NONFIX過去放送した番組

2004年9月11日

 世界中に衝撃を与えた同時多発テロから丸3年が経った。実はアメリカでは、ばらばらになった遺体をDNA鑑定し、被害者を特定する作業が続けられてきた。収容された遺体の一部は約2万点。ようやく半分の鑑定作業が終了し、遺族に引き渡されたが、未だに遺体が全く見つかっていない人も多い。

 あの日、被害者の数だけ、遺族もうまれた。日本人の被害者は24人。そのほとんどは、未だに悲しみが癒えず、日常生活も取り戻せないままでいる。

 遺族にとってこの3年間は何だったのか?遺体も満足に出てこない状況で、愛する人の死にどう向き合い、自分の気持ちを整理し、奪われた日常を取り戻そうとしてきたのか?

 今回私たちは、世界貿易センタービルで肉親を亡くした二家族に密着取材。遺された家族が、どう前に進んでいこうとしているのかを見つめた。

息子との絆を取り戻すために

 東京に住む白鳥晴弘さん(64歳)。白鳥さんの一人息子敦さん(享年36歳)は、世界貿易センタービルの北棟105階で金融マンとして働いていた。年収は数千万円。アメリカで成功をつかんだ自慢の息子だった。

 あの日、白鳥さんはテレビのニュース速報で事件を知った。飛行機が突っ込みビルが崩れていく。この3年のあいだ何度も目にした映像だが、いまでも息子が働いていたはずの最上階105階付近を目で追って胸がつぶれる。今思えば、息子が絶命しただろう瞬間を、自分は海を越えてテレビで見つめていた事になる。

 丸3年が経とうとする今年7月、敦さんの頭蓋骨と上腕部が見つかったと連絡が入った。頭蓋骨が出てきたとなれば、息子の死は決定的。遺体との対面のため、急遽ニューヨークを訪れた白鳥さんに密着した。

家族の心の中に生き続ける夫

 杉山晴美さん(39歳)は、旧富士銀行で働いていた夫陽一さん(享年34歳)を亡くした。半年後に見つかった遺体は、右の親指の先だけだった。

 大学で知り合った二人は、2歳年下だった陽一さんの卒業を待って結婚。二人の男の子をもうけた。そしてあの事件の時、晴美さんのお腹の中には、3ヶ月になる三男の命が宿っていた。

 丁度テロから半年後の3月11日、無事出産。たくさんの人に思われて誕生した命、そのことに感謝を込めて想弥と名付けた。

 いま晴美さんは、3人の男の子の子育てに大わらわの毎日を送っている。

 晴美さんは、あえて父陽一さんの写真や思い出の品を家中に飾っている。子供達が、自然に父親の存在を感じて毎日を送る事ができるようにするためだ。特に、想弥君は、一度も父親に抱かれることなく生まれ、これからも育っていく。それでも、父親の思いに抱かれて成長していってほしいからだ。

 子供達の幸せな姿を亡くなった陽一さんに見せてあげたい。それが陽一さんへの最大の供養であり、また自分なりのテロへの抵抗なのだと晴美さんは思っている。これからも日常を大事にし、子供達と幸せな思い出を紡いでいくつもりだ。そんな晴美さん一家の日常にお邪魔した。

息子の思い出に支えられて果した再出発

 杉山陽一さんの父一貞さん(67歳)。一貞さんは、あの日たまたま見ていたテレビで事件を知った。後から、あの時見ていた2機目の突入が、息子がいたであろうフロアを直撃したといわれた。

 いま一貞さんが暮らす家は、陽一さんが育った家だ。周囲の公園や学校などには、陽一さんの思い出が色濃く残っている。そのため、一貞さんは、事件後しばらくは、ほとんど家をでることができなかった。家を出れば、あのときはどうだった、ここでは何をしたと、思い出ばかりが蘇り、立ち往生してしまうからだ。

 一貞さんは、やるせない気持ちにつぶされないために歌を詠み始めた。その内68首を本にまとめて出版した。そこには、やり場のない悲しみがあふれている。

 一貞さんは、ここ2ヶ月で徐々に気持ちの変化が起こっているという。これまで参加できなかった友人との集まりにも顔を出せるようになり、3年という年月が癒してくれたものを実感している。少しずつ、再生へと歩みだす一貞さんを追った。

■ ディレクター 東島由幸(パオネットワーク)
■ プロデューサー 織田雅彦
塩田千尋
藤枝 融(パオネットワーク)
■ 編成 吉田 豪