2024.10.11更新
報道・情報
真理子が亡くなる4日前に撮影された動画より
左)同級生の花田洋子、右)大﨑真理子
<10月18日(金) 26時25分~27時25分>
23歳という若さでこの世を去った画家、高知県出身の大﨑真理子。亡くなる4日前に撮影されたという動画には、同級生と無邪気に踊る姿が残されていた。絶筆『あの日のユンボ』が完成するまでの過程には、1人の画家の苦悩と再起の足跡が凝縮されていた。彼女が追い求めていた「見えるものと見えないもの」とは。緻密さと情熱をもって作品に向き合ったその素顔を、恩師や友人、母親らの証言からひも解いてゆく。
1本の短い動画があった。音楽に合わせて踊る2人は大学院で油絵を学ぶ同級生。うち1人は、その動画を撮影した4日後にこの世を去ってしまう。23歳という若さだった。
高知県土佐市出身の大﨑真理子。母校の高校には、美術部の後輩たちから『ハンガーの絵』と呼ばれている彼女の作品が、今も飾られている。そして、大学に進んだ真理子は卒業を前に、縦2.5メートル橫4メートルという巨大な油絵を描き上げる。その絵は学内最高位の“京都市長賞”を受賞し、彼女は大学を首席で卒業するが、その後一転して、真理子に異変が。大学院に入った途端、彼女は絵が描けなくなってしまったのだ。「燃えつきてしまったかのようだった」と振り返る大学時代の恩師。そこから真理子の苦悩の日々が始まる。
制作現場で疲れ果てて眠る姿がよく見かけられたという
大学2年の頃の真理子
大学内の真理子の制作現場
真理子の絶筆となった『あの日のユンボ』は、彼女が慣れ親しんだ京都の桂川を描いた作品。河川敷に残された1台のショベルカー、ユンボを淡いタッチで表現した油絵だが、絵が完成するまでの過程には、1人の画家の苦悩と再起の足跡が凝縮されていた。真理子が抱えた“描けなくなった時期”とは何なのか。母親や恩師、友人らが、真理子の最期の数カ月を語る。
2018年2月。彼女の突然の死の一報は、1本の電話で母親の元に届いた。自宅の浴槽で亡くなっていた真理子。溺死のように見えたが、死因は不明だった。大きな衝撃となった彼女の死は、ある女性の人生に大きな影響を与えていた。真理子とは中学時代からの親友だったというその女性は、真理子の死をきっかけに公務員を辞めてしまう。もう1度芸術と真剣に向き合おうという思いを強くした彼女は、難関東京芸術大学の受験を決意する。彼女が語る真理子の存在とは。
番組のナレーションは、真理子が亡くなった年齢にほど近いタレント岡田結実。
「大﨑真理子との出会いは、2023年8月のことでした。高知市の小さな映画館で上映された1本のドキュメンタリー映画。真理子の死後、故郷で開かれた彼女の個展を中心に撮影されたものでした。緻密な描写と大胆な色使いの作品の数々は、私の“脳”をわしづかみにしました。そして23歳で急逝という衝撃の事実は、私の心を大きく動かし、私はその足で監督に“彼女をテレビで描きたい”と願い出ました。母親の元を訪ねると、自宅の離れに彼女の作品が数多く眠っていました。ユンボを描いた油絵が何枚もあり、彼女の最期の執念がひしひしと感じられました。母親から預かった真理子の資料は、アルバムだけでも6冊、さらに彼女の友人たちから次々と写真や動画が寄せられました。“彼女の生きた証をぜひ描いてください”。皆が口をそろえたその言葉に、私は背中を押されました。こんな女性がいたのだとうことを、少しでも多くの人に知ってもらえれば幸いです」
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