8月13日 オンエア
悲しき戦争の記録★鉛筆で戦った子どもたち
 
 
photo  きっかけは6年前、山梨県内で開催されていた骨董市でのこと。 骨董品の商いをしている矢花さんはその日、珍しいハガキを見つけた。 消印は1945年、太平洋戦争末期に出されたものだ。 差出人は当時小学生の女の子、ハガキはその家族に送られたものだったのだが… そのハガキには、宛名の下に『鉛筆部隊』と書かれた印鑑が押してあった。
 
 
photo  気になった矢花さんはその夜、インターネットで鉛筆部隊と検索すると… 東京・下北沢界隈の歴史文化を研究する作家、きむらけんさんのブログに辿り着いた。 それによれば、鉛筆部隊というのは世田谷区の区立代沢小学校に当時在学していた児童達のことだという。 だが、一体なぜ彼らは鉛筆部隊と呼ばれていたのか?
 我々はブログを書いたきむらさんを訪ねた。 鉛筆部隊とは…鉛筆で戦っていた子供たちのことだという。 鉛筆で戦った子供たち。 それは日本が悲劇的な敗戦へと突き進んでいた太平洋戦争末期のこと。 あの時、戦っていたのは大人達だけではなかった。 これは戦後64年間もの間、埋もれ続けていた知られざる子供たちの戦記である。
 
 
photo  終戦の前年にあたる1944年8月。 この日、代沢小学校の児童455名と教師たちが、長野県・松本市へ集団疎開することとなった。 学童集団疎開。 日米開戦から3年目のこの年、8月。 アメリカの圧倒的な戦力の前に劣勢にたたされていた日本は、将来のある子供たちを空襲から守るために大都会の小学生を安全な地方に避難させ、そこで集団生活をさせた。
 当時小学4年生だった榎本明美さんも、二歳上の兄徹さんと共に疎開。 親元を離れることになった。
もし東京で空襲の被害に遭ったら、2度と我が子の顔を見ることは出来ないかもしれない。 そんな思いから駅までついてきた両親達は声を枯らして我が子の名前を叫び続けていたという。
 
 
photo  その後一昼夜かけて彼らが辿り着いたのが、松本市にある浅間温泉。 児童達は、ここに点在する幾つかの温泉宿に別れ、寝泊まりすることになった。 明美さんたちは、引率の柳内先生と共に『千代の湯』という旅館で暮らすことになった。
 当初は修学旅行気分もあった子供たちだったが、朝は6時半に起床すると…往復で6kmもある険しい山道を歩いて地元の小学校まで登校した。 そして何も無い田舎で唯一の楽しみになるはずの食事も…ごはんの他は、僅かな漬け物と味噌汁のみ。 野菜の煮物があれば良い方で、肉や魚は全く口にできず、子供たちは常に空腹に悩まされていた。
 
 
photo  それでも兄の徹さん始め、近所の友達が一緒だった明美さんはまだ幸せだった。 児童たちはそれぞれ住んでいた地区ごとに別れて旅館に宿泊していたため、ほとんどが顔なじみだった。
 しかし、中には人数の調整で別の地区から入ってきた子どももいた。 高島幸子さんもそんな孤独な児童の一人だった。 幸子さんは当時、町の外れから長野に来たため区域外になってしまい、友達がおらず寂しい思いをしたという。
 
 
photo  そして、そんなある日のこと。 学校で先生から…戦地で戦っている兵士や東京で空襲に襲われる恐怖と必死に戦っている家族のように君たちも戦いなさいと言われたのだ。 両親や戦地の兵隊たちに手紙を書く…それが君たちの戦いだと。
 そして…先生は子どもたちのことを「鉛筆部隊」と名付けた。 その日から、鉛筆部隊の戦いは始まった。
 
 
photo  これが6年前に偶然発見されたハガキ。
『お母様私は、毎日元気で暮らしています』
『米英げきめつですから、さびしくありません。お国のために疎開してきたのですもの。うんと体を鍛へて、見ちがへるようにします。さやうなら』
 発見された彼らの手紙には、生活の辛さや寂しさは全く記されていない。 毎日食べられる食事の量がどんなに少なくても、また氷点下10度を超す酷寒の冬に、裸足で雪道を登下校せねばならない時でも手紙に弱音を書くことはなかった。 戦地にいる兵隊や東京で空襲の恐怖と戦っている家族の為に、彼らは自らの気持ちを押し殺して楽しく明るい手紙を書きつづけた。
 
 
photo  しかし、そんな厳しい疎開生活を送る彼らの毎日にある日大きな変化が訪れる。 それは年が明け、春を目前に控えた2月末のこと。 彼らの泊まっていた千代の湯旅館に、突然 6人の若い兵士達がやってきたのだ。 それが幸子さんにとって一生忘れられない人となる、今野軍曹との出会いだった。
 6人の兵士達は自分たちが乗る飛行機の整備をしてもらうため、旅館近くにある松本飛行場にやってきたというのだが… 整備中は飛行訓練ができず、昼過ぎにはいつも千代の湯に戻っていた。 そのため、子供たちは毎日兵士たちと一緒に遊んでもらえるようになった。
 
 先生の知り合いの新聞記者に集合写真を撮ってもらえることになった時… 時枝軍曹が、白い布を明美さんの頭にヘアバンドのように巻き…「似合う」と言ってくれた。 それは空腹や寂しさを押し殺す毎日を過ごしてきた明美さんにとって、まさに夢の時間だった。
 
photo  他の地区からやってきた幸子さんにも、忘れられない思い出がある。 両親への手紙を今野軍曹に見てもらっていた。 今野軍曹の実家の話しになっり、行ってみたいという幸子さんに…今野軍曹はこう言った。
「じゃあ、戦争が終わって帰ってきたら幸子ちゃんにお嫁さんになって来てもらおうかな」
出会った時から密かに憧れていた今野軍曹からの思いもよらない言葉に、彼女はこのとき驚いて何も答えることが出来なかった。
 
 
photo  だが…あの言葉からわずか数日後。 彼らは子ども達の前から突然姿を消したのである。 心にぽっかりと穴があいた。 しかし、戦地に行くのが兵隊の仕事。 幸子さんや明美さんに出来ることは、彼らの無事を祈ることだけだった。
 
 
photo  だがその夜…温泉の主人たちが話している声が聞こえてきた。 それは…特攻隊が、生きて帰れるはずがないという内容だった。
 陸軍特別攻撃隊、通称・特攻隊。 片道分の燃料と爆弾が積め込んだ飛行機に乗り、自分の命と引き換えに敵の戦艦へ向かって体当たり攻撃を仕掛ける特殊作戦部隊。 無謀な作戦を繰り返し、被害を拡大させた太平洋戦争末期の悲劇を象徴するその部隊に、実はあの6人も所属していたのである!
 
 
photo  そして彼らが突然千代の湯を去ってから、およそ2週間後のこと… ラジオのニュースで…4日前に、沖縄ケラマ諸島沖で敵艦隊に突入し壮絶な戦死を遂げた特攻隊員たちの名前を読み上げていた。
「勇士の名前は広森達郎大尉、林一満少尉、今野勝郎軍曹」
それは、千代の湯にいた彼らの名前だった。
 敵艦を撃沈するという大手柄を立てたと、その場にいた男子達は大歓声をあげた。 だが対照的に女の子たちは、兵士たちの死に対して悲しみを抑えることができなかったという。
 
 
photo  翌日、そんな彼女達の気持ちを知っていたかのように、千代の湯に鉛筆部隊あての手紙が届いた。 差出人は…あの、今野軍曹だった。
「鉛筆部隊の諸君。お元気にお暮らしのことでありましょう。兵隊さんも元気で、いよいよ明日出撃であります。皆さんがこの便りを見ている頃は、兵隊さんはこの世の人ではありません。次の世を背負う皆さん方がいるので喜んで死んでいけます。ほんとにお世話になりました。にっこり笑って…散っていきますよ。次の世をお願いします。」
 彼がどんな思いで、この手紙を出したのか…それはもはや知る由もない。 だが死の直前、彼が最後の言葉を送ったのは、東北にいる家族と幼き鉛筆部隊の子供たちだった。 そして…6人の死からおよそ5ヶ月後、戦争は終わった。
 
 
photo  しかし家族に心配をかけまいとする鉛筆部隊の戦いはまだ終わりではなかった。 焼け野原となった東京では受け入れ態勢が整わず、児童達の帰郷は秋まで延ばされることになってしまったのである。 明美さんが戦争の終わりを実感できたのは、終戦からおよそ1ヶ月後のこと。
 この日、一番上の兄が突然 疎開先まで訪ねてきた。 兄は敗戦直後の混乱のなか、妹のために必死で調達した缶詰めを持っていた。 そして、その缶詰を食べた…その瞬間、彼女の体験した太平洋戦争はようやく終わりを迎えたのだ。
 
 
photo  あの日から、今年で70年。 当時の記憶を残す人は、もう多くない。 幸子さんはこう語る。
「平和のありがたさが普通になっている。平和があるということを気づかない人の方が多いんじゃないですか。気づいて大事にしてほしいですよね。」
 70年前、今野軍曹に密かな憧れを抱いていた幸子さんは、戦後も特攻兵たちの慰問を続けた結果。 10年前、ついに今野軍曹の遺族と面会を果たし、今も交流をつづけている。
 
 
photo  そして、今回のエピソードを書籍として世に送り出した作家のきむらさんは、毎年、戦争体験を聞くための講演会を主催している。 きむらさんはこう語る。
「肉声が聞けなくなるというのは損失ですよね。過去の記憶は消えていくから これは残さないといけない。せめて僕らが覚えておいて残して伝えていかないと伝わらない。」