神戸新聞の7日間
[スタッフコメント]

プロデューサー成田一樹
いよいよ明日放送の日を迎えます。

今も、最後の編集・音入れの仕上げ作業が続いています。

1995年1月17日午前5時46分、あの日、あの瞬間のことは今も忘れることはできません。当時、フジテレビ入社3年目だった私は、報道局の泊まり勤務で、朝のニュース用の送り出し準備をしていた時のことでした。会社はまだお台場ではなく東京新宿の河田町という場所にありました。その報道フロアーの地震速報の警報音が、突如、鳴り響いたのです。
画面には、震度5、6というありえない数字が並んでいました。さらに不気味だったのは、神戸の震度は表示されていなかったこと。
いったい、現地で何が起きているのか?「めざましテレビ」に断片的な情報を入れながらも、不気味な時間が過ぎてゆきました。
そして、夜が明け、高速道路の倒壊映像が飛び込んできて以降、報道特番を送り出す日々が続いたのです。
あれから15年、神戸新聞の記者たちのことを初めて知って以降、当時、報道に携わっていたつもりだった私は、被災地の本当の現実をなにも知らなかったことに気づかされました。
「神戸新聞の7日間」の番組化が決定すると、まず、神戸新聞社の記者の皆さんはじめ、社員や関係者に徹底した取材を行いました。
家族を亡くされた方、生き埋めになられた方、それでも会社に向かった…想像を絶する話に、ただ黙って話を聞くことしかできませんでした。
「経験した人にしかこの辛さは分からないと思う」
取材をしたスタッフが、被災者の方からよく言われたそうです。

辛さは分からない…だからこそ、私たちは少しでも多くの方々に話をお伺いしました。その数述べ70人以上。取材したスタッフは20代〜30前半の若手が中心、彼らは震災発生当時、みな学生でした。だからこそ、記者の皆さんは、次の世代に震災の記録を伝えるためにお話をして頂けたのかもしれません。

その取材の積み重ねが、一冊の台本になり、櫻井さん初めとする出演者によって、映像化されました。その制作過程でもっとも悩んだのは、この番組を放送することが、被災者の方々に、再び思い出したくない辛い記憶を思い出させることになるのでは…ということでした。けれど、神戸新聞のある方は、こうおっしゃいました。「辛い記憶を思い出させることもあるかもしれない、でも、震災の記憶は絶対に風化させてはいけない」その思いを信じて、ようやく放送の日を迎えようとしています。 事実の重みをしっかりと受け止めてくれた出演者・スタッフの情熱が、視聴者の皆さんに伝わることを祈っています。

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