2019.07.31更新
「伊達政宗ゆかりの名刀が、畳店の屋根裏から発見された謎」を調査するべく、TKOの木本武宏と、れきしクンが現地へ。
東京・品川区の青物横丁商店街にある「畳松岡」は江戸時代から続く老舗で、屋根裏から発見されたのは、日本刀の中でも最高位に君臨する津田越前守助広(つだえちぜんのかみ・すけひろ)と思われるもの。
江戸時代の刀工番付では新撰組・近藤勇が愛した長曽祢興里虎徹(ながそねおきさと・こてつ)と並び、「東の虎徹、西の津田越前」と評され、銘が「丸津田」と呼ばれる丸文字で刻印されているものならば500万円はくだらないという。
この謎を解く鍵が、品川の街にあるということで、一行は「畳松岡」から10分ほど離れた場所へ。そこには仙台藩の下屋敷(別邸)跡が。仙台藩といえば伊達政宗のお膝元。松岡家は伊達家お抱えの畳職人であったことから、「高額なお宝を譲り受けたのでは?」というヒントにたどり着いた。
木本らは日本刀販売専門店の銀座長州屋へ。鑑定歴40年の専門家・深海信彦さんに見てもらうと、「素人が研いだと思われる無数の傷があり、地鉄の様子がよく見えない」。ただ、「細かく詰んだ助広ふうの地鉄の鍛え」と本物である可能性も出てきた。
刀身を電気に透かしてみると、濤乱刃(とうらんば/打ち寄せる大波のような模様)がうっすら。
そして、「銘」(柄を取った場所に彫られた刀工の名前)は、同じ助広でも31歳から38歳までの作品ならば角ばった文字で彫られた「角津田」、38歳以降の作品ならば「丸津田」と呼ばれ、丸津田のほうが重要文化財に指定されている。
柄を外してみると、丸津田ではあるものの、その上に「古銘」という文字が。
古銘とは、もともと入っていた銘を入れ直した印のこと。深海さんは「伊達家からいただいた時は(長い)刀だったのに、松岡家は町人であったため帯刀できず(腰に差してよかったのは脇差まで)、短く切った可能性がある」と推測。
落胆する一行だったが、助広の父であるソボロ助広の作品である可能性も新たに判明。
実は、ソボロ助広は、助広よりさらに上の刀剣界最高峰「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に名を連ねる、江戸の13名工の一人。
残念ながら保存状態が悪く、これ以上の鑑定は無理ということで調査は終了した。
明治維新の英雄・西郷隆盛が、本名を直筆で書いたものが名家に眠っていると聞きつけたTIM・レッド吉田とれきしクンは、山形県鶴岡市へ。
ヒントが隠されているという南洲神社へ行くと、西郷隆盛とある人物が向かい合う銅像が鎮座。その人物の名は、菅実秀(すげ・さねひで)。
幕末から明治にかけて殿様に次ぐ地位まで上りつめた庄内藩の名士で、学問の神・菅原道真の子孫にあたる人物なのだとか。
江戸時代中期に建てられた菅家で調査を開始すると、第29代内閣総理大臣・犬養毅からの礼状を発見。手紙には「菅家の宝物を見せていただき、感謝感激であります」と書かれていた。
西南戦争後、西郷は罪人扱いとなり、明治新政府は西郷を公に語ることを禁止。それから12年が過ぎ、西郷の名誉を回復させるために菅実秀が中心となり、西郷の教えをまとめた本を出版した。
西郷が菅に託した畳1帖以上もある書には、政治家として激動の日々を送った頃と比べ、故郷での静かな生活は本当に正しいのか人知れず悩んでいると苦悩が記されており、鑑定士の浅野俊さんは、「昨日今日書かれたかのようで、とても状態がいい」と180万円の値段をつけた。
そして、現当主が「家宝中の家宝」と出してきたものが楷書で「西郷隆永」と書かれた掛け軸。
しかし、なぜ隆永ではなく“隆盛”と伝えられているのか。明治維新の後、王政復古に貢献した人物の名を政府に登録することになり、西郷の友人であった吉井友実が「確か、隆盛だったような…」とあやふやな記憶のまま、申請。しかし、西郷は訂正することなく、“隆盛”を受け入れたのだとか。
掛け軸には、まるで愛する女性へ贈るような詩が綴られていた。明治4年、東京で出会った西郷と菅は意気投合するも、実秀が山形へ帰ることになり、「本当はそばにいてほしい」という思いから本名を書いたのではないかと言われている。
また、外務卿・副島種臣も菅家を訪れ、西郷の死と中国南宋時代の英雄・岳飛の死を重ねた詩を残していったのだそう。
100年以上の時を経て、仲良く並んだ西郷と副島の書。風間俊介は「集まるところには、縁を求めて自然と集まってくる」と遠い過去に想いを馳せていた。
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