KIKCHY FACTORY

TV LIFE 連載:KIKCHY FACTORY
#21(01/03/14)



『LOVE LOVEあいしてる』をあいしてる

 『LOVE LOVEあいしてる』と呼ばれることになる番組が立ちあがりはじめたのは96年の5月ごろ。KIX-Sのサンプラザを観た帰りに、当時編成部だった吉田さん(後『笑う犬』ほかプロデューサー)から、何かのついでのように言われたのが、「『めちゃモテ』の枠で音楽番組の企画書を書いてみないか」テーマは「愛」たったそれだけ。わたしは放送作家の津曲とふたりっきりで、あてのない企画書を何回も何枚も作っては吉田さんのところへ持っていって、ああでもないこうでもないやりとりを重ねました。

 チーフディレクターをキメて作家さんが増えてそろそろ会議らしくなったころ、KinKi Kidsというアイドルが秋から本格的にテレビに進出するからそれじゃあ誰かベテランのアーティストと組合せてということになって、ちょうどそのころ吉田拓郎さんに『HEY!HEY!HEY!』に出てほしくてわたしは追いかけていたのですが、みんなが「?」ほかの某ベテランアーティストの名前の入った企画書を持って、スーツにネクタイでスポンサーさんにプレゼンに出かけました。それが6月。

 張りつめた緊張感かしこまっていたわたしに向かってくる大人の質問の数々、そして運命のお言葉、このベテランアーティストは競合他社の系列のレコード会社のかたですよね?動揺するフジテレビ陣、つい口をついたわたしの言葉「あの、吉田拓郎ってのもあるんですけど」「ほう、拓郎さんが出て来ますか?」翌日東京に帰ってすぐに連絡をとって、逗子に住んでいた拓郎さんと横浜で逢って、で、もう翌日にはお返事をいただきました。『僕らが愛でできること』って仮タイトルもちょっとドラマっぽいと、下のほうに予備で書いてあったサブタイトル『LOVE LOVEあいしてる』にキマって、そうしてはじめてキンキに逢いに出かけた、横浜アリーナが7月。

 ハウスバンドとしてロックバンドに交渉して失敗してラブラブオールスターズを組みはじめたのも、デビュー前からいつかと思っていた篠原ともえちゃんを全方位からの猛反対を押し切って無理矢理ねじこんだのも8月(笑)。

 キンキと拓郎さんがはじめて逢った幡ヶ谷の写真スタジオでのポスター撮り、そして初代バンマスの武部さんを拓郎さんに紹介して番宣番組の収録をして拓郎さんが記者会見で坂崎さんを勝手に発表しちゃった全日空ホテル、それが9月。

 そして10月1日のゲネプロからあっというまの4年半。ほんとあっというまだったな。5度目の3月がもう終わります。


フジテレビ きくち




モドル




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