『隔離の壁をこえた白球』

2025.09.26更新

報道・情報

第34回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品(制作:テレビ熊本)

国立療養所菊池恵楓園 選抜野球チーム『オール恵楓』

『隔離の壁をこえた白球』

<10月3日(金) 26時45分~27時45分>

ハンセン病患者の野球にかけた青春と情熱

全国に13ある国立のハンセン病療養所では、1930年代から60年代にかけて、野球が盛んだった。国による強制隔離政策で生じた差別と偏見に苦しみながらも、患者たちは野球に希望を見いだしていた。社会から隔絶された暮らしにおける人権回復の闘いの歴史と、療養所の外に遠征までしていた野球チームの戦いの秘史をひもときながら、病苦を超えて、生きる活力を求めた患者たちの青春と情熱を見つめる。

病苦を超えて、差別や偏見と闘いながら白球を追ったハンセン病患者たちの青春と情熱

熊本県合志市にある国立療養所菊池恵楓園では、患者の無断外出を防ぐため、1929年にコンクリ―ト塀「隔離の壁」が構築された。その翌年から野球が盛んになり、患者3チームと職員1チームのリーグ戦が始まった。やがて園に新しい野球場ができると、高校や自衛隊などの野球部が訪れ、園内選抜チーム『オール恵楓』が相手になっていた。1952年9月、『オール恵楓』は初の県外遠征に出発した。目指すは鹿児島県の星塚敬愛園。トラックの荷台に布団を敷いて揺れに耐え、途中で警官には「らい患者は山の中を行け」とさげすまれた。約12時間かけて到着し、1週間滞在して「オール敬愛」と4試合を戦い、その後も交流は続いた。メンバーだった田中照幸さんは「満塁ホームランを打った」と懐かしく振り返った。

『オール恵楓』メンバーだった田中 照幸さん

高校時代に東日本遠征を敢行した太田 明さん

入所者自治会副会長の太田明さんは、1952年、小学2年生のときに入所し野球を楽しんだ。園の分校を卒業後、岡山県にある、患者のための『邑久高校 新良田教室』に進学し、野球部へ。そして1960年8月、野球部の仲間とともに約1カ月かけて、東日本5カ所の療養所を巡る遠征を敢行。太田さんは「あんな痛快で、開放感を味わったことはなかった」と語った。太田さんは園内で野球が盛んだったことを知ってもらおうと、2023年に『オール恵楓』の復刻ユニホームを作り、園の隣に開校した中学校の野球部と50年ぶりのキャッチボールを楽しんだ。
園内の野球場はコロナ禍で使用されなくなって老朽化が進み、2024年に取り壊された。跡地の活用について、入所者自治会は合志市や国と話し合いを重ねていた。2025年5月、12年ぶりに熊本で開催された「ハンセン病市民学会」の中で、合志市長は「跡地を少年野球場として、整備する準備に入った」と発表。かつてハンセン病患者たちが差別と闘いながら汗を流し、白球を追った野球場は、生まれ変わる時を待っている。

コメント
ディレクター・池島勇三(テレビ熊本 報道部)

「2002年に初めて菊池恵楓園の野球場を訪れ、園内選抜チームの鹿児島遠征を知った瞬間、まるで心臓が早鐘を打ったようになったことを覚えています。この時、ハンセン病問題を野球という切り口で捉えるという構想が生まれました。全国の療養所の入所者は減り、若い世代はかつて患者と家族に苛烈な差別があったことを、結婚しても子供を産み育てることを許さないという著しい人権侵害があったことを知りません。療養所で生きてきた人たちは、患者である前に1人の人間であり、私たちと同じようにスポーツに汗を流しました。この事実を認識した時に初めて、私たちは差別と偏見がいかに愚かなことかと理解できるのではないでしょうか。20年余りの間で、取材に応じてくれた方たちの多くは亡くなりましたが、差別を蹴散らかす勢いと行動力、ユーモアたっぷりの生き生きとしたエピソードの数々、過酷な人生を生き抜いた姿を広く知ってほしいと思って制作しました」

【番組概要】

第34回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『隔離の壁をこえた白球』(制作:テレビ熊本)
≪放送日時≫
10月3日(土) 26時45分~27時45分 ※関東ローカル
≪スタッフ≫
プロデューサー : 古閑康弘(テレビ熊本)
ディレクター・構成 : 池島勇三(テレビ熊本)
編集 :可児浩二(TKUヒューマン)
撮影 : 古江智宏(TKUヒューマン)、森﨑義久(TKUヒューマン)、原 良太 (TKUヒューマン)、立山秀登
ナレーション : 寺田菜々海(テレビ熊本)
朗読 : 西村勇気(テレビ熊本)

掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。