戦場のメロディ
- はじめに -

横浜港を埋め尽くした数万人もの人、人、人……
今から56年前、大桟橋は歓喜の渦に巻き込まれていた。
それは、戦後8年もの間、異国の地で囚われていた108名の元日本兵と、その帰還を待ち受ける家族や友人達だった。

祖国から見放された男たちを救い出す原動力となったのは、政治家でも外交官でもない、一人の歌手だった。
渡辺はま子 ─
「蘇州夜曲」「支那の夜」など、今に残る大ヒット曲を数多く持ち第一回紅白歌合戦のトリも務めた昭和の国民的大スターである。

奇跡と言われたその救出劇を生み出したのは男たちから託された一曲の『歌』だった。

昭和20年8月15日、アジア各地に多くの被害をもたらし太平洋戦争・第二次世界大戦は、終戦を迎えた。
中でも、日本軍と連合軍の激戦の地となったフィリピンの被害は甚大で、当時のフィリピンと日本は、賠償責任問題を巡って緊張関係にあった。
80億ドル─ 日本円で約3兆円という、当時の国家予算の4分の1にも及ぶ賠償金額を請求するフィリピン政府。

その賠償交渉の切り札にされたのが、一方的とも言える戦争犯罪事件裁判で死刑囚となり、モンテンルパの刑務所に収容された108人の声なき日本人だった。
いつの時代も、国同士の争いの犠牲になるのは、力も名も無い、普通の人々なのだ。

「戦争犯罪人」の烙印を押され死刑の恐怖に、ただただ怯える元日本兵たち。
異国の地で戦った彼らにとって、終戦は、更なる地獄の始まりだった。
彼らの戦争は、まだ終わっていなかったのだ。

そんな彼らを助けるため、国交もない、反日感情強いフィリピンに向かうはま子。
それはまさに命を賭けた戦いだった。

モンテンルパの刑務所で、日本人戦犯の前で歌うはま子の肉声が残されている。
「本当に……、一生懸命来ました…」
涙にむせびながらも一心に話し、歌い続けるその歌声は、世論を動かし、やがて外交をも動かしていく。

また、出世をかなぐり捨て日本人戦犯救出に心血を注いだ、若き復員局の職員・植木信吉。
そして、獄中で救出活動に挑んだ僧侶・加賀尾秀忍。

政治的な力も、潤沢な資金もない3人が地道に始めたこの運動が、やがて、フィリピンと日本の外交に大きな転機をもたらすことになってゆく。

現在87歳になった植木信吉氏は、当時を振り返りこう語る。
「当時、復興に沸く日本では、モンテンルパの皆さんを見て見ぬ振りしていた。
彼らだけがあの戦争の責任を取らされるのは、絶対におかしい。
家族と離れ離れになり、未だに苦しんでいる皆さんのために出来るだけのことをしたい、そう思ったのです」

その奇跡の救出劇の内幕を渡辺はま子さんや、植木さん、加賀尾さんの日記や手記を元に忠実にドラマ化。

当時の貴重な録音テープや映像、そして実際にモンテンルパに捕らえられていた元日本兵やその家族の証言を織り交ぜながら、戦争の悲劇、そして奇跡の救出劇の真実に迫ります。

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