10月1日 オンエア
死の海を救え 〜人生の決断〜
 
 
photo  今から47年前、高度経済成長期の真っただ中、日本が発展の為にひたすら邁進していた時代。 田尻宗昭(40歳)は、海上保安庁・四日市支部に警備救難課長として赴任してきた。
 「海保」こと海上保安庁の仕事は、海難救助から領海の警備まで多岐にわたる。 さらに密輸・密航など、海上で起こるあらゆる犯罪を取り締まる、いわば「海の警察」だ。
 田尻の主な任務は、四日市の漁師たちによる密漁の取り締まりだった。 当時、四日市港周辺では漁師たちが割り当てられた海域の外で漁をする密漁が急増していた。 田尻は密漁者たちを次々に逮捕し送検していた。
 
 
photo  だが、そんなある日のことだった。 「なぜ自分たちの漁区を守らないのか」と聞いたところ… 漁師たちは「俺らの漁区に魚がおらんからや!工場が俺たちの魚を殺したからや!」と訴えた。
 一体どういうことなのか? 実は、もともと四日市港近くの漁場は、カニやエビ、タコ、イカなどが捕れる豊穣の海としてしられていたのだが… 戦後間もなく建設された石油コンビナートの影響で水産物は減少。 捕れるわずかな魚も「油臭い」として、市場で取引停止に… 当時、四日市の海は「死の海」と化していた。
 
 
photo  田尻は法にのっとり、密漁する漁師を犯罪者として逮捕してきた。 だが彼らの言う通り、なぜ死の海を生み出す企業はとがめられずにいるのか?
 田尻はコンビナートの工場を取り締まることを決めた。 部下たちは田尻の言動に驚きを隠せなかった。 部下たちが驚くのも無理はなかった。
 実は当時も公害を生み出す企業はあったが、いずれも健康被害を受けた患者やその家族が民事訴訟を起こし、賠償金を払うか否かの問題として片付けられてきた。 「取り締まる」といっても、こうした企業が刑事告発されたケースは一度もなかったのだ。
 
 
photo  彼らがまず取り掛かったのは、ある工場周辺の海の調査だった。 すると…海水は強い酸性を示していた。 付近に聞き込みをした結果、その工場は生産工程で使用する塩酸水を、毎日大量に海に垂れ流しているということが判明。 近隣の海では、エビ、ウナギなど魚介類が死滅。 それだけではない、塩酸水は近くを通る船のエンジン部品を凄まじい早さで腐食させ、莫大な損害を与えていたのだ。
 だが、田尻らが抜き打ちで工場に事情聴取に訪れると…幹部らは悪びれる様子もなく、田尻たちを協力的に迎え入れた。 工場は、1日500トンもの塩酸を海に流しているという。 田尻が工場を摘発しに来たと告げると…工場の幹部は、「誰が日本の発展を支えていると思ってるんですか!」と激昂した。
 
 
photo  時は高度経済成長期。 コンビナートの工場群は増産に次ぐ増産を重ね、日本の発展を支えていた。 そして、より豊かで快適な生活を求める人々。 経済発展が何よりも優先。 政府も企業も国民も、日本全体がそんな空気に支配されていた。
 必然的に費用がかかり、発展の妨げになるような公害対策は二の次。 海洋汚染はいわば必要悪として黙認されていたのだ。
 
 
photo  田尻らはその企業を水産資源に有害な投棄を行ったとして摘発に踏み切った。 それは、公害企業を刑事事件として告発した日本で初めてのケースだった。 下された処分は、起訴猶予処分。 問題の企業はその後、汚水処理の施設を建設するなど、改善に努力したことが認められ、刑事責任を問われることはなかった。
 そんなある日のことだった。 田尻の元に1本の電話がかかってきた。 その男性は、田尻らが塩酸の垂れ流しを摘発したという報道を知り、連絡してきたという。
 それは、四日市コンビナートにある灰山工業(仮名)で働く従業員からの内部告発だった。 灰山工場では、1日20万トンもの硫酸水を垂れ流しているというのだ! だが、1日20万トンといえば、25メートルプール、350杯分に相当する量。 にわかには信じがたい。
 
 
photo  数日後、田尻は確認のため、工場の裏手にある排水溝へ出向いた。 すると…流れる酸の強さに、コンクリートが溶けきっていたのだ! その工場で生産されている製品は、酸化チタン。 塗料、印刷インキ、化学繊維など、様々な製品に欠かせないものだった。 酸化チタンの製造には大量の硫酸が使われる。 その使用済みの硫酸を海に垂れ流している可能性が高かった。
 だが、工場への立ち入り捜査の令状を取るため、津地方検察庁に向かうと… 検事から、灰山工業は相手が悪すぎると忠告されたのだ。
 実は…摘発をしようとしている灰山工業は、20万坪の敷地と従業員3000人を擁する四日市市最大の企業。 地元で絶大な影響力を持っていた。 さらに、創業社長は政界にも影響力を持つ大物として噂されていたのだ。
 
 
photo  一公務員が相手をするには荷が重すぎた。 田尻はここにきて、さすがに恐怖を感じた。 自分には無理だ…聞かなかったことにしておこう…
 だがその時、田尻の脳裏にある記憶が蘇った。 それは、四日市に来る以前、海上保安庁の巡視艇で船長をしていた時のことだった。 ひどい暴風に見舞われ、船が沈没状態となったことがあった。 壁に頭を打ち、意識が遠のく中で田尻は死を覚悟した。
 その時、田尻は今までの人生で情熱をかけたことがなかったと後悔した。 そして、奇跡的に助かった時、「今度死ぬ時、あの思いを味わいたくない。これからは自分思ったことを誠実に実行していこう」 そう心に決めたのだ。
 
 
photo  田尻は妻に海上保安庁をクビになるかもしれないと告げると… 妻は「あなたが正しいと思ったことをやってください」と言ってくれた。
 田尻は、灰山工業を摘発する仕事を部下たちには強要しなかった。 「この仕事を降りたい者は遠慮なく申し出てくれ」と伝えた。 だが、部下は「課長、やりましょう!」と言ってくれたのだ!
 
 
photo  そもそも公害を犯罪として立件するためには、3つの条件が必要。
① 汚水の量を確定
② 汚水の有害性の化学的裏付けと具体的な被害
③ 企業が故意に汚水を流した裏付け
この3つ、全て田尻らが自らの手で立証しなければ、刑事事件として起訴できないのだ。
 まず、1日に20万トン流出しているという硫酸、その排出量の裏付けを取る必要がある。 しかし、それが問題だった。 工場から流れ出る排水には、様々なモノが混ざっている。 そこから濃度を正確に割り出しても、化学的に算出した数値でなければ裁判では証拠として認められない。
 
 
photo  どれだけの硫酸が海に排出されるのか? それを明らかにするには、製造工程全てを把握する必要があったのだが… 理解しようにも、海保の職員に専門的な化学知識などない。
 田尻らは中学生の教科書からヒモ解き、一から化学について必死に勉強。 さらに、毎週のように名古屋にある研究所まで通い、専門家に教えを請いながら地道な捜査を続けた。 当然のように工場長を始め、従業員たちの中に誰一人、協力してくれる者などいない。
 だが、問題はそれだけではなかった。 巨大企業を敵に回した田尻の家には、嫌がらせの電話が掛かってくるようになっていた。
 
 
photo  その後の調査で、ある事実が明らかとなる。 灰山工業には、酸化チタンの製造工場が2つあったのだが、工場の記録から、酸化チタンの1日の生産量と生産に発生する使用済み硫酸の量が特定できたのだ。
 しかし、ここからが問題だった。 2つの工場から排出される使用済みの硫酸の量は1日約100万トン。 つまり一部は処理され、処理しきれなかった硫酸が海に廃棄されているということである。
 しかし、硫酸の経路を特定しようにも、灰山工業の敷地は東京ドーム 約15個分。 中にはいくつもの工場が立ち並び、何千ものパイプが網の目のように張り巡らされている。 硫酸がどのパイプを通っているのか全くわからない。
 
 
photo  3ヶ月が過ぎ、半年が過ぎても、捜査はなかなか進展しなかった。 そんなある日のことだった。 一人の工員が近寄ってきて… 「構内の肥料を製造している工場を調べてみてくだい。あそこは使用済みの燃料から肥料を作っている、そして余った硫酸を海に捨てているんです。」と言ったのだ。
 実は…灰山工業の構内には肥料を作る工場があったのだが、使用済みの硫酸は全てこの工場で、処理を兼ねて肥料の原料として使用される仕組みになっていたのだ。 商品である肥料の製造量は正確に割り出せる。 そこから原料として消費される硫酸の量も特定できる。
 つまり、酸化チタンの生産で生み出される硫酸の総量から、肥料製造で消費される量を引けば、海に流れ出る量を特定できるのだ。 名も知れぬ工員のアドバイスのおかげで、海に廃棄されている硫酸が1日20万トンであるという裏付けがついに取れたのである。
 
 
photo  だが、まだ大きな問題は残されていた。 起訴するための2つ目の条件。 工場から垂れ流された硫酸による具体的な被害を示す証拠が必要だった。
 硫酸が流れ込んだ港では、実際、魚が姿を消していた。 だが、それだけでは不十分。 魚は自由に海を移動するため、「姿を消した原因が硫酸である」と、はっきり証明するのは難しかったのだ。
 
 
photo  魚では難しい…そう感じた田尻たちが次に当たったのが、四日市の小型タンカーだった。 彼らは灰山工業の目の前にある桟橋に船を停泊、そこを拠点として商売をしていた。 もし被害を証言してくれれば、硫酸との因果関係を証明できるのだ。 しかし、船主は企業の依頼を受けて製品を運ぶ弱い立場。 協力したことがバレたら、仕事がなくなるかもしれない…
 だがそれでも、田尻たちは諦めなかった。 その熱意に押され、仕事を失うリスクを冒して硫酸で船に被害を受けた3名の船主たちが、証拠品として破損したエンジンを提供してくれた。 田尻たちの熱意に、灰山工業と関わりのある人たちまでもが、徐々に変わり始めていた。
 
 
photo  これで送検に必要な2つの条件をクリアした。 だが、最後の難関が待ち受けていた。 「故意に流し続けたこと」を証明する証拠を手に入れなければならなかったのだ。 そこで田尻は大きな賭けに出る。
 ついに灰山工業の大阪本社や東京支社の家宅捜索に踏み切ったのだ。 押収した文書は1000点にも及んだ。 だが、もはや証拠となる書類は全て処分されている可能性も高かった。 それでも田尻らは、1000点もの書類を徹底的に洗った。 一縷の望みを託して…
 
 
photo  それは2年前…通産省の官僚と灰山工業の総務課長の間で行われた会談の内容を記したメモだった。 中には、こう記されていた。
「(硫酸の)処理予定を添付しておく必要がある。ただし、予定はあくまで予定であり、将来これの実行を約束されるものではない。」…と。
 実は2年前、増産のため灰山工業に2つ目の酸化チタン工場が建設された。 それまではその過程で出来る使用済みの硫酸の全てを肥料工場で回収処理していたのだが、第2工場が建設されると回収が追いつかなくなった。 本来であれば、肥料工場を増設し処理しなければならなかったのだが、それをせず、あまった硫酸をそのまま海に垂れ流していたのだ。 にも関わらず、第2工場の操業開始後に行われた会談で、通産省の役人は「処理予定を添付しておく必要がある。ただし、予定はあくまで予定であり、将来これの実行を約束されるものではない。」と語ったという。
 つまり、「処理の予定さえ書いておけば、必ずしも肥料工場の増設は必要ない」ということ。 通産省の役人、そして灰山工業ともに、硫酸の垂れ流しを故意に行っていたことを裏付ける証拠だった!
 
 
photo  3つの条件が揃い、ようやくこれで起訴に持ち込める、田尻はそう思った。 だが、田尻は親しい記者から驚くべき情報を聞いた。 灰山工業の不起訴が決まったというのだ。
 田尻が相手にしているのは、灰山工業だけではなかった。 通産省、そして検察庁までもが、企業の組織犯罪を隠蔽しようとしていると思われた。 もはや、一介の海上保安官にすぎない田尻にはどうすることもできない状況だった。
 
 
photo  田尻は最後の望みを胸に、ある場所を訪れた。 その翌日…あるニュースが日本中に衝撃を与えた。
 1971年1月29日。 田尻が手に入れたメモの内容が衆議院予算委員会の場で暴露されたのだ! 突然の出来事に国会は紛糾、審議はストップした。 一体どういうことなのか?
 実は田尻が訪問したのは、当時、最大野党だった社会党の委員長、石橋政嗣。 例のメモを託し、国会の場で追求するように依頼したのだ。 だが、予算委員会の場で取り上げてもらえるとは限らない。 田尻の一か八かの賭けだった。
 
 
photo  実は、前年の国会で公害に関する法律が成立。 環境庁の設置も決まっていた。 公害に対して厳しい目が向けられていた時期だったため、田尻らが手にしたメモを石橋委員長が与党攻撃の武器として採用してくれたのだ。
 これで、起訴に持ち込める。 その夜、田尻は検事の元を訪れた。 実は…例のメモを石橋議員に渡したのは検事なのではないかと…あらぬ嫌疑をかけられた彼は、その責任を取り、辞職するようにと圧力をかけられていた。
 田尻は検事に「メモを渡したのは私だと最高検に告発してください。事実、やったのは私です。」と言った。 だが…公務員が職務上知り得た秘密を漏らすことは違法である。 明るみに出れば逮捕は免れない。 それでも、田尻はここから必要なのは自分ではないと、告発を促した。
 
 
photo  田尻は記者から自分の逮捕が間近だという情報を得ると、驚くべき行動に出た。 何と、自ら最高検察庁に出頭した。 だがそこで…田尻の逮捕は見送られ、灰山工業の起訴が決まったと告げられた。
 国会質問が決め手となり、政府も世論を無視できなくなったのだ。 そして、重要な情報を提供した田尻もお咎めなしとなったのだ!!
 日本で初めて公害企業の刑事責任を問う灰山工業の裁判は、9年の長期にわたって行われることになった。 皮肉なことに…田尻の捜査中、世論の高まりを受けて灰山工業は処理施設を建設。 硫酸の垂れ流しはすでに止まっていた。 その費用は第2工場の建設とほぼ同額の30億円に上った。
 
 
photo  一方、田尻宗昭は裁判に関わることは許されず、あのメモを渡してから間もなく、和歌山県・田辺支部に異動することになった。 四日市での在任期間は、わずか3年だった。
 田尻が四日市を去る前日のこと…漁師たちが送別会を開いてくれたのだ! それは、かつて田尻が密漁で捕まえた漁師ばかりだった。 公務員である田尻は贈り物を決して受け取らない。 そんな彼のために漁師たちはこの日、あるものを用意していた。 それは…3日かけて練習した海の男たちの歌だった。
 
 
photo  それから9年後の1980年3月。 ついに判決が出た! 灰山工業は有罪、罰金8万円。 犯した罪に比べれば、額は微々たるものだった。
 だがそれは、企業による公害事件に刑事責任が認められた日本初の判決となった。 これを機に、日本全国の工業廃水の規制法が強化され、徐々に公害は減っていった。
 その後、海上保安庁を退職した田尻は、東京都の公害局他、公害対策を行う団体の重要ポストを歴任。 環境汚染に苦しむ人々のために闘い続けた。
 
 
photo  そして、今から25年前。 田尻宗昭は、ガンでこの世を去った。 死の瞬間に後悔したくない、彼の思いは果たされたのだろうか?
 妻・二美子さんは…「やりきったと思います。」
だが、田尻は亡くなる前…長年にわたり支え続けた妻に、唯一の後悔を口にしていた。 田尻は妻に「家庭的でなくて すまなかった」と言ったという。
 
 
photo  彼が命がけで取り戻そうとした四日市の海。 かつて「死の海」と呼ばれた面影はどこにもない。 魚たちも戻り、様々な海産物が水揚げされるまでに回復している。
 田尻が海上保安庁を退職してから数年後、漁師たちから自宅にあるものが送られてきた。 それは…置き時計。 公務員を退いたことで、受け取ることができたのだ。 彼が生涯で唯一、市民から受け取った贈り物となった。
 生前、田尻は日本全国で多くの講演活動を行い、1つのことを訴え続けた。 「人間、必死になって立ち上がったらね、1人でも2人でも何かが変わる。」