2018.07.18更新
7月19日(木)の『直撃!シンソウ坂上』では、昨日17日(火)に32回忌を迎えた石原裕次郎さんの特集をお送りします。俳優、歌手、映画製作者として、昭和の芸能界、さらには時代そのものをけん引したスーパースター・石原裕次郎さん。その死後31年間、今まで語られることのなかった裕次郎さんのあらゆる“シンソウ”が、初めて明かされます。
まず坂上忍さんは、生前、裕次郎さんが過ごした成城の豪邸に、夫人・石原まき子さんを訪ねます。豪華なリビング、そして裕次郎さんが最もこだわった部屋などを紹介しつつ、坂上さんはまき子さんに直撃インタビューを開始。
かつて、日活のトップ女優(芸名:北原三枝)として活躍していたまき子さんは、映画「狂った果実」(1956年公開)で裕次郎さんと初共演、その後、二人は“日活のドル箱コンビ”として多数の作品で共演することになります。裕次郎さんとまき子さんは1960年に結婚しましたが、当時の芸能界はトップスター同士の結婚はもちろん、恋愛すらもNGという風潮。そんな閉塞(へいそく)感の中、ひそかに交際をしていた二人は、なんと駆け落ち同然のアメリカ婚前旅行へ。
まき子さんからは、離陸前の騒動や婚前旅行を決行した理由などが語られます。また、まき子さんは、初めて裕次郎さんと会った際に、裕次郎さんがとった意外な行動や、プロポーズ秘話までも明らかに。さらに、番組では二人の結婚式当日の様子を収めた映像を独自入手。坂上さんが「ちょっと待って、こんなところも映ってるの?」と驚いた、テレビ初公開となる二人の結婚式の裏側に注目して下さい。
1963年に、裕次郎さんは「石原プロモーション」を設立し、映画製作に乗り出すことに。およそ4億円の製作費を投じた大作映画「黒部の太陽」(1968年公開)が大ヒットしますが、その後、主役にハリウッド俳優を起用した映画「ある兵士の賭け」(1970年公開)が興行的に失敗。公務員の初任給がおよそ3万円という時代に、「石原プロモーション」は6億円もの負債を抱えてしまいます。まき子さんは苦境に立たされた当時の裕次郎さんの様子や、そんな「石原プロモーション」の窮地を救うきっかけになった、渡哲也さんの驚くべき行動についても赤裸々に語ります。
また、裕次郎さんについて語る際に、避けては通れないのが「病魔との戦い」。1978年の舌ガンに始まり、1981年の解離性大動脈瘤、1984年の肝細胞ガンと、晩年の裕次郎さんは大きな病と闘い続けました。1984年、裕次郎さんが肝細胞ガンに侵され入院した際に、本人に対して告知をするかどうかで葛藤したというまき子さん。結果的に、最後まで裕次郎さんに告知することはありませんでしたが、その背景にあったものをまき子さんが吐露すると、坂上さんは言葉を失います・・・。
1987年7月17日に、52歳という若さで永眠した裕次郎さん。葬儀の際に、渡哲也さんは「本日の葬儀をもちまして、私どもは故人の遺言ともなりました“映画製作”に入りたいと思います」とあいさつしました。しかし、まき子さんは葬儀では明かせなかった裕次郎さんのもう一つの遺言があったと語ります。裕次郎さんが息を引き取る直前に、最愛の妻・まき子さんに遺(のこ)した最後の言葉とは果たして!?
番組では、まき子さんへの直撃インタビューのみならず、裕次郎さんと親交の深かった女優の浅丘ルリ子さん、裕次郎さんの後輩となる舘ひろしさん、神田正輝さんにもインタビューを敢行。貴重な証言の数々や、テレビ初公開を含む膨大な秘蔵映像を交え、不世出のスーパースター・石原裕次郎さんの生涯に迫ります。
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