犯行である』、そう確信するに至ったという。 にもかかわらず、なぜ警察は強制捜査を行わないのか、危機感を募らせた中村は、このままでは一般市民が犠牲になるかもしれない、自分が何とかしなければ、そう思ったという。
 
 
 だが、中村1人でオウムを壊滅させるには、到底太刀打ちできないほど、彼らは巨大化していた。 そのため、警察による強制捜査に期待するほかなかった。
 しかし2ヶ月後、再び悲劇が起きる。 photo 地下鉄サリン事件だった。 あの時、強制捜査を行なっていれば、このテロは防げたのではないか。 今このタイミングで警察のトップを暗殺すれば、オウムの仕業だと思い込み、警察の幹部たちは次に狙われるのは自分だと危機感を持ち、躍起になってオウム制圧に動くはずだと考えたという。
 当時、警察は教団への強制捜査に入っていた。 だが彼らにオウムを壊滅させるほどの危機感があるとは、中村には思えなかった。 なんとか警察を奮起させ、教団を潰すための作戦だった。
 
 
photo  ようやく自供した中村だったが、実はその中には公安部の実況見分と明らかに異なる部分があった。 それが、4発目の銃弾である。 鹿島氏の取材によれば、中村は刑事部の取り調べでこう語っていた。 「私服警官が視界に入ったので、追撃を防ぐために威嚇射撃を行いました。」 しかし、公安部の実況検分では、この時、まだ警官は現場に到着していなかったという。
 実況見分との明らかな矛盾。 中村の供述への信憑性が揺らぐ中、刑事部の捜査員たちは、凶器の洗い出しに全精力を注いだという。 彼らが凶器を重要視していたのには、訳があった。
 
 
photo  実際の捜査報告書によれば、鑑定の結果、事件に使われた銃はコルト社製の『パイソン』、銃弾は殺傷能力の高い『ナイトクラッド弾』だった。 日本国内で拳銃を入手するのは、困難を極める。 ほとんどが裏で流れている闇ルート、一般市民ではほとんど手に入らない。 そんな中、パイソンは日本国内で選べる銃の中では最大限に殺害に向いた銃だった。
 さらに、国松長官の体内から発見された銃弾、フェデラル社の『ナイトクラッド弾』は、かなり特殊なものだった。 通常の銃弾は先端が尖っているために体を直線的に貫通する。 しかし、ナイトクラッド弾は、着弾すると先端がマッシュルーム上に潰れることで、内臓をズダズタに切り裂く、殺傷能力の高いものであり、入手するのは非常に困難だった。
 
 
photo  これら2つの凶器の入手先について中村は、鹿島氏との手紙の中で、『テルオ・コバヤシ』という名前を使い、アメリカの『ウェザビー』という銃砲店でコルトパイソンを購入。 ナイトクラッド弾は、銃の展示会で手に入れ、『エーアメリカン』という貸し倉庫に保管したと明かしていた。 その後、銃はバラバラに分解し、バッテリー充電器などに隠して輸入、日本で再び組み立てたという。 銃弾も同様に様々な機械に隠して日本に持ち込んだという。
 しかし、鹿島氏の捜査員への取材によれば、事件の2週間後、中村は銃や実弾を伊豆大島に行く船から海に捨てたとされる。 供述が本当ならば、発見するのは極めて困難…しかし、捜査員は諦めなかった。 中村がコルト社製のパイソンとナイトクラッド弾を入手、所持していたとう痕跡が見つかれば、逮捕できる可能性があったのだ。 刑事部の捜査員たちはアメリカまでその痕跡を探しに行った。
 
 
photo  今年6月、番組スタッフは、当時捜査員が辿った足取りを追跡取材するため、アメリカへ飛んだ。 まず向かったのは、メールボックス、日本でいる郵便局のような場所である。 店舗名こそ変わっていたものの、中村は鹿島氏との手紙の中で、ここにある私書箱をたびたび利用したと語っていた。
 店主に話を聞いてみると、日本の警察官が『テルオ・コバヤシ』について聞き込みに来たという。 テルオ・コバヤシは、20年くらい前に私書箱を持っていたという。
 続いて訪れたのは、パイソンを購入したウェザービー社。 かつて中村が購入したと語る店はすでに廃業していたのだが、移転し、工場を備えた本社として存続していた。 だが、何度も交渉を試みるも、取材には一切応じてもらえなかった。
 そんな中、鹿島氏が1つ書類を見せてくれた。 そこには、テルオ・コバヤシという人物がコルト・パイソンをウェザビー社の店舗から購入した事実の裏付けが取れたと記載されていた。
 
 
photo  さらにあの希少な銃弾に関して、中村は鹿島氏との手紙に中でこう明かしていた。 『エーアメリカン』という個人向けの貸し倉庫を『モリオ・アマノ』の名義で借り、さらに、その中に大量の銃器と一緒に50前後のナイトクラッド弾を保管していたと。 鹿島氏によれば、捜査員たちは今から8年前、中村が銃弾を預けていたとされる倉庫の場所を突き止めたという。 しかし中村は、現金輸送車襲撃事件で逮捕され、賃料が払えなかったため、保管されていた銃弾は処分されていた。
 だが、貸し倉庫『エーアメリカン』の管理担当幹部は、中村の大量の銃器や弾薬類などの荷物を撤去整理した際、何が残っていたか詳細にメモして記録していた。 その記録の中にナイトクラッド・ネイビー・ブルー何発という表記があったという。
 年齢身長など目撃証言との食い違い、また4発目の銃弾に関する実況見分との矛盾。 こうした事実がある一方、刑事部は当時、凶器の銃、そして銃弾ともに中村が所持していたことを示す証拠を手に入れていた可能性が高いという。
 
 
photo  2010年3月30日、時効成立。 中村は逮捕・起訴されることなく、事件は迷宮入りしてしまったのである。
 時効の翌日から30日間にわたり、警視庁はホームページにこれまでの捜査の内容をまとめた文書を掲載。 結論に記されていたのは、時効成立時に開かれた会見での言葉だった。 『この事件はオウム真理教の信者グループが教祖の意思の下に、組織的計画的に敢行したテロであったと認めました』
 警視庁が開いたこの会見は、当時、異例のものとして物議を醸した。 無理もない、確たる証拠がなく、立件できなかったにも関わらず、『オウム真理教の信者グループによる犯行である』と断定したのだ。 それでも警察が、このような発表をしたのは、『国民の命を守り、テロの悲劇を二度と繰り返さないため』という正義からだと会見の中で語っている。 これは、法治国家としてあるまじき行為だと、メディアや多くの識者から批判を浴びた。 翌年、名誉毀損にあたるとして、教団が訴えを起こすと、その裁判で「警察の発表は刑事司法制度の基本原則を根底からゆるがすもの」と認定された。
 
 
photo  鹿島氏は、7年という長期にわたり、長官狙撃事件にまつわる一連の出来事を取材、事件発生から警察の異例の発表までを1冊の本にまとめた。 犯人についてはこれまで、オウム真理教や中村𣳾だけでなく、様々な説が取りざたされた。 しかし、いずれの説も決め手を欠いていた。 今年で87歳になった中村は、現金輸送車襲撃事件で懲役15年の刑が確定し、現在でも岐阜刑務所に収監されている。
 国松長官狙撃事件、導入された捜査員の数、のべ50万人以上、みな地道な捜査を行った。 しかし、解決すべき事件を解決できなかったのは、まぎれもない事実である。 発生から22年、犯人は今も捕まっていない。