COURSE夢に向かって走る2020アスリートを全都道府県から紹介。東京オリンピックに向けてふたたび日本を一つにつなぐ。

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陸上短距離・山縣亮太。

ブレの少ないフォームで、100mの自己ベストは、10秒00。
オリンピックに2度出場した日本を代表するスプリンターの一人です。

山縣亮太「今までのオリンピックとは思い入れも全然違いますし、その舞台で自己ベストを出したい」

ふるさとは、広島県広島市。
言わずと知れたお好み焼きの街。広島市民のソウルフードになっています。

小学4年生まで、実は野球に夢中だった山縣選手。

父・浩一さん「ベースランニングの関係だったと思うんですけど、ちょっとガニ股気味で走ってました。」

当時の走り方は、脇が開いた状態で、ガニ股走り、短距離には向いていないフォームでした。

山縣選手のはじまりの地は。

父・浩一さん
ここが、陸上の恩師になる日山先生たちと出会った場所です。
この場所がなかったら絶対に今の亮太はないんですよ。

それは、山縣選手が小学4年生で初めて出場し、優勝した陸上大会のスタンド席。

偶然走りを見ていた、後の恩師・日山夫妻がその才能に惚れ込み、クラブへとスカウトした場所です。

日山さん「腰の位置が走路と平行。そしてダントツに速いんですよね。」

元々の素質に加え、日山先生から才能を開花させる「ある独特な」アドバイスを受けました。

日山さん「大根をここに置いてね、スパッと切るような気持ちでね。腕を振ってみてくれんかの。」

山縣亮太「子供ながらに『大根!大根!』って思いながらやっていました。」

大根のアドバイスを生かしたフォームが身につき陸上歴わずか1年でいきなり全国大会の決勝に進むまでに成長。
フォームを変えた恩師との出会いは、山縣選手の陸上人生も変えました。

山縣亮太選手「腕ふりであったり、もも上げであったり、今の自分の走りのベースになっている形っていうのを教えて頂いた日山先生は陸上の父であり母であり、そういう方ですよね、僕にとっては。」

9秒台の壁を越えるために極めたフォームの原点、恩師と初めて出会った「スタジアムのスタンド席」が山縣亮太はじまりの地。

山縣亮太選手 「(東京五輪は)準決勝で自己ベストを出して決勝に進むのが 大きな目標、そこでベストなレースがしたいと思います。」

リオオリンピックで日本勢となる女子シングルス銅メダルを獲得。
世界選手権で頂点に立つなど、金メダル有力候補です。

奥原希望選手「東京五輪で必ず(決勝の舞台に)立っていられるようにこれからまた頑張っていきたいって強く思いました。」

ふるさとは、長野県の北西に位置する大町市。
3,000m級の山々が連なる北アルプスは、美しく雄大で、見るものを魅了します。

奥原選手がラケットを初めて握ったのは、小学1年生の時。
高校でバドミントン部の副顧問だった父親が、子守がてら姉や兄と共に体育館へ連れて行ったのがはじまりです。

母・秀子さん「負けず嫌いですよね。」

父・圭永さん「普通、子供が(試合で)負ければ、嫌になるっていうかね、希望の場合は「もっと練習しなきゃ」って言って本当にびっくりした」

父の指導の下、1日1000本以上もの厳しい特訓をこなす内に、全国でも勝ち抜く技術を身につけました。

少女の目標はいつしか・・・

奥原希望選手「世界で活躍する選手になりたいです。」

奥原選手の「はじまりの地は・・・」

父・圭永さん「ここ(玄関)と希望の部屋で練習していましたね」

それは、奥原選手の実家の玄関。
この玄関と自分の部屋でどういったトレーニングをしていたのでしょうか。
部屋にネットを張り、投げられたシャトルでできるだけネットすれすれにポトリと落とす練習です。

父・圭永さん「厳しいヘアピンが入ったら相手は本当に短く上にあげるしかないのでゲームメークする上ですごく重要な位置にあります」

身長156cmと小柄な奥原選手。
自分より10cmも高い外国人選手と戦うため、精度の高いヘアピンで揺さぶり、そして正確なショットを放つ。

それが奥原選手の強さです。

試合の流れをも変えるヘアピンの練習をした「実家のネットが」奥原選手のはじまりの地。

奥原希望選手「いい色のメダルを持って帰ってきて、(大町市の)皆さんに喜んでもらえたらすごくうれしい。」

世界トップクラスの飛距離。

攻めのスイングを武器に、
去年、プロ2年目で「全英女子オープン」を制覇。

渋野日向子選手「シンデレラはよく言いすぎかなと思いますけど。笑顔でやってたり努力をすれば結果に出るんだなとはちょっと思いました」

ふるさとは岡山市。
岡山城の隣にある「岡山後楽園」は“日本三名園”の一つとして知られています。

“まっすぐで明るい子に育ってほしい”。
そう願いを込め名づけられた、3姉妹の次女・渋野日向子

小学2年生の頃にはじめたのは・・・
男の子と一緒にソフトボール。しかも、エースで4番。同じ時期にゴルフもはじめました。

渋野選手のはじまりの地は・・・

小学4年生でコースデビューを飾り、高校時代まで通った「長船カントリークラブ」。

9番ホールにあるのが・・・
武上晴彦支配人「あちらにみえますのが小さい頃ヒナコが目標にしていた“シブコの木”と言われている木です。」

240ヤードのセンターに立ちはだかるのは、大きな松の木。
成人男性が第一打を放つも・・・木まで届くことができません。

しかし、中学1年生の渋野選手は木を越えるショットを連発。いつしか“シブコの木”という名がつきました。

渋野選手のようにシブコの木を越えた場合、セカンドショットを優位に展開できるようになります。

渋野日向子選手「あの木があったからこそ、越えていきたいっていう、強い思いにさせてくれたというかもっと飛ばしたいっていう思いにさせてくれたので今でこそ感謝しています。(笑)木に(笑)」

強い気持ちで放つショットを武器に全英を制するほどに成長したスマイルシンデレラ。

飛距離アップの目標となった“シブコの木”が、渋野日向子、はじまりの地。

渋野日向子選手「たくさんの地元の人に支えてもらって応援していただけてここまでこれた。期待に応えられるように絶対に金メダルをとりたい」

日本記録3時間36分45秒!東京オリンピック内定をつかみ取った50キロメートル競歩川野将虎。

正しいフォームで歩かないと失格になる競歩で一度も警告を出されず、
日本記録を2分22秒更新。昨シーズンの世界最速を記録した期待の新星。

川野将虎選手「地道にやっていけばいつか花が咲くんじゃないかなって思って諦めずチャレンジしてきました。」

ふるさとは静岡県・小山町。金太郎が生まれ育った場所として語り継がれています。
川野選手が競歩と出会ったのは突然でした。

川野将虎選手「5000mの大会に出場したいですって先生に伝えたんですけど、実際にエントリーを見たら5000m競歩にもエントリーされていたってことが最初のきっかけになります。」

顧問の先生に見込まれ、高校時代に長距離から競歩へ転向した川野選手。
はじまりの地は・・・
毎週通ったこの山道。上り1キロ・下り1キロ・平坦な道1キロの3キロのコース。
後輩 伊藤駿さん(19)「自分たちは5、6周だったんですけど将虎先輩は異次元だったと思いますね」

なんと3キロのコースを12周、実に36キロも歩き続けていたのです。
実は川野選手、小学校では柔道。中学校では卓球をやるも結果が残せませんでした。

川野将虎選手「不器用な方ではあるんですけど、スタミナには自信があったので。コツコツと積み重ねていくことが自分に合っていると思いますし。」

そんな川野選手の励みになったのが、つらい坂を上りきったあと、
下り坂の正面に待ち構える・・・雄大な富士山。

川野将虎選手「すごく景色がよくて、少しでも苦がなく、気持ちよく歩けたのはよかったなって思います。富士山みたいに自分も日本一な存在になりたいなって思いました。」

平坦な道に比べ、フォームが崩れやすい山道コース。山道になれることで、
レース終盤でも動きを崩さず、ペースアップできるフォームが身につきました。
『日本一になりたい』
”富士山に向かって進んだ山道”が川野将虎・はじまりの地

川野将虎選手「日本一の山に住んでいるってことで誇りに思っていましたし、オリンピックの舞台で頑張っているよっていう姿を見せるのが一番の恩返しだと思っています。」

BMX・中村輪夢。18歳。

東京オリンピック新種目BMXフリースタイルパーク。
最高で6mに達するジャンプ力を武器に先月の世界大会で見事優勝。

中村輪夢選手「BMXってメジャーじゃないんで、僕が活躍していろんな人に知ってもらえるように頑張っていきたいです。」

ふるさとは京都市。

風情ある街並みが今も残り、国宝、五重塔は木造塔の高さ日本一。

経験者だった父の影響で、2歳で初めて乗った自転車がBMXでした。

中村選手のはじまりの地は・・・

父・辰司さん「これが輪夢が2歳の時から使用していたジャンプ台です。」

父が経営するBMX店に今も残る、高さおよそ30センチの小さなジャンプ台。

父・辰司さん「毎日毎日、ひたすらジャンプしていた。恐怖心(克服)と基礎かなぁ。今、ジャンプに対する怖さとかが少ないのは絶対にいきてきていることだと思います。」

放課後、毎日使った小さなジャンプ台で感覚をつかむと、怖がることなく、より大きなジャンプ台へ。

くる日も、くる日もジャンプ。技に挑戦し続けます。

そんな息子の姿をお父さんはいつも傍で見守っていました。

父・辰司さん「コーチってわけではないですけど、怖いけど乗り越えた時の気持ちよさ、楽しさは一緒に教えあえてきた感じです」

11歳の頃には大人でも難しい技に挑戦し・・・

見事成功!

中村輪夢選手「いきなり技ができたわけでもなく本当にひたすら細かいことを地道にずっとやっていた。
その基礎が今に今にいきているかなって感じです」

“より高くとびたい”

世界へと羽ばたいていった中村輪夢の原点。

この小さなジャンプ台がはじまりの地。

いつも二人で高みに挑んできた、
父への思いは・・・

中村輪夢選手「お父さんがいなかったらBMXはじめてないんでこの家族でよかった。金メダル目指して、家族に見せたいですね」

男子マラソン・服部勇馬。

去年マラソングランドチャンピオンシップ。
持ち前のスピードで2位に入り東京オリンピック出場の切符を掴みました。

服部選手「(五輪内定が決まらなかったら)この先の陸上人生どうなってしまうんだろうっていうぐらいのところまで自分自身を追い込んで走った」

ふるさとは新潟県の南に位置する十日町市。
1950年から続く「十日町雪まつり」は“現代雪まつり発祥の地”として知られています。

小学校まではJリーガーを夢見るサッカー少年。

しかし、進学した中学校ではサッカー部がなかったため両親の勧めもあって陸上の道へ・・・。

服部選手「(中学校)1年生の頃は県内でも本当に50番とか何十番という成績しかもってなかったのですけど(走る)速さをどうやったら手に入れられるのかなっていうのは常日頃考えていました」

服部選手の「はじまりの地」は・・・

服部選手「中学時代に脚力を鍛えたクロスカントリースキーです」

地元・十日町市にある吉田クロスカントリー競技場。

雪が降り積もって走り込みのできない冬場は練習の場として、
1周5キロのコースで毎回20キロほど滑走していました。

中学時代の恩師・江村先生「起伏が大変激しいので、心肺機能の向上だとか脚力の強化はもちろんのこと、
ここでレースをすることによって勝負勘を養うことができると思っています。」

上り坂では、足腰の筋力はもちろんのこと、
体全体を使って登るので上半身の強化にも繋がり・・・

大きなカーブの下り坂では、コースアウトを防ぐのに必要な体幹が自然と鍛えられました。

強い体幹はレース終盤でもフォームが崩れない「安定した走り」へとつながるのです。

服部選手「僕が本当に経験したスポーツの中で1番キツかった。ダントツで。」

実際に冬を越えた後は、体が一回り大きくなりタイムも更新。
中学2年生と3年生の時には県大会で優勝するほどに成長しました。

そして大学時代には箱根駅伝、“花の2区”で2年連続区間賞の偉業を達成。

雪国ならではの練習で基礎体力と脚力を鍛えた
このクロスカントリースキーが服部勇馬の「はじまりの地」。

服部選手「東京オリンピックでは僕自身が目指した最高の舞台なのでメダルを取りたいそういう思いが一番強い」

水球、飯田純士。

ゴール前で鉄壁の守りを見せる、日本代表守備の要です。

飯田純士選手「ポジションの取り合いを僕は日本で一番うまいと自負しているのでそこだけは絶対譲れないポイントです」

ふるさとは青森市。
この時期は、八甲田の美しい樹氷が有名です。

兄の影響で水球を始めたのは小学3年生。

4年生からは学校の陸上部にも所属。1日およそ5時間、体を鍛えました。

15年飯田選手を指導している・葛原浩さん「センスがあるっていうよりも体力がある子だなっていう選手でしたね」

飯田選手はじまりの地は

飯田純士選手「スポーツの楽しさを知ることができた場所」

それが白く染まった雪の校庭。
所属していた陸上部である練習を行いました。

当時の恩師・鈴木先生「冬場の体力作りということでスノーホッケーという競技をやっていました」

踏み固められた雪の上でボールとスティックを使い行われる“雪国”独特のスポーツ「スノーホッケー」。

足元には滑りやすいプラスチック製のミニスキー。
このバランスの取りづらさに「水球」とのつながりがありました。

飯田純士選手「(水球は)常に足がついていない状態でディフェンスをしているんですけど、(スノーホッケーも)足元が不安定な状態で上半身を動かすっていう面では水球と似ている」

足元の踏ん張りがきかない状態で長いときは1日4時間練習を行うことで鍛えられたのが「体幹」。

水中の格闘技とも呼ばれる「水球」。
激しい水面下での争いにも生かされました。

飯田純士選手「相手が海水パンツをつかんで自分の方に引き込もうとしてくるんですけど、体の真ん中に力を入れて取らせないっていうのも体幹の一つ鍛えられたんではないかなと思います」

小さなころ磨いた力は花開き、4年前には夢の舞台にも立ちました。

体幹が鍛えられた原点。スノーホッケーをした雪の校庭が飯田純士はじまりの地。

飯田純士選手「(東京五輪では)青森県のパワーでメダルを目指して頑張っていけたらなと思います」

バドミントン・園田啓悟。
嘉村健士選手との男子ダブルスで現在、世界ランキング4位。メダル最有力です。

ふるさとは熊本県八代市。
地域特産のジャンボ柑橘類『晩白柚』は、湯船に浮かべても楽しめます。

小学3年生の時に、バドミントンを始めました。

園田啓悟選手「地元の小学校が強くて友達に誘われて入りました」

小学時代からの友人 西永光輝さん「小さい体の割にはパワーがある感じは受けた」
「県でも(実力は)頭一つ抜けていたものですから」

1年後には九州大会優勝。しかし6年生、中3で出場した全国大会では優勝にあと一歩届きませんでした。

園田選手の『はじまりの地』は…

園田啓悟選手「ルールがあって絶対一段(ずつ)で上ると自分の中で決めてずっと上っていました」

上っていたのは自主練習をするため自宅から走って通った
八代平野が一望できる龍峯山の入口。市民の健康づくりの場として親しまれる『石段』です。
300段ほどのところまで駆け上(のぼ)り、また駆け下りてくる。
それを、およそ10往復、繰り返しました。

小学時代の恩師 植柳ジュニア・西永哲也監督「体小さかったからそれだけコートを動き回らないと(返球に)ついていけない」
「バドミントンは最初の一歩が大事」「それが無かったら前は取れないし羽根に追いつくこともできない」

一段ずつ上り下りすることで、ふくらはぎの筋力、地面を蹴る力が増し、ネット際のショットに対応する素早い一歩目、「踏み込む力」が身につきました。

園田啓悟選手「シャトルに対する一歩目 飛びつきであったり、そういうところを磨かれたんじゃないかなと」

おととしの全日本選手権。
相手のシャトルに素早く反応。学生時代に果たせなかった日本のトップに上りつめました。
世界選手権では、2年連続でメダルも獲得。日本男子ダブルス初の世界のトップへ。
少年時代に駆け上った『龍峯山の石段』が、園田啓悟はじまりの地』。

園田啓悟選手「もし(東京)オリンピックに出たときは」「世界のトップになりたいですね」
「龍峯山オススメです。絶対上ったほうがいいです」

トライアスロン・古谷純平。

去年8月にお台場で行われた東京オリンピック予選では、日本勢トップでゴール。
活躍が期待される注目の選手です。

古谷純平選手「先行逃げ切りなレーススタイルそれが自分の強みだと思っています。」

ふるさとは、高知県・高知市。

四国三大祭りの一つ「よさこい祭り」は、60年以上の歴史をもつ、夏の風物詩です。

水泳・サッカー・マラソンと運動神経抜群だった古谷選手。
トライアスロンに導いたのは、お父さんでした。

父・古谷一さん「(当時)結構ジュニアのトライアスロン大会があって勝手にエントリーして彼が始めたと。」

古谷純平選手「問答無用ですよね。半強制というか強制ですかね」

古谷選手のはじまりの地は

古谷純平選手「『純平 走りに行くぞ』って言うので
嫌々やらされて『うるさいな』っていうくらいにしか思ってなかったかもしれない。」

それは、古谷選手が幼稚園児の時から、毎週末お父さんに走らされたこの河川敷。

父・古谷一さん「私が自転車に乗って、ここで手を抜きたくても抜けない。
本当に親父のスパルタのはじまりです、ここが。」

距離の表示を目安にタイムを計りながら、
厳しい喝が飛んでくる1.5kmの走り込み。
その様子をお父さんと小学2年生の翔太くんに再現してもらいました。

父・古谷一さん「ほらいくぞ!そんなスピードで勝てるのか!
そんなスピードじゃ全然だめだぞ!頑張れ!えい!」

走り続けた結果、小学生の時に出場したマラソンの県大会では、3連覇。

古谷純平選手「順位を決定づけるのがランなので、あと1歩・2歩踏ん張らないといけないところって必ず来る。
幼少期からあと1歩・2歩踏ん張るっていうのはやってきてることなので、僕の原点であるのは間違いない」

トライアスロン最後の種目・ランで限界を超える走りの原点、父と二人三脚で走り続けた「スパルタ河川敷」が古谷純平・はじまりの地。

古谷純平選手「東京オリンピックでの目標はメダル獲得っていうのは
ブレない目標として持ち続けてますので、精一杯頑張っていきたいと思います。」

競泳・平泳ぎ、渡辺一平。

長い手足を生かした大きなストロークを武器に2017年・当時の200mの世界記録を樹立、一躍脚光を浴びました。

渡辺一平選手「僕の記録を自分で更新していけるような選手になりたいと思います」

ふるさとは大分県・津久見市

古くからセメント産業が盛んで、市内には「セメント町」という地名も残ります。

水泳を始めたのは小学2年生。当時から平泳ぎが専門でしたが、小学校・中学校と結果は残せませんでした。

渡辺選手のはじまりの地は・・・

渡辺一平選手「高校生から自分の考え方が変わったんですよ。自分から水泳をやるようになって、今思えば楽しくきつい練習をさせてくださったのかなと思いますね」

それが、母校・佐伯鶴城高校での恩師・考案のトレーニング。

佐伯鶴城高校水泳部 下城智宏監督「長男が小さい頃、階段をなぜかこういう上り方をしていたんでそこがきっかけに」

腕立て伏せの姿勢で17段の階段を足から上るこのトレーニング
泳ぎと同様に腕と脚をバランス良く動かす事が求められました。

佐伯鶴城高校水泳部 下城智宏監督「腕や脚だけではなく腹筋も使うのですごくきついと思います。」

また、一般的な縄跳びの5倍の重さの、「タイロープ」と呼ばれるもので1分間跳び続ける練習も。

恩師のトレーニングにより鍛えられたのは、終盤テンポを上げる時に必要な「前腕の力」。

渡辺一平選手「ここでスピードを上げるんですよ。こうやってこういうイメージですよね。」
「その時って前腕をめちゃめちゃ使うんですよ(前腕を鍛えるのは)
ライバルが迫ってくる時に競り負けないっていうトレーニングに直結するのかなとは思いますね。」

高校3年生で迎えたユースオリンピック。
小さな頃全国で結果を残せなかった男が同世代の“世界一”に輝きました。

ライバルに競り負けない前腕の力が身についた「恩師考案のトレーニング」が渡辺選手、はじまりの地。

渡辺一平選手「目標と掲げている世界記録を更新して金メダルっていうのを達成したいっていうのがあるので、(大分の)みんなの生きる活力だったり、元気の源になって欲しいなって思います。」

バドミントン・嘉村健士。
園田啓悟選手と組んだ男子ダブルスで現在、世界ランキング4位。メダル最有力です。

ふるさとは佐賀県唐津市。
五穀豊穣を願う祭り『唐津くんち』は、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。
バドミントンをやっていた両親の影響で、体育館が遊び場でした。

嘉村選手「(赤ちゃんの)カゴに入っているぐらいから連れていかれていたという話だったのでそこでシャトルと戯れ ラケットと戯れ」

小学2年生でクラブチームに入りますが、シングルスではなかなか結果が出せずダブルスに転向。

小・中時代の恩師・七山モンキーズ円城寺文雄監督「速いスマッシュを取るのは上手でした他の子よりもずば抜けていました レシーブ力は」

嘉村選手の『はじまりの地』は…

嘉村選手「山ランニングはしていた覚えがある 地獄の山ラン」

ランニングしていた場所、それは練習で通っていた七つの山に囲まれた『七山(ななやま)』。
練習前に、ぐるっと回る、およそ1.5キロのコースを、小学2年から1周、中学3年間は2周走りました。
実は、幼い頃からぜんそくだった嘉村選手。体力は周りの選手より劣っていました。

嘉村選手 「体力的にもすごく強くなりましたし喘息もあまり発作が出ないようになったので」

8年間続けた『山ランニング』、次第にスタミナと、メンタルが鍛えられました。

嘉村選手「嫌なことをやり続ければ強くなるという そのおかげで今こうやって激しいスポーツができている」

おととしの全日本選手権。
何度も、何度も返球する嘉村選手。大人になった今では、さらに粘り強いレシーブをするスタミナが身についていました。
バドミントン日本男子ダブルス初となる世界の頂点へ、少年時代に走り続けた「七山の山ランニング」が、嘉村健士『はじまりの地』。

嘉村選手「(五輪で日本)男子ダブルス初のメダルというのを金メダル目指して頑張りたいなと思います」

ホッケー・女子 及川栞。

豊富な運動量と機敏な動きで相手の攻撃のチャンスを潰す「さくらジャパン」守備の要です。

ふるさとは岩手県の北部に位置する岩手町。
町にはおよそ130の彫刻が置かれるなど彫刻の町として有名です。

全日本メンバーで中学校のコーチを務めていた母親の影響で、生まれて歩けるようになる頃には、すでにホッケーを始めていました。

及川栞選手「中学生の人たちも遊びながらやってくれていたんですけどこの人たちを追い抜きたいというのはその時からありましたね」

父・宰さん「負けず嫌いですし思ったことをやるというか」

母・美代子さん「(中学生の)生徒さんたちと一緒に遊ぶ道具がホッケーのスティックだったっていう感じですね」

小学4年生の時の試合映像。
上級生に混ざってもその存在感は抜群!
素早い動きで得点を奪う活躍です。

母・美代子さん「フットワークは上手でしたよ、リズム感はありましたね」

及川選手のはじまりの地は・・・

及川栞選手「私が小さい時に夏祭りの催しの一つとして、『駒踊り』というのをやっていました」
それは、町の指定文化財になっている「沼宮内駒踊り」。

馬の飾りを腰に着け、馬の動きを真似た飛び跳ねるようなステップや独特なリズムが特徴です。

小学4年生から中学生まで踊っていたというこの駒踊り、ホッケーとどのような繋がりがあるのでしょうか?

及川栞選手「細かいステップですかね。次の踊りに行きやすい方向性をどういう風につま先の方向だったりとか、体重のかけ方はホッケーに直結してると思います」

駒踊りの細かなステップや速いテンポには、ドリブルで左右に仕掛けられてもバランスを崩さず相手にくらいつくことができるのです。

及川栞選手「抜かれても私はついていくよ!みたいな」

おととしはアジア大会で優勝。
最優秀選手に選ばれ頼れる存在に。

佐野ななみ選手・瀬上芽里選手「外国人選手にあたられてもあたり負けしないだとか」

藤尾香織選手「いまのヴェルディ(チームメート)の選手が栞を抜くとなると・・・あと何年かかるかわからない」

ホッケーに欠かせないステップの重要性を鍛えられた駒踊りが及川栞の「はじまりの地」。

及川栞選手「最高の笑顔で岩手町の方に金メダルを持って帰りたいと思います」

フェンシング・辻すみれ。
去年の全日本選手権で初優勝。
相手の攻撃を、見事な開脚で回避する守りのスペシャリスト。

辻選手「ディフェンスの中でも相手に突かれないようにしながら
カウンターで攻撃していくのが自分の強みだなって思います」

ふるさとは岐阜県・岐阜市。
和傘の生産量日本一。伝統工芸品「岐阜和傘」が有名です。

コーチをしていた叔母の影響で、小学3年生の時にフェンシングを始めた辻選手。

叔母でありコーチ 竹田さゆりさん
「とことん突きつめてやるのを小さいころから見ていて、
本気と本気のぶつかり合いがずっとできた感じですね。」

競技をはじめて1年後、全国大会初勝利に家族は大喜び。
中学3年生で全国チャンピオンに輝きました。

辻選手のはじまりの地は・・・

辻すみれ選手「あの看板のバレエ教室です」

案内されたのは、今は移転した「クラシックバレエ教室」の跡地。
フェンシングを始める前に4歳から小学3年生まで通っていた場所。
バレエとフェンシングにどんなつながりがあるのでしょうか?

辻すみれ選手「柔らかいほど色んな体勢でかわすことができますし、
ぎりぎりのところまで踏ん張ったりもできる柔軟体操をしていたことが
かなりいかされているなと思います。」

幼少期からバレエで柔軟体操を行うことでからだが柔らかくなり、
バランス感覚も養われるといいます。
相手の攻撃をかわす柔軟性を身につけた、「クラシック・バレエ教室」が辻すみれ、はじまりの地。

辻すみれ選手「個人戦でも団体でもメダルを取れるように頑張りたいと思います」

やり投げ・北口榛花。
去年、日本記録を更新!東京五輪代表内定に最も近い、やり投げ界の女王です。

北口選手「世界記録72m投げたいなっていうのがあるのでそこに向かって頑張っていきたい。」

ふるさとは、北海道・旭川市。
国内で唯一行われる、氷彫刻世界大会には、圧巻の芸術作品が集まります。

幼い頃は、バドミントンと水泳を続けていた北口選手。
やり投げをはじめたきっかけは、高校時代。恩師・松橋先生がかけた一言でした。

北口選手「『やり投げだったらいけるよ』って言われて始めました。」
北口選手のはじまりの地は。

北口選手「恐る恐る投げていた記憶はありますけど、
(やりが)刺さった時の音だったりが自分の中で思い出に残っています。」

「やりを投げていた場所」それは毎年、母校の中に除雪でできる「雪の山。」

恩師・松橋先生「なんで雪山に投げるかってグラウンドも(雪で)使えないから真っ直ぐ投げる練習を基本的なこととしてやった。」

高校入学当時、北口選手もやり投げ初心者。
雪が残るグラウンドでは、やりを投げることができず初めてやりを投げた場所がこの雪の山。限られた環境で続けた基礎練習が、記録を伸ばすための重要な技術につながっています。

北口選手「本当に最初だったと思うので、やりをまっすぐ飛ばすっていう事自体が難しいことなので、やりをいっぱい触ってコントロールっていう部分で大事だったんじゃないかなって思います。」

手先の感覚を養い、高校2年から目標にしていたインターハイで優勝。
今では、日本記録を更新するまでに成長しました。

北口選手「その(雪の山に投げていた)場面で自分がやり投げをやってみたいと思えましたし、支えになっている。」

コントロールの原点、「除雪でできた雪の山」が北口榛花・はじまりの地。

北口選手「東京オリンピックは私のやり投げ人生においては通過点なので、メダルが目標です!」

カヌースラローム・羽根田卓也。
スピードを落とさない高速ターンを武器に、東京オリンピック代表内定を勝ち取った
日本カヌー界の絶対王者です。

羽根田選手「東京オリンピックって特別なオリンピックに挑戦できることに喜びを覚えています。」

ふるさとは、愛知県豊田市。
全国的にも珍しい桜と紅葉が同時に見られる「川見四季桜の里」が有名です。

父の影響で9歳の時にカヌーを始めた羽根田選手。

羽根田選手「父が辛い練習だとか(カヌーを)ひっくり返したりする練習をさせてきたので
小さい頃はしょっちゅうカヌーを辞めたかった。でもカヌーの魅力に気づいて勝負の楽しさに気づいてカヌーにどんどんのめり込んでいきました」

羽根田選手のはじまりの地は。
カヌーへのきっかけを作ったお父さんが案内してくれたのは、実家の中。

父・邦彦さん「ここが我が家の風呂で卓也が学生の頃、秘密のトレーニングをしていた場所です。」

それは、羽根田選手が高校卒業まで過ごした実家のお風呂。

父・邦彦さん「小さい頃、毎日川に行けたわけではないのでバスタブにたまった水を掻いていました。」

浴槽の横に座り、溜めたお湯にパドルを入れて漕ぐというシンプルな練習。
そこで、羽根田選手が最も大切にしている技術が身につきました。

羽根田選手「お風呂の中でも、『水の呼吸』というものを感じることができます。
漕いでいると水は揺れて周期が出来はじめるのでその周期に合わせて漕ぐって言うのは良い練習。」

水の流れには強弱があり、
それを読み取る目を養っていた羽根田選手。
流れを見極め、的確に漕ぐことが武器である「高速ターン」に生かされています。

羽根田選手「自分の力を使わないで、水の力をいかに利用するかが大切。
スピードを殺さないターンは水を読み切っていないと、
水には決して勝てないので水の呼吸を読んで水を力にして味方にすることが大切」

自ら編み出した練習で、
水の流れを見極め、高速ターンを生み出した
「実家のお風呂」が羽根田選手のはじまりの地。

羽根田選手「リオオリンピックで本当にたくさんの方々に応援いただけるようになったので、その期待と声に応えるのが自分の仕事だと思います。」

カヌー・スラローム・女子カナディアン シングル 佐藤彩乃。
急流に設けられたゲートを通過しながらタイムを競う競技。
10月に自身初のオリンピック内定をつかみとった、
日本女子・カヌー界のエースです。

ふるさとは秋田県・仙北市。
水深423mの日本一深い湖、田沢湖が有名です。

カヌーを始めたのは中学1年生。
恩師に誘われたのがきっかけでした。

佐藤彩乃選手「陸で見る景色と水上から見る景色が全然違ってすごく新鮮だったのと、ずっとこの景色を見ていたいなっていうのがありました」

始めたばかりの映像です。
コーチに教えてもらうにも、まっすぐ進むことすらままなりません。

大会でも成績は振るわず上位選手との実力差を痛感しました。

カヌー連盟・馬場昭江さん「特別飛びぬけて何が優れている
カヌーに優れている選手ではなかったんですね」

恩師・佐藤隆悦さん「ただちっちゃい時から我慢強い子だった。それが一番の救いですね」

佐藤彩乃選手「ずっと悔しいなって気持ちを持ちながら練習していました」

佐藤選手の「はじまりの地」は・・・

佐藤彩乃選手「ここですね。この川で私が(自宅から)15分から20分ぐらいかけて毎日ここで練習をしていました」

365日通い練習した、地元に流れる「玉川(たまがわ)」。
この川にはある特徴が・・・

恩師・佐藤隆悦さん「水がきれいで絶対水量が他所よりもちゃんと多いってことですね。本当に日本の中でも珍しい川だと思いますね」

上流にあるダムの放水によって、1年を通して水が豊富。
そこで毎日コツコツ努力を重ねました。

佐藤彩乃選手「(静水では)ボートを傾けてどれくらい傾けたらひっくり返らないとか
流れの中で使うための基礎となる部分をここで練習をしていました」

ひっくり返らないバランス感覚が鍛えられ、
やがて月日を重ねついに努力が報われます。

高校時代まで無名だった選手が、アジア選手権銀メダルを獲得。
その名をとどろかせました。

豊富な水量で1年中練習をした
この川が佐藤彩乃「はじまりの地」。

佐藤彩乃選手「理想としている漕ぎはあるので、東京五輪という舞台でできたら活躍できるんじゃないかなって思います」

水球・曲山紫乃。
女子日本代表の大黒柱です。
ふるさとは山形県山形市。

観光名所・山寺は、およそ800段の石段を上った場所からの眺めが絶景です。
曲山選手が水球を始めたのは、小学3年生の時。

曲山紫乃選手「兄が深いプールで巻き足をして浮いている姿を見て私もやってみたいなと思って水球を始めました」

中学時代の試合映像。
ゴールから遠く離れた位置から見事に決勝ゴールを決め、チームを勝利に導きました。
しかし、高校入学後 思わぬ事態が…
水球・女子部員は、たったの2人だったのです。
曲山選手の『はじまりの地』は…

曲山紫乃選手「ゴールじゃなく、壁にぶつけてシュートを打ったりしていた」
それはプールの脇にある、この板。
高さ90センチ、幅3メートル、実際のゴールと同じサイズの『ぶっつけ板』です。
チーム練習ができなかったため、この『ぶっつけ板』めがけ1日およそ2時間、何度も何度も投げ込みました。

高校時代の恩師 齋藤秀樹監督「ディフェンスがどう手をあげていて、ゴールキーパーがどう動くんだろうか、(相手が)いないわけですから想像するしかない」
「必ずそれが地道な練習として役に立つ時が来る」
2年間『ぶっつけ板』にシュートを打ち続け、高3で日本のフル代表選手に。
日本代表 最年長の今でも国際大会でゴールを決めるなど主力選手として活躍しています。
世界に通用するシュート力を身につけた原点。
この『ぶっつけ板』が、曲山紫乃、『はじまりの地』。

曲山紫乃選手「今まで水球の女子が五輪に出場したことは一度もない」
「五輪で恩返しがしたい 勝って良いところをみんなに見てもらいたいと思っています」

ボート軽量級ダブルスカル・武田大作。
体重制限がある中、2人乗りでタイムを競う種目が軽量級ダブルスカル。

武田選手は、アトランタから5大会連続でオリンピックに出場した45歳の鉄人です。

ふるさとは、愛媛県伊予市。
全国一位を誇る「花かつお」の生産が盛んです。

高校時代、競技の珍しさに惹かれボートの道へ。
世界で戦う武田選手には、“ある長所”がありました。

武田選手「体幹部をいかに効率よく使うかっていうのがボート競技には重要になってきますし日本のボート選手がいる中でここ(腰回り)の大きさだけはトップに近い。」

武田選手のはじまりの地は。

武田選手「後ろに見えているのがうちのミカン畑です。」

実は、武田選手の実家は、ミカン農家。
3歳から収穫作業を続けているミカン畑は、ミカンの木が200本以上育っている広大な敷地。

武田選手「体の体幹部を山でも使うし、たまたまボートにも生きたって感じ。」

一日5時間の収穫作業がボートに生かされているワケは、ミカン畑のある特徴にありました。

武田選手「意外と斜面に手放しで立つのはしんどい。この斜面で(収穫を)やってきたっていうのが原点なり強くなった一つの原因です。」

山の斜面にあるミカン畑は、最大傾斜が74度。
支えのない状態でバランスを取り続ける収穫。
さらに、重いカゴを持って斜面の往復を繰り返したことが、長所である体幹の原点。
早いタイムを出すためには欠かせないブレの少ないボート捌きを生み出しました。

武田選手「うん、やっぱこの木はうまいな~。」

6度目のオリンピックを目指す鉄人の「体幹」を鍛え上げた「実家のみかん畑」が武田選手のはじまりの地。

武田選手「オリンピックは最高の舞台なので、世界のトップ選手とやってみたいですし、最高のパフォーマンスをしたいっていうのは一番ですね。」

ラグビー・福岡堅樹。

50m5秒8のスピードスター。ワールドカップ日本初のベスト8に貢献。
オリンピックで7人制に挑戦します。

福岡堅樹選手「いかに早い段階でトップスピードに入るかっていうところでは世界でも負けない自信を持っている」

ふるさとは福岡県・古賀市。
県内ブランド「あまおう」のいちご狩りが来月から始まります。

母 のぶさん「ちっともじっとしていない子供でした(笑)すごくハイハイも速かったです。(笑)」

幼稚園・運動会の映像。
他の子供を置き去りにするスタートダッシュ!
平均台をうまく渡り、この独走!

そのままダントツでゴール!
なんと2位の子は半周以上も後れています。

母 のぶさん「かけっこは一番だったので、負けたことは多分ない。」

経験者だった父の影響で、5歳からラグビーを始めました。

小学3年生の映像。
ボールを受けた福岡選手が走ると、誰も体に触れることすらできません。

当時のコーチ・谷山浩一郎さん「一対一なら確実に外で抜いていく選手ですね」

福岡選手のはじまりの地は・・・

父 綱二郎さん「ここが堅樹が子供の頃、僕と一緒にオリバーと散歩に来ていた五所八幡宮っていう神社になります。」

早朝の日課だった、愛犬との散歩。

その行き先は近所の神社。まずは階段を上ってお参り。

帰りは、本殿の裏にある、150mの下り坂をみんなでかけっこしていました。

父 綱二郎さん「幼稚園ぐらいの頃はただ必死でついてくるのが精一杯って感じでしたけど、小学校3,4年生くらいになってくるとむしろ堅樹の方が前を走っていた。」

平坦な道よりも、重心が前にかかり、自然と足を出すフォームが身につくと言います。

福岡堅樹選手「トップスピードを出すのは自分で出すよりも下り坂で走った方が体重ものってよりスピードがあがる。速く走ることが身についたかもしれない」

トップスピードに乗る感覚を身につけた・・・

父と愛犬とかけっこをした
「神社の下り坂」が福岡堅樹、はじまりの地

福岡堅樹選手「東京オリンピックで7人制ラグビーに挑戦して、メダル獲得を目標に掲げたいと思います。」

バドミントン、髙橋礼華。

リオでは、松友美佐紀選手とともに
日本バドミントン界史上初の金メダルを獲得しました。

髙橋礼華選手(当時26歳)
「日の丸が一番高いところに揚がっているのを見ると
本当にオリンピックという舞台で一番になったんだって
改めて実感できたので本当にうれしいです」

ふるさとは奈良県橿原市。
情緒と風情ある江戸時代の町並みが今も残されています。

母の影響で6歳から始めたバドミントン。

のちにペアを組む松友選手と一度だけ練習試合をした
貴重な映像が残されていました。
この時は1学年上の髙橋選手が勝利。

髙橋選手の『はじまりの地』は…

橿原ジュニアバドミントンクラブ 松村宏則総監督
「早めに(練習前に)来てやっているというかたちでしたね」
「誰も多分知らないと思います」

練習で使っていた体育館の端にある、この『肋木』。

橿原ジュニアバドミントンクラブ 松村宏則総監督
「上がって『ぶら下がり』 約30秒を5セットぐらいやっていたかな。それと『L字腹筋』。」

小柄で非力だった髙橋選手。誰よりも早く体育館に行き、『肋木』に上っては 全体重をかけ ぶら下がり、そしてL字腹筋を繰り返し腕力を鍛える。小学4年生から、毎日行いました。

橿原ジュニアバドミントンクラブ 松村宏則総監督
「腕力(が鍛えられる)
手首も柔らかくなりますから
ラケット回しは素早くなりますよね」

『肋木』で3年間鍛え続けた髙橋選手。
次第に力強さとスピードを兼ね備えたスマッシュが武器に。

悲願のオリンピックでは…

パワフルなスマッシュで世界を制しました。
少女時代ぶら下がり続けた『肋木』が、高橋礼華、『はじまりの地』。

髙橋礼華選手
「最強の自分になりたいと思ったので、最後最強の2人になって終われたら自分も満足するのかなと思います」

飛板飛込、三上紗也可。
高い跳躍を生かした高難度な技で世界選手権では日本勢史上最高の5位。東京オリンピック代表にも内定しました。

三上選手「(五輪内定は)嬉しさも大きかったんですけど、信じられないなっていう気持ちの方が大きかったです。」

ふるさとは鳥取県・米子市。

市内屈指の絶景ポイント、米子城跡は国の史跡に指定されています。

三上選手が飛込を始めたのは小学2年生。体験教室のチラシをきっかけに、競技にのめり込みました。

三上選手のはじまりの地は・・・
三上選手「冬場は寒くて(外では)練習できないので、ここを使わせてもらって練習をしている」

それが、プールサイドにあるこちらの控室。飛び込み台は屋外にしかないため、夏場以外はプールを使えず、冬は雪が降る事もあり、およそ8ヵ月、天井が斜めのこの控室で練習してきました。
こちらは、小学生時代控室で練習を行う様子。恵まれているとは言えない環境の中、およそ10年指導しているのが安田コーチ。
二人三脚で取り組んできた事があります。

安田コーチ「高難度種目の演技はできていたんですけど結局入水技術がないので上にいけなかったっていう状況があります。」

入水技術を磨くため、コーチが大切にしたのが「倒立」。

安田コーチ「できるだけ棒のような体の使い方を」

他の選手が室内プールで感覚を掴む中、入水の姿勢と近いその動きを繰り返し練習。入水時の体の使い方を控室で学びました。
倒立で養った感覚は体に染みつき、9月の日本選手権でも難しい技で綺麗に入水する三上選手の姿がありました

安田コーチ「(指導歴)10年ですけど、ようやくいろんなことがつながってきたという状態ですよね。」

三上選手「安田先生を信じて練習してきたので、感謝しかないですね。」
コーチと共に弱点を克服した「プールサイドの控室」が
三上選手、はじまりの地。

三上選手「5年生の時からオリンピックでメダルを取りたいっていう夢があったので、東京オリンピックではメダルを目指して頑張ります。」

ケイリン、新田祐大。
今年2月の世界選手権では銀メダルを獲得し、現在、世界ランキング1位。日本ケイリン界のエースです。

ふるさとは、福島県会津若松市。名物の「赤べこ」は、会津を代表する民芸品です。

競技を始めたのは、小学校4年生の時でした。
新田選手「自転車乗っている時間がすごく好きだったので、ママチャリかマウンテンバイクかってなったときにマウンテンバイクを選択したのが始まりですね。」

高校進学後、恩師の元で才能が開花しインターハイ優勝。
日本を代表する選手へと成長しました。

師匠の班目秀雄さん「才能に恵まれているんじゃなくて、努力し続ける才能に恵まれている。今でも進化を求めて頑張っている。」

新田選手のはじまりの地は。
新田選手「ずっと山道を登っていくっていうのを常に毎日繰り返していました。」

「毎日登った山」それは、実家からも見える標高870メートルの山。その名も「背炙山(せあぶりやま)」

父・一則さん「(学校から)帰ってきて毎日行って夕方までに戻ってくるっていうスケジュール。」

山の入り口から、頂上までの距離はおよそ9キロ。
角度のある上り坂、そして急なカーブも多く、厳しい山道。

新田選手「頂上まで『何分早く上がれるか』っていう勝負をやっていた。」

自転車部もなく練習場所に恵まれなかった中学時代。限られた環境の中、ケイリンにとって大切なものが身につきました。

新田選手「脚力につながるんですけど、休憩する場面が上り坂にはないので、自分の限界を常に超えるような心拍の追い込み方っていうか勝手に鍛えられている。」

さらに、帰りの下り坂は、早いスピードで下っていくため
恐怖心に慣れ、動体視力が身につきました。

新田選手「どれだけ自分に打ち勝つかっていう精神的な部分も肉体的な部分もすごく高まった。」

目指す場所へたどり着くために、365日、毎日登り続けた「背炙山」が新田祐大、はじまりの地。

新田選手「期待に一つでも応えたいと思いますし、やるからにはテッペンしか目指していないのでテッペン目指して頑張っていきたいです。」

パークの世界最高峰ツアー、年間王者決定戦。四十住選手は高難度の技を連発。日本人初の年間チャンピオンに輝きました。

四十住選手「努力が結果につながっていると思います。」

ふるさとは和歌山県・岩出市。
市内の根来寺には、国宝に指定されている木造大塔がそびえ立ちます。

四十住選手が兄に憧れスケートボードを始めたのは11歳。
四十住選手のはじまりの地は・・・

四十住選手「学校に行く前、30分・15分(練習を)やって帰ってきてからも暗くなるまでやっていましたね。」

それは、長さおよそ14メートル、幅1.5メートルある自宅の軒先。

四十住選手
「この段差を上ったり。オーリー。」
「最初はこれどのタイミングで跳んだらいいのかもわからないから」「(跳ぶ位置に)石で線を描いたりとかした」

軒先の奥には、一人で練習ができるように家族がロープをつけた手作りの場所も。

四十住選手「ロープを持って坂を上ったりしました。」

ここでロープを支えにボードを回す感覚を養うと、次はロープなしで「技」を練習。
スケートボードを始めた頃から繰り返し練習を行い技を習得。
家族もその姿を温かく見守りました。

父・和次さん「周りでできたなって喜んであげたら本人も次の技、次の技ってなっていくので」

技ができた喜びとともに四十住選手は次々と新しい技に挑戦。
今では、世界で彼女しかできないと言われる大技も手にしました。

四十住選手「家族とか応援してくれているから、できるんかな…挑戦していけるんかな(笑)」

世界を驚かす「技」の基礎を作った「自宅の軒先」がはじまりの地。

四十住選手「金メダルを目標にしているんですけど、今まで頑張ってきた技をミスなく披露する事が一番の目標です。」

セーリング470級・外薗潤平。
エンジンを使わず、全長4.7メートルの船をペアで操縦し順位を競います。

外薗選手は、船に体重をかけ方向転換し、バランスを保つ「クルー」。
筋力と体幹が重要とされるポジションです。
先月・東京オリンピック内定をつかみ取りました。

外薗潤平選手「嬉しいのとともに今はほっとしたかなという部分があります」

ふるさとは鹿児島県・日置市。芋焼酎の蔵元数が日本一の鹿児島県。
日置市も、焼酎造りが盛んな街です。

幼いころ父と兄とよく釣りをする、海好きな男の子。小学校時代は相撲少年。セーリングと出会ったのは高校入学時でした。

外薗潤平選手「最初は釣りできるかなぁくらいの軽い気持ちで入ったんですけど」

県内では2校しかないヨット部があったので入部。その、1年後の映像。全国の強豪チームは、幼い頃にヨットを始めた選手が多く実力差を痛感しました。

当時のコーチ山下先生「とにかく明るくて面白いことを人前でするキャラクターで、指導を素直に聞いて自分のものに吸収していた」

外薗選手の「はじまりの地」は・・・

外薗潤平選手「磯海水浴場まで走って行って腕立てだったり腹筋だったりとか」

放課後、高校からおよそ3キロ先。雄大な桜島が目の前の「磯海水浴場」。
ヨットには週末にしか乗れないため、平日は砂浜で筋トレやダッシュを行いました。

当時ペアを組んだ平井さんは…
「砂が柔らかい分しんどいのもあって、ヨットの競技は踏ん張る力が大事だったりするので砂浜のほうが培われていたのかな」

外薗潤平選手「泥臭い感じで汚れる感じだったんですけどね砂浜でやって。でもなんか心が鍛えられたのかなと思います。」

船のバランスを保つ体幹が身についた・・・
「磯海水浴場の砂浜」がはじまりの地。

外薗潤平選手「九州代表として九州男児らしく、熱いハートを持って来年メダルとりたいと思います」

強靱な体幹とスピード、そしてなによりも得点能力が優れた日本バスケットボール界のエースです。
ふるさとの富山市は北陸を代表する都市のひとつ。冬の立山連峰の雄大な姿は圧巻です。

小学校時代は野球少年。4番でキャッチャー。
陸上にも挑戦し、100メートル走は県大会で優勝。

中学校では同級生やコーチの誘いもありバスケットボールを始めました。

しかし・・スポーツ万能だった八村(はちむら)選手もバスケ初心者。

ボールが来てもボーッと突っ立ているだけ。今では得意のリバウンドもこのありさまです。

中学校時代のコーチ 坂本さん
Q.入部当初について
「全く何もできないから シュートもそうだし
ドリブルは強いけどもボールは(どこにいくか)全然」

そんな八村選手の「はじまりの地」は・・・

八村選手
「体育館で朝早く、夜遅くやっていたのが僕の記憶にありますね」

それは誰一人いない「早朝の体育館」。

中学時代のチームメート・岡山さん
「6時半に行くとドリブルの音がしててその30分前くらいから塁はきてたと思うのでシュートの練習をしていましたね」

バスケを遅く始めた八村選手。
遅れを取り戻そうと誰よりも早く登校し、体育館でシュート練習を繰り返しました。さらに・・・

中学時代のチームメート・岡山さん
「よくこの総合体育館で塁と練習をしました。」

練習が休みの日でも、チームメートを誘って市の体育館で2時間にも及ぶシュート練習。
誰よりも下手だったのが地道な練習を重ね、やがて得点能力が開花。チームのエースとなったのです。

中学時代のコーチ 坂本さん
「もう一か八か(シュートを)打っていいのは八村と決めていた」

単なる憧れだったNBAが現実のもとなったのです。

八村選手
「コーチも最初入った時にすごく大きい夢(NBA)を与えてくれて
僕もそれを信じてずっとやってきたのですごく感謝していますね」

誰よりもバスケが上手くなりたい。シュート力を磨いた早朝の体育館が八村塁「はじまりの地」

八村選手
「みなさん。バスケは、すっごいすっごい楽しいです。」

バレーボール・西田有志。
驚異の跳躍力を武器に持つ日本、期待の新星です。

ふるさとの三重県いなべ市は、山々に囲まれた街。
およそ140年前から、緑茶の生産が盛んです。

5歳の時、姉と兄の影響でバレーの道へ。
キラリと光る才能は、恩師の目にも映っていました。
小学校時代の恩師・梅澤通夫監督「バレーが好きやで真剣に取り組んでいる。ジャンプサーブとかなんか違うものを持っているなという感じはしました。」

西田選手のはじまりの地は・・・
西田選手「小学校の時にずっとそこに向かって跳んでいた覚えはありますね」

「小学生の頃、跳んでいた」という場所は、
幼い頃、よく遊んでいた川にありました。

母・美保さん「ここやね」 父・徳美さん「そやね」
母・美保さん「いつもここでぴょんぴょん跳んでいたね。数人で『どこまで届くか』っていうのをやっていた」

小学校低学年の時にどこまで届くか競争しながら跳び始めた赤い橋の下。
4年生のとき、身長140センチほどだった西田選手。
地面から高さ2.6メートルのこの部分に手が届くことを目標に、日々、跳び続けていました。

西田選手「やっぱり跳び方をだんだんと回数重ねる度に体が覚えていくので、小5の後半くらいですかね?たぶん届いたのは。体の使い方をここで少しずつ覚えていたのが今にもすごい生きてるんじゃないかなっていう風に思いますね。」

今の西田選手の最高到達点は、3メートル50センチ。
橋の赤い部分に届くまで成長しました。

母・美保さん「信じられないね・・・跳べとは言ったけど・・・」
父・徳美さん「有志、あんなとこからスパイク打ってんの?」

世界の高い壁を超える跳躍力、その原点となった「赤い橋の下」が西田有志、はじまりの地。

西田選手「世界のバレーをやっている選手の人たちに自分の名前を知ってもらう一つの場所だと思っているのでインパクト与えられるようなプレーをしっかりと出せたらなというふうには思っています。」

おととし、陸上100mで日本人初となる9秒台を達成。
リオオリンピックでは自慢の脚力で銀メダルを獲得。
日本・陸上短距離界を代表するスプリンター。

ふるさとは琵琶湖のほとりに位置する滋賀県彦根市。
年間およそ70万人が訪れる彦根城やご当地キャラクターの“ひこにゃん”が有名です。

小学校時代はサッカー選手。
ポジションは、ゴールキーパーでした。

小学時代のサッカークラブのコーチ 峯浩太郎さん
「出足が速いのでペナルティエリアに入ってきたボール全部走って捕ってしまうような形で、相手チームも『あれ追いつく?』みたいな感じで結構ワーッて盛り上がっていたので印象的でした。」

当時の試合映像。
キーパーながらも俊足を生かして素早く飛び出します。

市の選抜にも選ばれましたが、
中学では兄の影響で陸上部に入部。しかし・・・

中学時代のチームメイト
黒丸智弘さん「中一のころは僕に負けてました」
北村岳史さん「あいつ負けず嫌いでしたから相当悔しがってました。」

まさかの同学年に完敗。
そんな桐生選手の「はじまりの地」は・・・

中学時代の恩師 億田明彦さん
「こちらが、桐生が毎週のように練習していた芝生の坂です」

中学校近くの公園にある芝山の坂。

「芝山での練習で鍛えられたことが今にある」
そう語る桐生選手。

練習方法は、長さ70mの坂を何度もダッシュ。
上りでは、桐生選手の特徴である足の回転速度を生み出す地面を蹴る筋肉の強化。
下りではトップスピードの感覚をつかむことができたのです。

中学3年生の時には県内で、初めて100メートル・10秒台をマーク。
その速さは圧巻でした。

この名もなき坂はいま、地元でこう呼ばれています・・・
「桐生坂」と。

誰よりも速く走りたい!
そう願ったこの坂が桐生祥秀の「はじまりの地」。

桐生選手「一歩ずつ0.01秒0.02上げていって東京五輪で最高の舞台で走れれば良いかなと思う」

馬場馬術・高橋正直、37歳。
600キロを超える馬に美しくステップを踏ませ演技する「馬場馬術」。
経験値がものをいう競技で、リオオリンピックではチーム最年少で初出場。去年・アジア大会で団体金メダルに輝きました。

ふるさとは群馬県・渋川市伊香保町。
365段の石段の周りには名湯がある街。

高橋選手が馬術を始めたきっかけは・・・

当時のコーチ・角谷秋吉さん
「下校時だと思うんですけど立ち止まってうろうろしてるから『馬見るか?馬が好きか?』って聞いたら『はい』と。『じゃあ中に入って触ってみなよ』という感じ」

自宅から数百メートルの通学路にある乗馬クラブ。
遊びがてら頻繁に通うようになり、小学5年生で馬術を始め…
大学生で全国チャンピオンに。

高橋選手の「はじまりの地」は…

高橋選手「ここが僕が初めて馬と触れ合った場所になります。
ここの厩舎で馬とコミュニケーション取ってましたね」
馬に乗る、馬場ではなく、なぜ厩舎なのでしょうか?

高橋選手「日頃のケアが一番重要になってくるかなと思います。
今、どういう状態にあるのかを常に把握しながら次の運動への準備をしている。すごく役に立っている」

馬の体調を考え、1日に乗馬できるのは1時間。
それ以上に大切なのが、“馬と心を通わせる時間”
“人馬一心”になることが求められるのです。

高橋選手「ここで寝泊まりしたいくらいの気持ちで、馬と一緒に戯れていたというか遊んでいたというか」

幼いころから毎日5時間以上ふれあい、
“馬と心を通わせる”ことができるようになった
「通学路の厩舎」が“はじまりの地”。

高橋選手「この地ではじめて、今もこうして伊香保で拠点を持ってやっていけてるのは本当に幸せなことですし、一歩ずつ東京に向かって頑張っていけたらなと思います」

卓球・平野美宇。
先月行われた世界大会では、石川佳純選手を破り、日本人選手トップの準優勝!
ふるさとの山梨県中央市には、日本一にも選ばれた野菜の直売所があります。

指導者でもある母・真理子さんの影響で1歳の時には、卓球が身近な存在になっていました。
平野選手には、“ある日課”がありました。

母・真理子さん「卓球以外の時間は家族で公園巡りをしました。小さい頃は卓球選手を目指すとは思っていなかったので色んな遊びを通して体の機能が成長したらいいなと思って。」

特に大好きだったのが、この白いトランポリン。基礎的な運動神経が身につきました。

平野選手のはじまりの地は。
平野選手「キャラクターが好きだったので妹とどっちが先に倒せるかいつも競争して練習していました」

それは、この卓球台での“ある練習”。
母・真理子さん「美宇が大好きなキティちゃんを置いてボールをご飯に見立てて
『キティちゃんにご飯あげようね』っていって的あてをよくやっていました。」
幼かった平野選手が「基礎練習で飽きないように」と

母・真理子さんが考えたキティちゃんの水筒を使った的当て。
3歳の時から、全国大会で優勝した7歳まで、ほぼ毎日続けていました。
平野選手「コースをつくのが得意なのは小さい頃の練習がいきてきていると思います。『基礎が作られた場所』だと思っています。」

大好きだったキティちゃんめがけて「コース打ち」を磨いたこの卓球台が平野美宇「はじまりの地」

平野選手「東京オリンピックで金メダルをとって自分も変われるような大会にしたいと思います。」

フェンシング見延和靖、32歳。
昨シーズン、グランプリ大会で2勝。日本勢として初めて年間総合1位という快挙を成し遂げました。
ふるさとは福井県越前市。工芸品「越前和紙」などが受け継がれる歴史ある街です。

小学校では空手、中学ではバレーボールに熱中していた見延選手が、
フェンシング経験者の父の勧めで競技を始めたのが高校1年生。
その場所は名門・武生商業。

見延選手「間違いなく日本一練習している学校だったと思いますね。(入部を)間違えたと思いましたよ」
見延選手のはじまりの地は・・・

見延選手「ビデオミーティングをやっていたんですけどその事がすごく印象的ですね。」

それがハードな練習を行った体育館の2階の部屋に今も残るこのビデオデッキ。
ミーティングを行ったのは、恩師の諸江克昭さん。

見延選手「ビデオを流して見る訳ではなくて、一時停止してそこで・・・考えさせる時間を作るんですよね。」

こちらは見延選手が2年生の時の映像。
ミーティングでは一つ一つ、動作を一時停止して確認。
他の部員も交え、勝つために必要な練習は何か?徹底的に考えさせました。

諸江さん「ほっといても自分で考えて練習するようになりますね。何のためにやっているのかわからないと肉・血にならない。」

ビデオミーティングで磨いた「考える力」は、大学・社会人で花開き、悲願のオリンピックにも出場・・・
見延選手「自分の目標の立て方だったりとか、そこに対しての解決策を立てていかなきゃいけない、そういった所がすごく今に生きていますね。」
世界1位となった今も進化し続ける見延選手。
この「ビデオデッキ」こそが「はじまりの地」。

見延選手「日本代表である前に福井県の代表だし、来年のこの時期(8月)にはしっかりメダルを披露できるように期待していただけたらなと思います。」

4人目のアスリートはサーフィン・松田詩野。
来年の東京オリンピックで初めて採用されるサーフィン。
今年行われたジャパンオープンの初代女王。
ふるさとは茅ヶ崎市(ちがさきし)。サザン通りの先にはサーフポイントが広がり、海の日に行われる「浜降祭(はまおりさい)」で夏を告げる街。サーフィンをやっていた両親の影響で幼い頃から地元の海が遊び場でした。

松田選手の「はじまりの地」は・・・
松田選手 「波が小さいから、はじめて始めるのにすごくいいポイントだったと思います」

茅ヶ崎のシンボル、烏帽子岩(えぼしいわ)に一番近いサーフポイント。
波が岩にぶつかることで小さくなり、子供でもサーフィンをしやすいポイント。
6歳から通い始めました。

お母さんが撮影した貴重な映像。
烏帽子岩(えぼしいわ)をバックに、堂々と波に乗る11歳の松田選手。
ボードに立つ感覚が何より大好きだったといいます。
毎日、学校前と放課後、自宅から自転車で5分かけポイントへ。
サーフィンの基礎を身につけました。

松田選手「他の地域とか試合で行って帰ってきて、地元の海に入ると知り合いがいて、リラックスもできるし楽しくサーフィンができる場所。楽しむってことも茅ヶ崎でやってきたからこそ忘れずに今もやってこれてるなって思います」

14歳でプロサーファーに。
今も練習場所の烏帽子岩(えぼしいわ)のポイントが“はじまりの地”。
松田選手「茅ケ崎の応援してくれている人たちの思いを背負ってオリンピックに出て頑張りたいと思います」

女子バレーボール・黒後愛。21歳。
名門・下北沢成徳高校で春高2連覇を達成。
去年、日本代表デビューを果たした新星エースです。

ふるさとの宇都宮市は、言わずと知れた餃子の街。
バレー一家の末っ子として生まれ、姉の影響で小学校3年生からバレーの道へ。
アタッカーとして才能が開花したのは、中学時代。
当時から、パワーが桁違いな選手だったと言います。
スパイクで女の子の小指を骨折させてしまったなんてエピソードも。

そんな黒後選手の始まりの地は・・・
黒後選手「練習場所の一つ。体育館の延長上みたいな感じでしたね。」
それは、黒後選手の実家にある、この「芝生の庭。」
姉・彩乃さん「当時は妹の方が小さいし、ボールも繋がんなくて悔しくて『もう一回もう一回!』ってわんわん泣いてました。」
姉に自ら声をかけ、芝生の庭で繰り返したバレーの練習。
小学校高学年になると、より距離をとって練習するために、砂利道へ。
しかし、練習はアタッカーにも関わらず決まって「パス」でした。
そのワケは、小学生の時に出会った“恩師の言葉”にあります。
黒後選手「バレーの始まりの一本目っていうのは、後に繋がる一番大事な一本目なので、大切にしないとダメだってことはずっと言われてました。今でも活きています。」

「仲間へ繋ぐ1本目のパス」に磨きをかけてきたこの芝生の庭が黒後愛、『はじまりの地』。

黒後選手「応援してくれている人がたくさんいるのでその声に応えたいですし、自分自身も結果を残したいという思いはあります。」

2人目のアスリートは、体操の谷川翔。二十歳。
去年、王者・内村航平選手を破り個人総合で史上最年少優勝。
今年連覇を果たした、体操界の若きエースです。

ふるさとの船橋市は、人口およそ63万人。
都心から一番近い潮干狩りスポット「三番瀬」が有名です。
谷川選手が体操を始めたのは、小学1年生の時。
谷川翔選手「お兄ちゃんの影響が一番大きいかなと」
「僕も「やりたい」と言って(体操クラブに)入った」
兄・航選手の背中を追って9年間通い続けた体操クラブ。
そこには、今も谷川選手が使っていた器具が残っています。

谷川翔選手の『はじまりの地』は…
体操クラブから自宅へ帰る途中にある坂道。
100メートルを超える急勾配のこの坂道を小学1年生から、自転車で上り続けました。
谷川翔選手「帰りは夜遅くなっちゃうからって、お母さんが(坂の下まで)迎えに来て」「がんばって上がると褒めてくれるんですよ(笑)」
谷川航選手「(練習に)もう疲れて自転車こぎながら、きついなと思いながら帰っていましたね。」
谷川翔選手「脚力とか忍耐力とか もちろんついたし、今とかにも活きてきているのかなというのはあります」

坂道を9年間上り続け、中学3年生で全国1位に。

小学校卒業式で語った夢はー
谷川翔少年 「僕の夢は体操でオリンピックに出てメダルをとることです」

谷川翔選手「オリンピックの舞台で最高の演技をして金メダルをとりたい
それがお兄ちゃんと2人で兄弟で出られたら最高のかたち」
「期待に応えられるように頑張りたいなと思います」

アスリート一人目は、瀬戸大也。世界水泳で2個の金メダル、東京オリンピック内定を決めました。
ふるさと、埼玉県・毛呂山町は緑と清流の町。ゆずの栽培も有名で日本最古といわれています。
瀬戸選手が水泳と出会ったのは5歳の時。体力を持て余す息子を見かねてお母さんが勧めたのです。

瀬戸少年の目標は・・・「一位になりたい」。
すでに勝つことにこだわっていました。
ふるさとに戻ると、必ず立ち寄る場所があります。
「毎回試合の前後にお参りとお礼参りをすることをしていて」
流鏑馬で有名な「出雲伊波比神社」11歳から弓を引いていました。
リオオリンピックのあとにも、周囲の反対を押し切り、馬を走らせます。

スイミングスクールのコーチに見せてもらったのは鏡。
水泳に鏡とは一体・・・
実はこれ、中学時代の瀬戸選手が水中に沈め、使っていた鏡。
瀬戸選手が中学生の時、『水中で自分の泳ぎを見たい』」といってお父さんに手作りしてもらったそうです。
誰よりも速く泳ぎたい。
ここが、瀬戸大也の、はじまりの地。

瀬戸選手「自分にとってはパワーをもらえる町なのでまだ叶えられていないオリンピックチャンピオンを自分が達成できたら誇らしいことなのでがんばりたいなと思います」

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