4月30日 オンエア
長老は26歳★ガーナで英雄になった日本人
 
 
photo  毎年 2月下旬、アフリカ・ガーナの小さな村では、1人の長老の功績を讃える式典が盛大に執り行われる。 かつて、26歳という若さで村の指導者である長老になり、今も尚、英雄として語り継がれる、その人物の名は…武辺寛則。 そう、日本人である。
 だが 一体何故 彼は、26歳という若さで 日本から遠く離れたガーナで長老となり、今なお愛され続けているのか? そこには、1人の若者が抱いた小さな夢が起こした、大きな奇跡が秘められていた。
 
 
photo  ガーナの首都・アクラから西へ120キロ、人口わずか300人足らずのアチュア村。 かつてここは、電気も水道もなく、自給自足で何とか生計を立てる、ガーナで最も貧しい村のひとつだった。 しかし、今から29年前、この小さな村に1人の青年海外協力隊の隊員が赴任してきた。 当時25歳の武辺寛則さんだった。
 青年海外協力隊は、政府の援助の一環として、開発途上国へ隊員を派遣するボランティア事業のことなのだが、武辺さんは元々 隊員だったわけではなく、このたった数ヶ月前まで、東京でサラリーマン生活を送っていた。 しかし…アフリカに行く夢が忘れられず、会社の辞めて隊員になったのだ。 実は 子供の頃、青年海外協力隊の募集を目にした武辺さんは、いつか隊員になり、アフリカで困っている人を助けたいと夢を抱いていたのだ。
 
 武辺さんの任務は村落開発。 現金収入が得られるプロジェクトを村人と一緒に考え、彼らが貧困から脱却するための手助けをする というものだったのだが… 村にやって来た武辺さんに、ある村人が「何をしてくれるんだ?」といきなり言い出した。
 
photo そして、武辺さんが「やるのはあなたたちです。僕は未来に向けて、アチュワ村を豊かにする手助けをしたいんです」と答えると…
「未来?この村を豊かにする?何を言っているんだ。話しにならねぇな」と言って、帰ってしまった。
 武辺さんは当初、彼が言っていることの意味が分からなかった。 だが…生まれたときから貧しいことが当たり前の彼らに、自分の力で生活を豊かにするという発想はなく、彼らにとって協力隊員は直接的な援助を与えてくれる便利な存在でしかなかったのだ。
 
 
photo  それでも武辺さんは、村人たちに未来への希望を持って欲しい一心で、あるプロジェクトを立ち上げた。 それが、養鶏プロジェクト。 実はガーナ人は、無類の卵好き。 養鶏場を作って卵を生産し、首都で販売すれば現金収入が得られる。 儲かることさえ理解してもらえれば、村人たちも みんな喜んで参加してくれる、武辺さんはそう確信していた。
 だが、村人のマイケルが、見せたいものがあると、武辺さんを呼びにきた。 彼が武辺さんに見せたもの…それは、首都アクラに出稼ぎに行くため、村を出て行く人の姿だった。 実はこの年、アチュワ村のあるガーナ西部が、干ばつに襲われ、トウモロコシなどの農作物が壊滅的な被害を受けていた。 そして、村人たちは「未来を考える余裕なんかない。今日、食べるものさえないんだ」と武辺さんに訴えた。
 
 養鶏にはエサ代やワクチンなど、多額の費用が必要。 もし、ニワトリが病気で全滅でもしたら、借金だけが残る。 今日 食べるものにさえ困る村人たちには、到底無理な計画だった。
 
photo  その時の思いを武辺さんは手記にこう記している。 「協力隊より生活に必要な額を支給されている僕は、村人がこんな状況になっているとは、彼らに知らされるまで気づかなかったのだ。自分のプロジェクトばかりを見ていて現実の彼らの生活を忘れていた。その晩、僕は恥ずかしさと悔しさで、なかなか寝つけなかった。協力隊員として俺は失格なのだろうか………」
 その後、武辺さんは、様々な支援団体に食料援助を要請。 村は何とか一息つくことができた。 だが このままでは、干ばつが起きるたびに、村人が飢えに苦しむ構図は繰り返されていく。
 
 
photo  養鶏場の失敗をふまえ、かかる費用が少なく、村人が参加しやすいプロジェクトがないか、武辺さんは毎日、村中を探し続けた。 そんなある日、干ばつにも枯れることのなかった果実、ファンティパイナップルを持っている村人と出会った。
 ファンティパイナップルは、一般的なパイナップルよりも小ぶりで青っぽいが、酸味が少なく 甘みもたっぷりで、首都アクラでも人気があった。 しかし、アチュワ村では、それまで数名の村人が自分で食べるために 細々と栽培しているにすぎなかった。 パイナップルは売値は高いけれど、苗も高く、収穫までに1年半もかかるため、明日の生活も分からないアチュアの人々は、売り上げ単価は安いけれど短期間で収穫できるトウモロコシなどを栽培していたのだ。
 しかし、ファンティパイナップルは、1本につき5〜6本の苗が生える。 そのため、最初の苗さえ購入すれば、毎年増えていく。 養鶏と違い、維持費がほとんどかからないのだ。
 
 
photo  武辺さんは、ファンティパイナップルの栽培をしようと村人たちに呼びかけた。 しかし、彼らに苗を買うお金はなく、現在栽培されているわずかな苗を増やすとしても、1年半以上はかかる。 養鶏同様、現実的なアイディアではないと思われた。
 だが その一か月後…村にファンティパイナップルの苗が届いていた。 実は、武辺さんは各国の大使館をかけずり回り、援助を要請。 苗を買うために必要なお金を集めて回っていたのだ。 だが、武辺さんの計画に賛成してくれたのは、村人の3分の1ほどだった。
 
 
photo  それでも、武辺さんと、プロジェクトに賛同してくれた マイケルたちの挑戦は始まった。 そしてここからが、本当の苦難の始まりだった。 まず、栽培用の畑を一から開墾。 農業用の機械などあるはずもなく、全てが手作業。
 さらに、大きな問題があった。 武辺さん自身、農業は全くの素人だったのだ。 そのため、最適なパイナップルの栽培法を求め、ガーナ中を飛び回り、農業指導をしている隊員に相談。 夜は、土壌改良の方法など、慣れない農業の専門書を読み漁り、日中は気温40度を超す酷暑の中、先頭に立って働き続けた。
 
 
photo  そんなある日のこと。 武辺さんは風土病のマラリアにかかり、倒れてしまった。 疲労が蓄積し、極度に免疫力が低下していたのだ。 それでも畑に出ようとする武辺さんに、マイケルは「なんで村のためにそこまでするんだ?」と聞いた。 すると…「僕の夢だから」と、武辺さんは答えたのだ。
 アフリカで困っている人を助けたい……幼い頃の夢を乗せてようやく植えられた苗は、順調に成長し始めた。 そんなある日のこと…プロジェクトにずっと反対していたジョーという村人が、自分もやってみたいと言ってきたのだ! パイナップル作りに参加する村人は、ひとり、またひとりと増えていった。 村人たちの意識は少しずつ変わり始めていた。
 
 
photo  マイケルは武辺さんに「ずっと村に残ってくれないか?村にはタケが必要だ」と言った。 しかし、武辺さんは…「僕なんかいなくても、君たちだけの力でやっていけるようになる。それが僕のもう1つの夢だ」と言った。 するとマイケルは、「村の長老になってくれないか?」と言い出した。
「村の長老になれば、日本に帰ってもずっと村の人間だ。忘れないで欲しいんだ、俺たちのことを…」
 そして、武辺さんは村のNo.3の立場にあたる、長老(ナナシピ)に就任。 わずか26歳の外国人が村の長老になるのは、異例中の異例だった!
 
 
photo  武辺さんの情熱で変わり始めた村人たち。 パイナップル畑も順調で、夢は実現間近に思われた。 しかし…収穫まであと半年に迫った時、思わぬ事件が起こった。
 その日、武辺さんは病人を運ぶため、隣町への道を急いでいた。 その時!ハンドル操作を誤り、道路から転落。 その後 行なわれた懸命な治療も虚しく、1989年2月25日、武辺さんは、わずか27年の生涯を閉じたのだ。
 
 
photo  マイケルは悲しみに暮れながらも、武辺さんの夢を引き継ぐことを決意、畑に向かった。 さらに…他の村人たちも、畑仕事を続けるために集まって来たのだ。 それは、かつての村人たちではなかった。 武辺さんという指導者を失っても、諦める者は誰もいなかった。 そこには、未来に向けて自分たちの意志で歩み始めた村人たちの姿があった。
 
 
photo  そして、武辺さんが亡くなってから半年後、彼らの目の前に広がっていたのは… 見渡す限り、一面に敷き詰められたパイナップル畑だった。 その後、パイナップル畑は村人たちの手によって拡大されていった。 そして、アチュア村のパイナップルは、首都アクラ、さらにはヨーロッパにまで出荷されるようになったのである。
 
 
photo  さらに、その現金収入が、アチュア村に大きな変化をもたらした。 村人たちがお金を出し合い、電気や水道などのライフラインが整備されていったのである。 ガーナで最も貧しい村のひとつだったアチュアは、豊かな村へと変貌を遂げた。
 だが、変わったのはそこだけではない。 村中に未来を信じ、前向きに生きる人々の笑顔が溢れるようになった。 武辺さんが夢見た風景がそこにはあった。
 
 
photo  武辺さんの死後、アチュア村にはその功績を讃える記念碑が建てられた。 もちろん、費用を出したのは村人たち。 記念碑がある武辺ガーデンは、亡くなってから26年が経つ今も尚、大切に守り続けられている。 そして、武辺さんが亡くなった2月になると、彼の意志を後世に語り継ぐために村を上げての盛大なセレモニーが毎年開催されている。
 
 
photo  実は、亡くなる半年前、武辺さんはガーナで遺書を書いていた。 「私はとても穏やかな気持ちでこの手紙を書いています。私の体に間違いが起こったときのために残しておきます。僕は自分自身で選択した道で、こうなったのだから後悔はありません。最後に自分の死に際して、もしも集まるお金があれば、恵まれない人のために使って欲しい。」
こう記されていた。 ご家族は 遺書に従い、そのお金で、アチュア村に学校を開設した。