レポート

TV LIFE 連載:KIKCHY FACTORY
未掲載インタビュー 全長版
×天野滋(NSP)
2005年2月6日夕方
『僕らの音楽』鳥越俊太郎インタビュー収録のあと
銀座文明堂 本店でインタビュー

きくち
拓郎さんお好きだったんですか?
天野
好きですよ。だって…僕らのころは、拓郎派、陽水派かな? 2つに分かれてて、僕は両方好きだったんですが、やっぱり…存在感っていうのは、あの、拓郎さんですよね。
きくち
拓郎派、岡林派っていうのはないですよね?
天野
ああ、それ少し前。
きくち
少し前ですね。
天野
僕らの世代よりちょっと前かな。
きくち
でも拓郎さんとデビュー年でいうとそんな変わんないですよね。
天野
そうなんすか? 拓郎さんと…。
きくち
拓郎さん、あの『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が、たぶん1970年なんで。2年…3年か。
天野
…でもアマチュアのときね、あの…よくコピーしてましたね。
きくち
あ、そうですか? 何やってました?
天野
え「マークII」とか。
きくち
ほんとにやってたんだ(笑)、まさしくその通りなんですね。
天野
「マークII」やって、それで、ああいう歌詞。
きくち
ふうん。これはその、ロックバンドとはまた違うあれですよね?
天野
うん、移り変わりのころですね。で、拓郎さんのバックって、当時…エレキが入ってたんで。それをコピー。「人間なんて」とかうたうときに、エレキギター必要っていうことで、僕が駆り出されたりして、あれコピーして。中津川フォークジャンボリーとか。あれをやってたんですよ。
きくち
吉田拓郎とわたしを引き合わせてくれたのがNSPなんですよ。
天野
ああ「ぼくの夏休み」ですよね。
きくち
あれは歌詞に出てくる「マークII」もともかくとして「夏休み」も拓郎さんの「夏休み」ですよね。
天野
はい。拓郎さんの夏休みをカバーしてたんで。
きくち
あれは1973年、デビュー盤ですね。
天野
あの夏ぐらいのライブですよ。
きくち
歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?って本屋で調べて、よしだたくろうを知って。
天野
早熟だったよね、きくちさんは。小学生のときだよね?
きくち
そうですね。そこからが、たくろうを求めての、ラジオデイズですよ。
天野
オールナイトニッポンとかやってたよね?聴いてましたよ、僕も。笑い方がよかったんですよ。ダハハハッて笑うじゃないですか。ねえ。
きくち
吉田拓郎を追っかけてラジオ聞いたおかげで、はっぴぃえんど…も聞くことになるんですよ。
天野
うんうん。
きくち
IBC(岩手放送/ラジオ)で、はっぴぃえんど、大瀧詠一さんが岩手出身なので、普通に流れてて。
天野
僕も田舎にいたときははっぴぃえんど聞いてましたね。「風をあつめて」とか、向こうで買ってたし。だってあのジャケットが、矢吹申彦さんだったじゃないですか。それでいつか矢吹さんに書いてもらいたいなと思って、あの『彩雲』『天中平』に。
きくち
そういうつながりだったんですね。 
天野
はっぴぃえんどのジャケット見たときに、こりゃなんじゃあと、このイラストはなんだと思って。 
きくち
音楽…文学とかもそうかもしれませんけど、ある意味、血統引いてくからすごいですよね。 
天野
ああ。 
きくち
わたしは岩手に生まれたおかげで、あたりまえのようにNSPを聴いてて、吉田拓郎を知って、ラジオ聴くようになって、はっぴぃえんどまで繋がった。 
天野
なるほど。そう『LOVE LOVEあいしてる』で猫沢エミ(当時天野の事務所に所属)がお世話になったときあるじゃん。俺…間近で拓郎さん見たのはあのときが初めてだったんですよ。 
きくち
そうか、いらしてましたよね。 
天野
で、あんときは、ちょっとホントにドキドキしましたね。 
きくち
不思議な感じですよね。吉田拓郎と、天野滋。拓郎さんにもね、話はしたことあるんですよ。 
天野
そうなんだ。 
きくち
なぜ吉田拓郎をわたしが、小学校のころから聴けたかって。 
天野
ああ、そうなんですか。 
きくち
はじめて天野さんとお見かけしたのは赤鬼ですよね、三軒茶屋の。 
天野
そうですね。 
きくち
まだ知り合いじゃなくて、「天野くん」かも?と思って一生懸命耳をそばだててたらば、お話がそれっぽかったから。でも知り合いじゃないし(笑)。そこで話しかけるのも変だし。 
天野
平賀(和人)からはね、フジテレビに岩手出身でそういう人がいる、みたいな話は聞いてたんだけど。平賀はまあ、レコード会社の人間だから。NSPやってなかったですからね、あのころね。 
きくち
平賀さんは、GO-BANG'Sが「スペシャル・ボーイフレンド」で初めて『夜のヒットスタジオデラックス』に来たときに、PONY CANYONのディレクターが平賀さんで、あ「平賀くん」だ!と思って(笑)。それがはじめてでしたね。中村(貴之)さんはそのあともずっとわたしにとって「中村くん」でしたけど。 
天野
GO-BANG'Sのときって何年前ですか? 
きくち
1989年です。 
天野
そんな前ですか。
きくち
キャニオンでは優秀なディレクターですよね。 
天野
結構ヒットディレクターになっちゃったねえ、うん。 
きくち
でも本格的に絡み始めるのは、あの『シングルコレクション』のライナーノーツを書いたときですね。 
天野
ええ。 
きくち
あれはねえ、天野さんに褒めていただいてうれしかったんですけど、自分の中では思いが全部書けたなと思った文章でしたね。 
天野
すいません(笑)、そのせつはお世話になりました。 
きくち
…商品のああいうの書いたの初めてだったんで。 
天野
あ、そうなんですか? 
きくち
でもね、書けなかったんですよ。書けなくて書けなくて。平賀さんから催促がきて、ほんとぎりぎりで、もう今日中に絶対って話になったときに、ちょうど『LOVE LOVEあいしてる』のスペシャルの小田和正さんの打合せのとき、早く着いちゃったその待ち時間の15分ぐらいで、小田さんの事務所の外で書いたんですよ。 
天野
あ、そうなんだ。 
きくち
あんなに…10日とか20日とか悩んで書けなかったのを、15分で書いちゃったらば、なんか逆に思いが入っちゃった。今回『僕らの音楽』で、きちんとお仕事ができたのはすごくうれしいです。 
天野
いや、とんでもないですよ。…出ると思ってなかったんで、うれしかったです。 
きくち
瀬尾一三さんも、Charさんも、話しはじめたときは、100%スケジュールNGでしたけど、でも、なんとかなるものですね。
天野
なんとかなりましたね(笑)。でも…Charって、発想的にはやっぱり、ほかの人だったら出て来ないですよ。
きくち
NSPのファンサイトとか見てると、なぜCharさんなのかわからないファンもいっぱいいるみたいですね。
天野
そうそうそう。なんでだかわかんないですから。きくちさんだから、Charっていうのがあったんだなあと。
きくち
Charさんは『僕らの音楽』はじめたとき、何らかお仕事したいミュージシャンのひとりだったんですよ。でもなかなかチャンスがなくて。今回天野さんにメールしちゃったのがいいチャンスだなあと思って。交渉して、交渉して、2回断られて。で、最終的には Charさんのスケジュールに合せるからなんとかやりましょう!って。マネジャーさんが「天野さんは、Charが弾いたらホントに喜ぶんでしょうね」「ゼッタィ喜んでくれますっ!」わたしが言い切って。
天野
ホントにうれしかったですよ。
きくち
(Charさんと演った)「歌は世につれ」は、君と僕の物語、に集約されるNSPの楽曲の中では、社会派ですよね。
天野
ああ、そうですね。あれ、なんで作っちゃったんだろうな?あれ、ソロアルバム(『あまのしげる』)作ってるときに、曲がね、8曲しかなかったんですよ、実は。それで、レコーディングの本当に最後に、もう1曲ぐらい作んなきゃ、8曲はないだろうってことで、10曲は作ろうと思ってたんだけど、じゃあ9曲っつうんで(笑)。最後の1曲、ぽろっと作ったんですよ。それなんですよね。
きくち
当時のフォークっていうかポップミュージック…まあ今でいうところのJ-POPのアルバムで9曲少なかった?
天野
少なかったですね。12曲が当たり前で、8曲はないよなっつうね。無理矢理作った曲なんで。無理矢理作っただけに、あんまり何も考えてないですよ、実は。さくっと作った曲。だからああいう曲になっちゃった。
きくち
…わたしがはじめて見た、3人のNSPのコンサート、2002年1月、復活の青年館のときに天野さんが泣いて…。
天野
ああ。
きくち
ファンも泣いてて。あ、こういう歌なんだと思いながら。
天野
ええ。そうですね、今でもヤバいですからね。
きくち
『僕ら』の収録のときにもお客さんは泣いてましたよね。何人か。特別な歌ですね。アルバム『Radio days』の話なんですけど、天野さん、さっき拓郎さんのラジオ聴いてた…って。
天野
深夜放送ブームのときはね、いろいろと。何聴いてたんだろうな?…(笑福亭)鶴光さんとか面白かった。
きくち
鶴光さんってそういう意味で言うと世代を越えますよね。わたしも聴いたことあります。単純になんか…。
天野
H系で(笑)。
きくち
(笑)。わたしは楽曲もラジオから知ることが多くて。そういう思いもあって、「Radio days」は感慨深かったです。ノスタルジックでもあるけども、何処かすごい希望のあるあの楽曲だなと思ったの。
天野
僕も田舎でよく聴いてました。リクエストも死ぬほど出したし。
きくち
いつごろ上京したんですか?
天野
1974年かな。
きくち
74年。セカンドアルバムのころにはもう?
天野
セカンド…のときはまだ田舎にいましたね。そのあとに、すぐあとぐらいに出てきて…。
きくち
じゃあ上京と共に「夕暮れ時はさびしそう」があった?
天野
上京して少し経ってから。7月ですね、発売がね。3月ぐらいに出てきたのかな?1973年の6月に「さようなら」(デビューシングル)出したんだけど、8月、1か月キャンペーンやって全国回ったりして、そのときに…やっぱヒット曲出さないとダメなんだなっていうのがすごい身に沁みて。岩手だけだったから、僕ら。まあ仙台くらいまで。ほかんとこ行くともう、ホントに NSPなんか知られてないことがわかって。ちょっと全国区のヒット曲出さないといけないなってすごい思った。それで…。
きくち
問題作ができたと(笑)。
天野
まあ、そうですね(笑)。しかも平賀(和人)が猛反対して。ベースが弾きにくいとか、ロックじゃないとか。僕ら、気持ちはロックだったんで。
きくち
旋律やフレーズ選び、歌詞も、確かに今回、収録してみると変わった曲だなと思いました。
天野
だから…まあ僕的には、もうフォークでもロックでもなんでもいいから、ヒット曲がほしい時期だったんですよ。あれはヒットするんじゃないかなっていう、もう唯一の、それだけの気持ちで、あれは出したんで。まあ強引に出した…けど、それがたまたまホントにヒットしてよかったですよね。あれヒットしなかったらもうたぶん田舎帰ってますね、うん。それぐらい状況…周りの状況はなんとなく悪かったし…3枚目のシングル「ひとりだちのすすめ」っていうの出したんですよ。あれがまったくうれなかったんで。「さようなら」「あせ」「ひとりだちのすすめ」だから、次はもう絶対ヒットを出さなきゃっていうのがあったんで。
きくち
「さようなら」はびっくりするくらいベースが立ってる。あれはそういう曲ですね。
天野
はい、そういう曲です(笑)。
きくち
今回の4曲の中では一番やっぱ、さすがに一番こなれてるなあと思いながら。
天野
あの結構、あ、終わったあと思って、それで、なんかこう、リラックスしたっていうのがあったのかな。
きくち
そんなこんなでキリがないですけど…鳥越俊太郎さんどうでした?
天野
いやあ、テレビで見るよりなんか…年齢聞いてびっくりもしましたね。もっと、全然若いのかなと思ってましたけど。
きくち
うん…学年で言うとかまやつさんと一緒ですからね。
天野
すごいですね。スーパーおじさんだなと思いました。なんか優しい感じ。
きくち
いやでも、ホントに無事収録できてよかった。本番直前までどうなることかと思ってましたけど…でも本当に…いい仕事ができたと思います。
天野
ありがとうございます。
きくち
全力でやりました、という感じもありますが(笑)。
天野
なんかもう本当にヒシヒシと伝わります。
きくち
(笑)。最後に、わたしたち「音組」との初めてのお仕事だった「北とぴあ」の話(2003年4月の「フォークデイズ」)もいいですか?
天野
ああ、はいはい。
きくち
あれもおもしろかったですね。
天野
そうですね。あれツアーの初日だったんで…。選曲もちょっと違うんですよ。それで、ちょっと練習したらきついなって曲もあったんですよ。でもあれ、なんか僕自身よりも、観に来た人、たとえば昔…僕らのバックやってたギターとか見に来たりとかしてて。おもしろかったってすごいみんな言ってくれて。歴史がわかったとか、いろんなことを言ってくれて。僕ら自身もやっぱり、それはよかったなあってすごい思って。
きくち
入門編、おまけ付きで。わたしもすごいじっくり楽しんでたんですけど、本編の最後のあたりは、堀ちえみさんが到着するかどうか心配で、ずーっとマネージャーさんの携帯に電話したり、ANAの運行状況を調べたり、首都高の混み具合を調べたり、ずーっと(笑)。おもしろかったです。幻のライブですね。たかだか数百人しか見られなかったのがもったいない。ビデオとか出しません?
天野
流通とかいろいろ、どうなのかな?出したいですけどね。

「余談」


きくち
…まあ、そんな感じで、ほんとにありがとうございました。
天野
いえいえ。…えっ、終わりですか?
きくち
いや(笑)、だいたいこんなかんじですよ。話し出すとキリがないですからね。去年この対談、大瀧詠一さんとやったんですけど、大瀧さんがベイシー、
天野
ベイシー?
きくち
(一関のジャズ喫茶)ベイシーに行くんだったらやっていいって話になって。
天野
へー。大瀧さんベイシーとか昔行ってたのかな?
きくち
その時点で1回しか行ったことなかったみたいすけど、でもそれでベイシー行ったんですよ。…で、行きの新幹線やまびこの2時間15分、ずーっとあの、こういう対談して。大瀧さんよくしゃべりますよね。
天野
うん、うん。
きくち
で、そのあとベイシー行って、写真だけ撮って。
天野
あ、そうなんだ。
きくち
ベイシーのマスター;菅原さんが撮った写真だったら使ってもかまわないって話で。
天野
ええ(笑)、そうなんだ。
きくち
「大瀧詠一」の写真が信じられないくらいクリアにカラーで「TV LIFE」に載ったんですよ。それがちょうど、一関一高が甲子園で負けて帰ってきた夜だったんですね。
天野
ああ、そういうときですね。
きくち
ベイシー終わって、写真終わって、そろそろ、っていう雰囲気だったときに、電話で外に出てみたらば、一高で凱歌があがってて、ああ帰ってきたんだって。
天野
そうかそうか、そうなんだ。ベイシーはたまに行ってたけどな。
きくち
あ、そうですか?
天野
ええ。ただやっぱり、当時はただの、普通の、客じゃないですか。
きくち
ああ、そうか!そんな昔からあるんですもんね。天野さんがまだただの、普通の、お客さんの時代から。
天野
ええ、NSPとかやる前ですからね。ちょくちょく行ってたけどな。あそこ怖かったからね。
きくち
怖かったですね。
天野
なんかね、ちゃんと聴かなきゃいけないようなイメージがあったんで。
きくち
ありましたね。
天野
なんかしゃべれないじゃない。みんなこうやって聴いてるし(笑)。結構、怖いなーと思って。
きくち
高校3年、部活が終わって、それからベイシー、行き始めたんで。お子ちゃまタイムですよ、夕方の下校時間。WEATHER REPORTとかかけてもらって、「Birdland」とか。やっぱり怖かったですね。そのころ以来だったんですょ、大瀧さんと一緒に。菅原さんと大瀧さんとわたし、3人で同じテーブルに座ってるのが不思議でした。お店は変わってないな、とか思いながら。わたしが高校卒業するときに路幅拡張工事で一度店仕舞いしたんですよね。
天野
あ、そうなんですか?
きくち
そうなんです。閉店って書いてあって、ベイシー閉まるんだって思って。外にお花がずらーっと並んでて、それが森田一義、高中正義、井上陽水、渡辺香津美、って花輪なわけですよ。それで、びっくり!
天野
おお、おお。僕らのころってでもそんなに有名でもなかったと思うんだけどな、ベイシー。だんだん有名になっちゃった。JBLかなんかですよね?
きくち
JBLですね。音楽に愛があるって感じですよね。

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