2005年8月3日(水) 02:43~03:38 放送 (2005年8月2日(火) 26:43~27:38 放送)
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ポツダム宣言を受け入れた後に、大規模な戦闘が行なわれたのは満州各地の大陸だけではありません。1945年8月18日、運命の日。日本の最北の領土であり、北の守りの要となっていた千島列島の最北の島・占守(シュムシュ)島。武装解除の日であり、敗戦とはいえ戦争が終結して本土に帰れることを喜んでいました。しかし、その運命の日、未明に突如現れたソ連軍との大規模な戦闘が始まったのです。日本軍の将兵にとって運命の日は最悪の日となりました。
占守島からマガダンに送られた陸・海軍の兵士の数は約4,000人。陸軍3,000人、海軍1,000人。
昭和20年8月18日未明、ソ連軍が突如上陸を開始。応戦した占守島の陸軍兵士は、マガダンでの過酷な強制労働をする羽目になったのです。青山豊さんは海軍の通信隊に所属していましたが、ソ連軍の上陸で、通信隊本部を捨てて移動通信隊として行動することになり、停戦が結ばれた時に占守島にいた部隊のみがマガダンに送られることになったのです。隣りの幌筵(バラムシル)島には、陸軍の主力約20,000人がいましたが、シベリア抑留にはならず、北海道に帰還したそうです。
マガダンは、ソビエト連邦時代、1932年に流刑者の強制収容所として建設されました。
スターリンの時代には、流刑者は先ずマガダンに送られ、強制労働に従事するべくここからシベリアの各地に送られました。どんなに屈強な男でも、シベリアのマガダンに送るといわれると脅えたというほど、当時のマガダン行きは死を意味していました。
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青山豊さん(75歳)は静岡県熱海市に、1929年(昭和4年)7月21日、4人兄弟の三男として生まれました。昭和19年2月、14歳で山口県防府にある海軍通信学校に入学し、9月半ばに卒業。15歳で任地が千島列島の最北にある占守島に決まります。青山さんたちを乗せた貨客船は小樽を経て、アメリカの潜水艦からの魚雷攻撃を避けるように占守島に到着しました。しかし、この船は帰りに魚雷攻撃で撃沈。
終戦、そして武装解除後、昭和20年10月20日、マガダンに到着。ソ連の貨物船に乗せられて、日本に帰還するとばかり思っていたが、太陽は東から昇らなければならないのに、西から昇るのを見て、日本に帰るのではないと直感。それがマガダン。港は既に冬であり、悔しくて蹴った小石は凍っていて動かず、蹴った足が痛かったことを昨日の事のように青山さんは覚えています。
15才から舞鶴に帰国する20才まで、粗末な食事と衣服で過酷な自然環境の中(冬は氷点下40度~50度に下がる)、さまざまな強制労働に従事、60kgあった体重が40kg以下の皮と骨だけになってしまいました。
今もどこかで続く戦争と、60年の時を経てマガダンの地を踏んで感じる青山さんの生の声を聞きます。
■ プロデューサー | ![]() |
五味 喬(NCV) |
■ ディレクター | 藤原幣吉 |