COURSE夢に向かって走る2020アスリートを全都道府県から紹介。東京オリンピックに向けてふたたび日本を一つにつなぐ。

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バドミントン、髙橋礼華。

リオでは、松友美佐紀選手とともに
日本バドミントン界史上初の金メダルを獲得しました。

髙橋礼華選手(当時26歳)
「日の丸が一番高いところに揚がっているのを見ると
本当にオリンピックという舞台で一番になったんだって
改めて実感できたので本当にうれしいです」

ふるさとは奈良県橿原市。
情緒と風情ある江戸時代の町並みが今も残されています。

母の影響で6歳から始めたバドミントン。

のちにペアを組む松友選手と一度だけ練習試合をした
貴重な映像が残されていました。
この時は1学年上の髙橋選手が勝利。

髙橋選手の『はじまりの地』は…

橿原ジュニアバドミントンクラブ 松村宏則総監督
「早めに(練習前に)来てやっているというかたちでしたね」
「誰も多分知らないと思います」

練習で使っていた体育館の端にある、この『肋木』。

橿原ジュニアバドミントンクラブ 松村宏則総監督
「上がって『ぶら下がり』 約30秒を5セットぐらいやっていたかな。それと『L字腹筋』。」

小柄で非力だった髙橋選手。誰よりも早く体育館に行き、『肋木』に上っては 全体重をかけ ぶら下がり、そしてL字腹筋を繰り返し腕力を鍛える。小学4年生から、毎日行いました。

橿原ジュニアバドミントンクラブ 松村宏則総監督
「腕力(が鍛えられる)
手首も柔らかくなりますから
ラケット回しは素早くなりますよね」

『肋木』で3年間鍛え続けた髙橋選手。
次第に力強さとスピードを兼ね備えたスマッシュが武器に。

悲願のオリンピックでは…

パワフルなスマッシュで世界を制しました。
少女時代ぶら下がり続けた『肋木』が、高橋礼華、『はじまりの地』。

髙橋礼華選手
「最強の自分になりたいと思ったので、最後最強の2人になって終われたら自分も満足するのかなと思います」

飛板飛込、三上紗也可。
高い跳躍を生かした高難度な技で世界選手権では日本勢史上最高の5位。東京オリンピック代表にも内定しました。

三上選手「(五輪内定は)嬉しさも大きかったんですけど、信じられないなっていう気持ちの方が大きかったです。」

ふるさとは鳥取県・米子市。

市内屈指の絶景ポイント、米子城跡は国の史跡に指定されています。

三上選手が飛込を始めたのは小学2年生。体験教室のチラシをきっかけに、競技にのめり込みました。

三上選手のはじまりの地は・・・
三上選手「冬場は寒くて(外では)練習できないので、ここを使わせてもらって練習をしている」

それが、プールサイドにあるこちらの控室。飛び込み台は屋外にしかないため、夏場以外はプールを使えず、冬は雪が降る事もあり、およそ8ヵ月、天井が斜めのこの控室で練習してきました。
こちらは、小学生時代控室で練習を行う様子。恵まれているとは言えない環境の中、およそ10年指導しているのが安田コーチ。
二人三脚で取り組んできた事があります。

安田コーチ「高難度種目の演技はできていたんですけど結局入水技術がないので上にいけなかったっていう状況があります。」

入水技術を磨くため、コーチが大切にしたのが「倒立」。

安田コーチ「できるだけ棒のような体の使い方を」

他の選手が室内プールで感覚を掴む中、入水の姿勢と近いその動きを繰り返し練習。入水時の体の使い方を控室で学びました。
倒立で養った感覚は体に染みつき、9月の日本選手権でも難しい技で綺麗に入水する三上選手の姿がありました

安田コーチ「(指導歴)10年ですけど、ようやくいろんなことがつながってきたという状態ですよね。」

三上選手「安田先生を信じて練習してきたので、感謝しかないですね。」
コーチと共に弱点を克服した「プールサイドの控室」が
三上選手、はじまりの地。

三上選手「5年生の時からオリンピックでメダルを取りたいっていう夢があったので、東京オリンピックではメダルを目指して頑張ります。」

ケイリン、新田祐大。
今年2月の世界選手権では銀メダルを獲得し、現在、世界ランキング1位。日本ケイリン界のエースです。

ふるさとは、福島県会津若松市。名物の「赤べこ」は、会津を代表する民芸品です。

競技を始めたのは、小学校4年生の時でした。
新田選手「自転車乗っている時間がすごく好きだったので、ママチャリかマウンテンバイクかってなったときにマウンテンバイクを選択したのが始まりですね。」

高校進学後、恩師の元で才能が開花しインターハイ優勝。
日本を代表する選手へと成長しました。

師匠の班目秀雄さん「才能に恵まれているんじゃなくて、努力し続ける才能に恵まれている。今でも進化を求めて頑張っている。」

新田選手のはじまりの地は。
新田選手「ずっと山道を登っていくっていうのを常に毎日繰り返していました。」

「毎日登った山」それは、実家からも見える標高870メートルの山。その名も「背炙山(せあぶりやま)」

父・一則さん「(学校から)帰ってきて毎日行って夕方までに戻ってくるっていうスケジュール。」

山の入り口から、頂上までの距離はおよそ9キロ。
角度のある上り坂、そして急なカーブも多く、厳しい山道。

新田選手「頂上まで『何分早く上がれるか』っていう勝負をやっていた。」

自転車部もなく練習場所に恵まれなかった中学時代。限られた環境の中、ケイリンにとって大切なものが身につきました。

新田選手「脚力につながるんですけど、休憩する場面が上り坂にはないので、自分の限界を常に超えるような心拍の追い込み方っていうか勝手に鍛えられている。」

さらに、帰りの下り坂は、早いスピードで下っていくため
恐怖心に慣れ、動体視力が身につきました。

新田選手「どれだけ自分に打ち勝つかっていう精神的な部分も肉体的な部分もすごく高まった。」

目指す場所へたどり着くために、365日、毎日登り続けた「背炙山」が新田祐大、はじまりの地。

新田選手「期待に一つでも応えたいと思いますし、やるからにはテッペンしか目指していないのでテッペン目指して頑張っていきたいです。」

パークの世界最高峰ツアー、年間王者決定戦。四十住選手は高難度の技を連発。日本人初の年間チャンピオンに輝きました。

四十住選手「努力が結果につながっていると思います。」

ふるさとは和歌山県・岩出市。
市内の根来寺には、国宝に指定されている木造大塔がそびえ立ちます。

四十住選手が兄に憧れスケートボードを始めたのは11歳。
四十住選手のはじまりの地は・・・

四十住選手「学校に行く前、30分・15分(練習を)やって帰ってきてからも暗くなるまでやっていましたね。」

それは、長さおよそ14メートル、幅1.5メートルある自宅の軒先。

四十住選手
「この段差を上ったり。オーリー。」
「最初はこれどのタイミングで跳んだらいいのかもわからないから」「(跳ぶ位置に)石で線を描いたりとかした」

軒先の奥には、一人で練習ができるように家族がロープをつけた手作りの場所も。

四十住選手「ロープを持って坂を上ったりしました。」

ここでロープを支えにボードを回す感覚を養うと、次はロープなしで「技」を練習。
スケートボードを始めた頃から繰り返し練習を行い技を習得。
家族もその姿を温かく見守りました。

父・和次さん「周りでできたなって喜んであげたら本人も次の技、次の技ってなっていくので」

技ができた喜びとともに四十住選手は次々と新しい技に挑戦。
今では、世界で彼女しかできないと言われる大技も手にしました。

四十住選手「家族とか応援してくれているから、できるんかな…挑戦していけるんかな(笑)」

世界を驚かす「技」の基礎を作った「自宅の軒先」がはじまりの地。

四十住選手「金メダルを目標にしているんですけど、今まで頑張ってきた技をミスなく披露する事が一番の目標です。」

セーリング470級・外薗潤平。
エンジンを使わず、全長4.7メートルの船をペアで操縦し順位を競います。

外薗選手は、船に体重をかけ方向転換し、バランスを保つ「クルー」。
筋力と体幹が重要とされるポジションです。
先月・東京オリンピック内定をつかみ取りました。

外薗潤平選手「嬉しいのとともに今はほっとしたかなという部分があります」

ふるさとは鹿児島県・日置市。芋焼酎の蔵元数が日本一の鹿児島県。
日置市も、焼酎造りが盛んな街です。

幼いころ父と兄とよく釣りをする、海好きな男の子。小学校時代は相撲少年。セーリングと出会ったのは高校入学時でした。

外薗潤平選手「最初は釣りできるかなぁくらいの軽い気持ちで入ったんですけど」

県内では2校しかないヨット部があったので入部。その、1年後の映像。全国の強豪チームは、幼い頃にヨットを始めた選手が多く実力差を痛感しました。

当時のコーチ山下先生「とにかく明るくて面白いことを人前でするキャラクターで、指導を素直に聞いて自分のものに吸収していた」

外薗選手の「はじまりの地」は・・・

外薗潤平選手「磯海水浴場まで走って行って腕立てだったり腹筋だったりとか」

放課後、高校からおよそ3キロ先。雄大な桜島が目の前の「磯海水浴場」。
ヨットには週末にしか乗れないため、平日は砂浜で筋トレやダッシュを行いました。

当時ペアを組んだ平井さんは…
「砂が柔らかい分しんどいのもあって、ヨットの競技は踏ん張る力が大事だったりするので砂浜のほうが培われていたのかな」

外薗潤平選手「泥臭い感じで汚れる感じだったんですけどね砂浜でやって。でもなんか心が鍛えられたのかなと思います。」

船のバランスを保つ体幹が身についた・・・
「磯海水浴場の砂浜」がはじまりの地。

外薗潤平選手「九州代表として九州男児らしく、熱いハートを持って来年メダルとりたいと思います」

強靱な体幹とスピード、そしてなによりも得点能力が優れた日本バスケットボール界のエースです。
ふるさとの富山市は北陸を代表する都市のひとつ。冬の立山連峰の雄大な姿は圧巻です。

小学校時代は野球少年。4番でキャッチャー。
陸上にも挑戦し、100メートル走は県大会で優勝。

中学校では同級生やコーチの誘いもありバスケットボールを始めました。

しかし・・スポーツ万能だった八村(はちむら)選手もバスケ初心者。

ボールが来てもボーッと突っ立ているだけ。今では得意のリバウンドもこのありさまです。

中学校時代のコーチ 坂本さん
Q.入部当初について
「全く何もできないから シュートもそうだし
ドリブルは強いけどもボールは(どこにいくか)全然」

そんな八村選手の「はじまりの地」は・・・

八村選手
「体育館で朝早く、夜遅くやっていたのが僕の記憶にありますね」

それは誰一人いない「早朝の体育館」。

中学時代のチームメート・岡山さん
「6時半に行くとドリブルの音がしててその30分前くらいから塁はきてたと思うのでシュートの練習をしていましたね」

バスケを遅く始めた八村選手。
遅れを取り戻そうと誰よりも早く登校し、体育館でシュート練習を繰り返しました。さらに・・・

中学時代のチームメート・岡山さん
「よくこの総合体育館で塁と練習をしました。」

練習が休みの日でも、チームメートを誘って市の体育館で2時間にも及ぶシュート練習。
誰よりも下手だったのが地道な練習を重ね、やがて得点能力が開花。チームのエースとなったのです。

中学時代のコーチ 坂本さん
「もう一か八か(シュートを)打っていいのは八村と決めていた」

単なる憧れだったNBAが現実のもとなったのです。

八村選手
「コーチも最初入った時にすごく大きい夢(NBA)を与えてくれて
僕もそれを信じてずっとやってきたのですごく感謝していますね」

誰よりもバスケが上手くなりたい。シュート力を磨いた早朝の体育館が八村塁「はじまりの地」

八村選手
「みなさん。バスケは、すっごいすっごい楽しいです。」

バレーボール・西田有志。
驚異の跳躍力を武器に持つ日本、期待の新星です。

ふるさとの三重県いなべ市は、山々に囲まれた街。
およそ140年前から、緑茶の生産が盛んです。

5歳の時、姉と兄の影響でバレーの道へ。
キラリと光る才能は、恩師の目にも映っていました。
小学校時代の恩師・梅澤通夫監督「バレーが好きやで真剣に取り組んでいる。ジャンプサーブとかなんか違うものを持っているなという感じはしました。」

西田選手のはじまりの地は・・・
西田選手「小学校の時にずっとそこに向かって跳んでいた覚えはありますね」

「小学生の頃、跳んでいた」という場所は、
幼い頃、よく遊んでいた川にありました。

母・美保さん「ここやね」 父・徳美さん「そやね」
母・美保さん「いつもここでぴょんぴょん跳んでいたね。数人で『どこまで届くか』っていうのをやっていた」

小学校低学年の時にどこまで届くか競争しながら跳び始めた赤い橋の下。
4年生のとき、身長140センチほどだった西田選手。
地面から高さ2.6メートルのこの部分に手が届くことを目標に、日々、跳び続けていました。

西田選手「やっぱり跳び方をだんだんと回数重ねる度に体が覚えていくので、小5の後半くらいですかね?たぶん届いたのは。体の使い方をここで少しずつ覚えていたのが今にもすごい生きてるんじゃないかなっていう風に思いますね。」

今の西田選手の最高到達点は、3メートル50センチ。
橋の赤い部分に届くまで成長しました。

母・美保さん「信じられないね・・・跳べとは言ったけど・・・」
父・徳美さん「有志、あんなとこからスパイク打ってんの?」

世界の高い壁を超える跳躍力、その原点となった「赤い橋の下」が西田有志、はじまりの地。

西田選手「世界のバレーをやっている選手の人たちに自分の名前を知ってもらう一つの場所だと思っているのでインパクト与えられるようなプレーをしっかりと出せたらなというふうには思っています。」

おととし、陸上100mで日本人初となる9秒台を達成。
リオオリンピックでは自慢の脚力で銀メダルを獲得。
日本・陸上短距離界を代表するスプリンター。

ふるさとは琵琶湖のほとりに位置する滋賀県彦根市。
年間およそ70万人が訪れる彦根城やご当地キャラクターの“ひこにゃん”が有名です。

小学校時代はサッカー選手。
ポジションは、ゴールキーパーでした。

小学時代のサッカークラブのコーチ 峯浩太郎さん
「出足が速いのでペナルティエリアに入ってきたボール全部走って捕ってしまうような形で、相手チームも『あれ追いつく?』みたいな感じで結構ワーッて盛り上がっていたので印象的でした。」

当時の試合映像。
キーパーながらも俊足を生かして素早く飛び出します。

市の選抜にも選ばれましたが、
中学では兄の影響で陸上部に入部。しかし・・・

中学時代のチームメイト
黒丸智弘さん「中一のころは僕に負けてました」
北村岳史さん「あいつ負けず嫌いでしたから相当悔しがってました。」

まさかの同学年に完敗。
そんな桐生選手の「はじまりの地」は・・・

中学時代の恩師 億田明彦さん
「こちらが、桐生が毎週のように練習していた芝生の坂です」

中学校近くの公園にある芝山の坂。

「芝山での練習で鍛えられたことが今にある」
そう語る桐生選手。

練習方法は、長さ70mの坂を何度もダッシュ。
上りでは、桐生選手の特徴である足の回転速度を生み出す地面を蹴る筋肉の強化。
下りではトップスピードの感覚をつかむことができたのです。

中学3年生の時には県内で、初めて100メートル・10秒台をマーク。
その速さは圧巻でした。

この名もなき坂はいま、地元でこう呼ばれています・・・
「桐生坂」と。

誰よりも速く走りたい!
そう願ったこの坂が桐生祥秀の「はじまりの地」。

桐生選手「一歩ずつ0.01秒0.02上げていって東京五輪で最高の舞台で走れれば良いかなと思う」

馬場馬術・高橋正直、37歳。
600キロを超える馬に美しくステップを踏ませ演技する「馬場馬術」。
経験値がものをいう競技で、リオオリンピックではチーム最年少で初出場。去年・アジア大会で団体金メダルに輝きました。

ふるさとは群馬県・渋川市伊香保町。
365段の石段の周りには名湯がある街。

高橋選手が馬術を始めたきっかけは・・・

当時のコーチ・角谷秋吉さん
「下校時だと思うんですけど立ち止まってうろうろしてるから『馬見るか?馬が好きか?』って聞いたら『はい』と。『じゃあ中に入って触ってみなよ』という感じ」

自宅から数百メートルの通学路にある乗馬クラブ。
遊びがてら頻繁に通うようになり、小学5年生で馬術を始め…
大学生で全国チャンピオンに。

高橋選手の「はじまりの地」は…

高橋選手「ここが僕が初めて馬と触れ合った場所になります。
ここの厩舎で馬とコミュニケーション取ってましたね」
馬に乗る、馬場ではなく、なぜ厩舎なのでしょうか?

高橋選手「日頃のケアが一番重要になってくるかなと思います。
今、どういう状態にあるのかを常に把握しながら次の運動への準備をしている。すごく役に立っている」

馬の体調を考え、1日に乗馬できるのは1時間。
それ以上に大切なのが、“馬と心を通わせる時間”
“人馬一心”になることが求められるのです。

高橋選手「ここで寝泊まりしたいくらいの気持ちで、馬と一緒に戯れていたというか遊んでいたというか」

幼いころから毎日5時間以上ふれあい、
“馬と心を通わせる”ことができるようになった
「通学路の厩舎」が“はじまりの地”。

高橋選手「この地ではじめて、今もこうして伊香保で拠点を持ってやっていけてるのは本当に幸せなことですし、一歩ずつ東京に向かって頑張っていけたらなと思います」

卓球・平野美宇。
先月行われた世界大会では、石川佳純選手を破り、日本人選手トップの準優勝!
ふるさとの山梨県中央市には、日本一にも選ばれた野菜の直売所があります。

指導者でもある母・真理子さんの影響で1歳の時には、卓球が身近な存在になっていました。
平野選手には、“ある日課”がありました。

母・真理子さん「卓球以外の時間は家族で公園巡りをしました。小さい頃は卓球選手を目指すとは思っていなかったので色んな遊びを通して体の機能が成長したらいいなと思って。」

特に大好きだったのが、この白いトランポリン。基礎的な運動神経が身につきました。

平野選手のはじまりの地は。
平野選手「キャラクターが好きだったので妹とどっちが先に倒せるかいつも競争して練習していました」

それは、この卓球台での“ある練習”。
母・真理子さん「美宇が大好きなキティちゃんを置いてボールをご飯に見立てて
『キティちゃんにご飯あげようね』っていって的あてをよくやっていました。」
幼かった平野選手が「基礎練習で飽きないように」と

母・真理子さんが考えたキティちゃんの水筒を使った的当て。
3歳の時から、全国大会で優勝した7歳まで、ほぼ毎日続けていました。
平野選手「コースをつくのが得意なのは小さい頃の練習がいきてきていると思います。『基礎が作られた場所』だと思っています。」

大好きだったキティちゃんめがけて「コース打ち」を磨いたこの卓球台が平野美宇「はじまりの地」

平野選手「東京オリンピックで金メダルをとって自分も変われるような大会にしたいと思います。」

フェンシング見延和靖、32歳。
昨シーズン、グランプリ大会で2勝。日本勢として初めて年間総合1位という快挙を成し遂げました。
ふるさとは福井県越前市。工芸品「越前和紙」などが受け継がれる歴史ある街です。

小学校では空手、中学ではバレーボールに熱中していた見延選手が、
フェンシング経験者の父の勧めで競技を始めたのが高校1年生。
その場所は名門・武生商業。

見延選手「間違いなく日本一練習している学校だったと思いますね。(入部を)間違えたと思いましたよ」
見延選手のはじまりの地は・・・

見延選手「ビデオミーティングをやっていたんですけどその事がすごく印象的ですね。」

それがハードな練習を行った体育館の2階の部屋に今も残るこのビデオデッキ。
ミーティングを行ったのは、恩師の諸江克昭さん。

見延選手「ビデオを流して見る訳ではなくて、一時停止してそこで・・・考えさせる時間を作るんですよね。」

こちらは見延選手が2年生の時の映像。
ミーティングでは一つ一つ、動作を一時停止して確認。
他の部員も交え、勝つために必要な練習は何か?徹底的に考えさせました。

諸江さん「ほっといても自分で考えて練習するようになりますね。何のためにやっているのかわからないと肉・血にならない。」

ビデオミーティングで磨いた「考える力」は、大学・社会人で花開き、悲願のオリンピックにも出場・・・
見延選手「自分の目標の立て方だったりとか、そこに対しての解決策を立てていかなきゃいけない、そういった所がすごく今に生きていますね。」
世界1位となった今も進化し続ける見延選手。
この「ビデオデッキ」こそが「はじまりの地」。

見延選手「日本代表である前に福井県の代表だし、来年のこの時期(8月)にはしっかりメダルを披露できるように期待していただけたらなと思います。」

4人目のアスリートはサーフィン・松田詩野。
来年の東京オリンピックで初めて採用されるサーフィン。
今年行われたジャパンオープンの初代女王。
ふるさとは茅ヶ崎市(ちがさきし)。サザン通りの先にはサーフポイントが広がり、海の日に行われる「浜降祭(はまおりさい)」で夏を告げる街。サーフィンをやっていた両親の影響で幼い頃から地元の海が遊び場でした。

松田選手の「はじまりの地」は・・・
松田選手 「波が小さいから、はじめて始めるのにすごくいいポイントだったと思います」

茅ヶ崎のシンボル、烏帽子岩(えぼしいわ)に一番近いサーフポイント。
波が岩にぶつかることで小さくなり、子供でもサーフィンをしやすいポイント。
6歳から通い始めました。

お母さんが撮影した貴重な映像。
烏帽子岩(えぼしいわ)をバックに、堂々と波に乗る11歳の松田選手。
ボードに立つ感覚が何より大好きだったといいます。
毎日、学校前と放課後、自宅から自転車で5分かけポイントへ。
サーフィンの基礎を身につけました。

松田選手「他の地域とか試合で行って帰ってきて、地元の海に入ると知り合いがいて、リラックスもできるし楽しくサーフィンができる場所。楽しむってことも茅ヶ崎でやってきたからこそ忘れずに今もやってこれてるなって思います」

14歳でプロサーファーに。
今も練習場所の烏帽子岩(えぼしいわ)のポイントが“はじまりの地”。
松田選手「茅ケ崎の応援してくれている人たちの思いを背負ってオリンピックに出て頑張りたいと思います」

女子バレーボール・黒後愛。21歳。
名門・下北沢成徳高校で春高2連覇を達成。
去年、日本代表デビューを果たした新星エースです。

ふるさとの宇都宮市は、言わずと知れた餃子の街。
バレー一家の末っ子として生まれ、姉の影響で小学校3年生からバレーの道へ。
アタッカーとして才能が開花したのは、中学時代。
当時から、パワーが桁違いな選手だったと言います。
スパイクで女の子の小指を骨折させてしまったなんてエピソードも。

そんな黒後選手の始まりの地は・・・
黒後選手「練習場所の一つ。体育館の延長上みたいな感じでしたね。」
それは、黒後選手の実家にある、この「芝生の庭。」
姉・彩乃さん「当時は妹の方が小さいし、ボールも繋がんなくて悔しくて『もう一回もう一回!』ってわんわん泣いてました。」
姉に自ら声をかけ、芝生の庭で繰り返したバレーの練習。
小学校高学年になると、より距離をとって練習するために、砂利道へ。
しかし、練習はアタッカーにも関わらず決まって「パス」でした。
そのワケは、小学生の時に出会った“恩師の言葉”にあります。
黒後選手「バレーの始まりの一本目っていうのは、後に繋がる一番大事な一本目なので、大切にしないとダメだってことはずっと言われてました。今でも活きています。」

「仲間へ繋ぐ1本目のパス」に磨きをかけてきたこの芝生の庭が黒後愛、『はじまりの地』。

黒後選手「応援してくれている人がたくさんいるのでその声に応えたいですし、自分自身も結果を残したいという思いはあります。」

2人目のアスリートは、体操の谷川翔。二十歳。
去年、王者・内村航平選手を破り個人総合で史上最年少優勝。
今年連覇を果たした、体操界の若きエースです。

ふるさとの船橋市は、人口およそ63万人。
都心から一番近い潮干狩りスポット「三番瀬」が有名です。
谷川選手が体操を始めたのは、小学1年生の時。
谷川翔選手「お兄ちゃんの影響が一番大きいかなと」
「僕も「やりたい」と言って(体操クラブに)入った」
兄・航選手の背中を追って9年間通い続けた体操クラブ。
そこには、今も谷川選手が使っていた器具が残っています。

谷川翔選手の『はじまりの地』は…
体操クラブから自宅へ帰る途中にある坂道。
100メートルを超える急勾配のこの坂道を小学1年生から、自転車で上り続けました。
谷川翔選手「帰りは夜遅くなっちゃうからって、お母さんが(坂の下まで)迎えに来て」「がんばって上がると褒めてくれるんですよ(笑)」
谷川航選手「(練習に)もう疲れて自転車こぎながら、きついなと思いながら帰っていましたね。」
谷川翔選手「脚力とか忍耐力とか もちろんついたし、今とかにも活きてきているのかなというのはあります」

坂道を9年間上り続け、中学3年生で全国1位に。

小学校卒業式で語った夢はー
谷川翔少年 「僕の夢は体操でオリンピックに出てメダルをとることです」

谷川翔選手「オリンピックの舞台で最高の演技をして金メダルをとりたい
それがお兄ちゃんと2人で兄弟で出られたら最高のかたち」
「期待に応えられるように頑張りたいなと思います」

アスリート一人目は、瀬戸大也。世界水泳で2個の金メダル、東京オリンピック内定を決めました。
ふるさと、埼玉県・毛呂山町は緑と清流の町。ゆずの栽培も有名で日本最古といわれています。
瀬戸選手が水泳と出会ったのは5歳の時。体力を持て余す息子を見かねてお母さんが勧めたのです。

瀬戸少年の目標は・・・「一位になりたい」。
すでに勝つことにこだわっていました。
ふるさとに戻ると、必ず立ち寄る場所があります。
「毎回試合の前後にお参りとお礼参りをすることをしていて」
流鏑馬で有名な「出雲伊波比神社」11歳から弓を引いていました。
リオオリンピックのあとにも、周囲の反対を押し切り、馬を走らせます。

スイミングスクールのコーチに見せてもらったのは鏡。
水泳に鏡とは一体・・・
実はこれ、中学時代の瀬戸選手が水中に沈め、使っていた鏡。
瀬戸選手が中学生の時、『水中で自分の泳ぎを見たい』」といってお父さんに手作りしてもらったそうです。
誰よりも速く泳ぎたい。
ここが、瀬戸大也の、はじまりの地。

瀬戸選手「自分にとってはパワーをもらえる町なのでまだ叶えられていないオリンピックチャンピオンを自分が達成できたら誇らしいことなのでがんばりたいなと思います」

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