硫黄島 戦場の郵便配達
硫黄島の戦い

東京から南へ1200キロの地点にある、硫黄島。第二次世界大戦中、日本の領土で初めて日米の戦いが行われたのが、この小さな島であった。

硫黄島は、サイパンと東京の中間に位置するため、その存在はサイパンから日本本土を爆撃していたアメリカ軍にとって、大きな障害となっていた。この日本本土攻略の、一歩手前にある島を占領するため、アメリカ軍は硫黄島へ大量の兵力を投入した。

このアメリカ軍の猛撃を受けたのが、栗林忠道中将率いる22,000名の日本軍であった。
制空権、制海権を奪われた日本軍が、この小さな島での戦いに勝つことができないのは明白であり、栗林中将は"勝つため"の作戦ではなく、"米軍の本土進行を一日でも遅らせる"ための作戦を取る。この防衛に重きを置いた作戦のため、硫黄島の日本軍は、島内に全長18キロの地下壕を掘り巡らせる。

沖縄とほぼ同じ緯度にある硫黄島は、気温が高く、特に地下壕のなかは40度以上もの高温になった。一日「水筒一本分」しか水が配給されないという耐え難い水不足のなか、硫黄ガスが噴く熱い壕内での穴掘り作業は重労働であり、多くの兵士たちがこの苦しみのなかで痩せ細り、疲労の極致に至る。

しかし、この地下壕を使った日本軍による徹底抗戦が続いたため、"5日ほどで攻略できる"という米軍の予想ははずれ、日本軍は1ヶ月以上ものあいだ戦闘を続ける。凄惨を極めたこの激戦のなか、日本軍22,000名のうち生存者はたったの1,023名であった。第二次世界大戦において、唯一、米軍の死傷者が、日本軍のそれを上回った戦場でもあった。

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