戦場のメロディ
- 渡辺はま子さんとは -

3つのキーワードをもとに、渡辺はま子を紹介します。

■第一回紅白歌合戦のトリ
明治43年(1910年)10月27日生まれの渡辺はま子は、名前の通り横浜育ちの「ハマっ子」。少女時代から歌うことが大好きで、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)で声楽を学びました。昭和8年(1933年)にデビュー。
その美貌と本格的な歌唱力で、戦中・戦後といくつものヒット曲を出し、国民的歌手に。
今では、年の瀬の風物詩となったNHK「紅白歌合戦」は、戦後、昭和26年(1951年)にラジオ番組として開催されましたが、その時のトリを務めたのもはま子でした。

■「支那の夜」「蘇州夜曲」
渡辺はま子のヒット曲といえば……「支那の夜」や「蘇州夜曲」といった戦中の楽曲が有名。中でも「蘇州夜曲」は、最近でも多くのアーティストがカバーしているので、若いかたでも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。しかし、この「蘇州夜曲」に、当時の時代背景が色濃く反映されていることは、あまり知られていないかもしれません。
デビューから3年後、「忘れちゃいやヨ」が注目されヒットの兆しをみせた渡辺はま子でしたが、戦争へと突き進み始めていた日本政府は、この歌を軟弱な歌として発禁処分にしてしまいました。その後、芸能人の活動も厳しく統制され、はま子の歌は、日中戦争で盛り上がる「大陸ブーム」の影響を受けたものへと変わっていきました。「蘇州夜曲」「支那の夜」は、日本国民を中国(大陸)へと駆り立てる日本政府の戦略を反映した楽曲だったのです。

■「あゝモンテンルパの夜は更けて」
戦時中は、従軍歌手として戦地へ赴き、多くの兵士の前で歌った渡辺はま子。子供の頃から大好きだった歌を武器にして戦争で戦ってしまった。終戦時、はま子は、歌で多くの兵士達を鼓舞し、戦争で死なせたことに責任を感じ苦しみました。
そんなはま子が、戦争の悲劇が生んだ「戦犯」──モンテンルパの元日本兵の解放を求めて歌ったのが「あゝモンテンルパの夜は更けて」。大ヒットとなったこの曲は、全くの素人であるモンテンルパの元日本兵が刑務所で作ったものでした。

▼明治43年
…横浜市に生まれる
▼昭和8年
…3月 武蔵野音楽学校声楽科卒業
…4月 日本ビクター入社
▼昭和11年
…4月 「忘れちゃいやヨ」ヒット
…6月 「忘れちゃいやヨ」発禁処分
▼昭和12年
…3月 日本コロンビア入社
…同月 慰問団に参加 中国へ渡る
▼昭和14年
…8月 「何日君再来」ヒット
…12月 「支那の夜」ヒット
▼昭和15年
…1月 「蘇州夜曲」ヒット
▼昭和19年
…6月 陸軍報道部より従軍命令が下り、中国へ渡る
▼昭和20年
…8月 天津にて終戦
▼昭和23年
…巣鴨拘置所にて戦犯慰問を始める
▼昭和25年
…8月 日本ビクター再入社
▼昭和27年
…6月 「あゝモンテンルパの夜は更けて」ヒット
…12月 モンテンルパ刑務所、戦犯慰問でフィリピンへ渡る
▼平成11年
…12月 永眠

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