『わが家の歴史』
[プロデューサー ここだけの話]
vol.03 最終回〜4年の歳月と1つの根っこ〜
一昨年、三谷さんから上がってくるはずの原稿をひたすら待っていました。ほかにすることもない、傍から見たらニートの期間にしていたことは、有名人の伝記的映画、そして無名の家族の映画を片っ端から観ることでした。原稿がなく準備に取りかかれない焦りの中、この企画の背骨である無名の家族と時代の寵児を描くということの研究をしていました。私の脳内の進歩など全体の出来上がりからするとミクロのものです。でもこの企画の進行ゼロの日がとにかく怖かったのだと思います。
そんな日々の中で最も感銘を受けたのは有名人の映画では「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」('07 仏)無名の家族の映画では「喜びも悲しみも幾年月」('52 木下恵介)でした。世界的なスターと無名の灯台守の家族、全く違う主人公で作風も異なるけれど、愚かだったり力なかったり、不完全な人間が様々な障害にぶつかりながら懸命に生きている、そして傷つきながら愛するものを必死に守っている、根っこは同じでした。
時をさらに遡って4年前。この企画を三谷さんからいただきました。しかし、開局50周年企画とか大作とか、自分のちっちゃなウツワにそぐわないのでと私は拒絶していました。「私には無理」という私と「大丈夫」という三谷さん。「こんなのやったら死んじゃいます」という私。大喧嘩になりました。たまたま打ち合わせ場所がホテルのロビーだったので、周りにはかなり見苦しい中年カップルに見えてたと思います(笑)。それから数ヵ月後、最終的に「やってみます」と踏ん切りがついたのは、この企画は親の世代の"生きる力"を描くものになるかもしれないという思いからでした。その世代は死を身近にした戦争体験を経て、敗戦後の本当の貧しさの中、逞しく勤勉に生きていた。弱々しくなった自分達の世代とは違う、一途で必死な日本人たち…大きなことは成し遂げていないけど全力で家族を愛した八女家の人々、ものづくりや芸の道を純粋な気持ちで突き進んだ有名人を通じて日本人の"生きる力"が描ける、後世に伝えられるかもしれないと思いました。
そして、その3年後の昨年夏、なんとかクランクインに辿り着きました。プロデューサーのメインの仕事は、予算確保、本作り、キャスティング。インの頃には役割の9割が終わっています。当時の私は燃え尽きた灰のようになっていました。一方で、日々お会いする役者さん達は普段のドラマに比べると僅かな出番のハズなのに役作りに必死でした。方言、人物の考証、時代考証、ほんの数秒のシーンのために、です。今回のキャストは正しく日本の第一線の方々です。第一線だからもう少し余裕があってもいいようなものの、失礼ながら、時に滑稽に見えるほどの一途さでした。やがて、この人達は必死だからこそ第一線にいるのだと気づきました。同時に、生きることに必死なのは親の世代に限ったものではない、自分よりずっと若い人達も持っている魂だと感じました。そして、そういう人達と過ごしていると、灰のようになっていた自分にも少しずつ生きる力が湧いてきました。
今回の三谷さんの脚本で私が一番好きなセリフは、主人公政子が最終話で語るセリフです。奥ゆかしい政子は自らメッセージを発することはあまりありません。しかし、ある夜政子は、人生に絶望し自ら命を絶とうとする人物に向かってこう言います
「…あの戦争で大勢の人が亡くなった。だけどあなたは生き抜いた。生き抜いたからにはね、生き抜いた理由があるの。それを見つけるの。これからの人生で」「生きて」政子は大切な家族二人の死を経て、楽ではない暮らしをしています。そんな政子のことばは心に沁みます。
現在、ドラマは仕上げの真最中です。自分がこのドラマに取り組むと決めた理由、そして撮影中に経験させてもらったこと"生きる力"が湧いてくる…このドラマを見る人にそんな体験をしてもらえるなら、プロデューサーとしてそれ以上の幸せはありません。
(プロデューサー・重岡由美子)
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