戦場のメロディ
- モンテンルパについて -

■「モンテンルパ」とは
フィリピンの首都マニラの南に隣接するモンテンルパ市(Muntinlupa City)。
ここに、東洋一と言われるニュー・ビリビッド刑務所があります。
スペイン様式の白亜の本館が特徴的なその建物の内部には、現在も16,000人以上の囚人が収容されているといいます。

かつてここに、100人以上もの元日本兵が戦犯として囚われていました。

当時、日本では、モンテンルパの戦犯たちの存在はほとんど知られておらず、彼らは死刑の恐怖と孤独感に襲われる毎日を過ごしていました。
刑務所生活で彼らを最も悩まされたのは、暑さと虫、そして劣悪な食事だったといいます。

フィリピンの年間平均気温は26℃〜27℃で、年間通して最も気温が低い12月や1月ですら、最高気温が30℃近い日もあります。ましてや刑務所内の環境は酷く、夏場は40℃近い暑さだったといいます。

当初、戦犯たちに許された食事は、刑務所から支給されるものだけ。
米は赤飯(あかめし)と呼ばれる古代米で、パサパサして味がない。
しばしば小石が混じっていて、歯がぼろぼろになったといいます。

また、刑務所内には、虫が大量にいて、食事中などにたかって来るハエ等に皆困らされました。

そんな過酷な状況の中でも皆さんは、日本への帰国の日を夢見て勤勉さを失いませんでした。
「あゝモンテンルパの夜は更けて」の作詞者、代田銀太郎さんは、仲間と「ちりがみ文学会」を結成。ちりがみに詩を書いていたそうです。

しかし、その帰国までの道程は途方もなく長く険しいものでした。

■「地獄のフィリピン戦」
モンテンルパに囚われていた元日本兵が戦ったフィリピン戦は、太平洋戦争中、最も過酷な戦場の一つでした。

昭和19年、日本軍が占領するフィリピンに対し、アメリカ軍は圧倒的な物量で上陸。初の特攻攻撃まで行なったレイテ沖海戦では、日本海軍連合艦隊が壊滅し、戦局は一気に悪化していきました。

海軍部隊はマニラ防衛隊を編成し、市街戦に突入。
マニラ市街戦ではフィリピン人およそ10万人が戦死するという悲劇を生みました。

さらに、フィリピンの山間部、ジャングルでのゲリラ戦へと突入した日本軍。
米軍、フィリピン軍、そしてゲリラ化した市民との戦いは泥沼化。
そんな中、補給路を断たれた日本兵たちを待ち受けていたのは「飢餓」でした。

ジャングルに逃れた日本兵は食料もない中、抵抗しながらさまよい歩き、ジャングルの動植物を食べ、一部の者はフィリピンの村々から略奪を行ない、それも底を尽きると、やがて戦死した戦友などの人肉を食べるという極限状態にまで達してしまったのです。

フィリピン全土での日本軍の戦死者は約52万人。
その中には、餓死者も多かったといいます。
これが、モンテンルパの元日本兵たちが経験した「地獄のフィリピン戦」でした。

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