最後の絆
イントロダクション

「鉄血勤皇隊」とは?

はじめに…

最後の絆

笑顔で肩を並べる二人の青年をとらえた、1枚の写真―
これは、1950年に撮影された、ある兄弟の写真だ。

しかし、この写真が撮影されたわずか5年前、弟は日本軍の少年兵、兄は、敵国アメリカ軍の兵士として、故郷で繰り広げられた沖縄戦で敵同士となり戦っていたのだ。


1945年 太平洋戦争末期の沖縄―
そこは、まさに地獄のようだった。
地形が変わるほどに砲弾を受け、街は焼きつくされ、二十数万人もの人々が尊い命を失くした沖縄戦。

そこで、血のつながった兄弟が、敵兵同士になり戦争により、家族が二つの国に引き裂かれる、そんな考えられないような悲劇が、実際に起ったのだ。

彼らは、ごく普通の兄弟だった。
貧しくても、互いに肩を寄せ合って生きる、そんな当時の日本にはどこにでもいたような普通の家族だった。

しかし、あの日…
70年前の真珠湾攻撃を境に、兄弟は、家族は、日本とアメリカ、二つの国に引き裂かれてしまった。
まるで、簡単に、線でも引くように…。運命はあまりに非情だった。

どちらかが、勝つか、負けるか―
どちらかが、生きるか、死ぬか―
そんな二つの選択肢のみが常に突きつけられる「戦争」。

闘いの中、日本軍の少年兵として、致命的な銃創を負い、もはや、死を覚悟するしかなかった16歳の弟。

そんな弟の前に、最後に現れた敵国(アメリカ)兵…

それは、弟を、家族を救いたいと、アメリカ兵になり、命がけで故郷に帰ってきた兄だった。

故郷ヤンバルの森で敵同士となり、対峙した兄弟。

しかし、兄弟は、国を超えて、戦争を超えて、共に生き延びるという「奇跡」を得た。

それを導いたのは、血の結びつきの強さ、家族の絆の強さだった。

先に逝った母の遺した言葉が、父の信念が、生きることを諦めない「チカラ」を、兄弟に与えたのだ。

16歳の少年兵だった弟・東江康治さんは、当時を振り返り、こう言う。
「家族とは血のつながり。親子、兄弟は、人間にとって、最も身近な存在です。しかし、戦争は、最も身近な家族さえも引き裂いてしまいます。私たち兄弟は、66年前の戦争で、兵士として戦いました。日本とアメリカ、二つの国のはざまでつらい体験をしました。」

66年前のあの日、何が起こったのか―
兄弟は、この悲劇の真相を、これまで声高に語ることはなかった。
しかし、今だからこそ、伝えなければならない。

兄弟を支えた、「最後の絆」。
それは、混迷を極める今、一筋の希望の光となる、そう信じて―。

企画:成田一樹(フジテレビ編成部)

「あの沖縄戦で、敵と味方に引き裂かれ、向き合った実在のご兄弟がいる。そして、まだ生きている…その事実を知り取材を開始したのが2年前のことでした。佐藤健さんには、実在の人物を演じるという大変難しい役所を、きちんと受けとめて頂けました。絶望の淵でも、再会を信じ生きることを決してあきらめなかった家族の想いを、佐藤さん演じる康治を通して感じて頂ければ幸いです。さらに、本番組を通じて、かつて日本人が家族の絆を糧に、敗戦という未曽有の苦難を乗り越えて、奇跡の復活を果たしたことを今一度思い起こして頂きたいと思います」
「鉄血勤皇隊」とは?

太平洋戦争末期の沖縄戦で、徴兵年齢に達していない14〜17歳の少年たち1780人が兵士として召集されました。
その名は、「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」。

まだ幼さの残る少年たちに軍服と銃が支給され、「一人十殺一戦車」(一人が十人の敵、一台の戦車を撃破)を合言葉に肉弾特攻の訓練などが行われました。

「鉄の暴風」と呼ばれたアメリカ軍の猛攻撃によって少年兵の半数が戦死。当時16歳の東江康治さんも、アメリカ兵との銃撃戦で重傷を負ったのです。

看護活動で動員された女学生、「ひめゆり学徒隊」は広く知られているものの、「鉄血勤皇隊」の悲劇は、全国的にほとんど知られていないのが実状です。
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