2024.07.31更新
報道・情報
藤井直伸記念大会 記念の盾には日本代表ユニホームを着た藤井さんの姿
<8月7日(水) 25時30分~26時30分>
バレーボール元日本代表のセッター藤井直伸。小さな海辺の町で育ち、努力を積み重ねた。大学時には東日本大震災で実家が被災し、家族を支えるためバレーを断念しようとしたこともあったが、周囲の助けで練習を続け、代表まで上り詰めた。
「希望の星になりたい」地元で誓った通り東京五輪でも活躍。さらなる高みを目指そうとしたとき、ガンが判明した…。闘病を続け、最期までプレーを諦めなかった1人のバレーボーラーの生き様を追いながら、遺(のこ)したものをたどっていく。
「やったぞ!藤井さん!」バレーボール男子日本代表がパリ五輪への出場を決めた日、喜び合う選手の中心には藤井直伸のユニフォームがあった。セッターとしての藤井を知らなくてもそのシーンに見覚えがある人は多いだろう。
宮城県石巻市にある海沿いの町に生まれ、運動部がバレーボール部しかない地元の中学校でバレーを始めた藤井。中学校には体育館がないためグラウンドで練習し、日が暮れると近くの小学校の体育館を借りて夜遅くまで練習を重ねた。高校進学後には大きなケガも経験したが、病室のベッドでもボールを手放さず、その後の飛躍につながるトスを磨いた。
インタビューに応じる藤井直伸さん
所属する東レアローズに病状を報告する藤井直伸さん
彼の人生を語る上で欠かせないのが、逆境とそれを乗り越える力だ。どんな状況でもくさらず努力を続ける姿勢は、指導者の心を打ち、チームの団結を生んだ。その姿勢はプロになっても、日本代表になってからも変わることはなかったという。
藤井を知る指導者は「今はSNSや動画サイトで得られる情報が多すぎて、早い段階で夢を諦める子供たちが多い。藤井のことをもっと知ってほしい」と話す。
懸命にバレーボールに打ち込んだ不屈のセッター。わずか31年の人生は、成功だけでなく多くの挫折に満ちていた。だからこそ、その周りにはいつも多くの人の姿があった。
番組では元日本代表セッターという肩書だけでは語れない1人の青年の人生と、彼と関わってきた人たちを通じて、一日一日を大切に生きる意義を問いかけていく。
東日本大震災で傷ついたふるさとの希望の星になることを誓った藤井が遺(のこ)したものとはー
闘病中に東レアローズを訪問する藤井直伸さん
「心はひとつ」のメッセージが掲げられた藤井直伸さん追悼試合
「私も藤井さんと同じ石巻市出身でバレーボールをしていました。スポーツ部のディレクターをしていたとき、藤井さんと知り合い、2017年から取材を始めました。取材中でも食事の席でも、気さくに接してくれる明るい人柄。同郷の縁もあり、藤井さんを取材できたことはこの上ない喜びでした。報道部に異動し、触れた訃報。お別れの会には500人以上の人が参列しました。華やかな活躍の裏には多くの努力と縁を大切にした生き方があったと聞き、彼の歩みを知ってもらいたいと、今回の番組制作を始めました。制作にあたり、これまでの映像を見返すと“一日一日を大切に過ごす”と繰り返し話していたのが印象的でした。東日本大震災の経験から“明日が来ることは当たり前ではない”と強く意識していたのだと思います。努力は報われるとは限りません。ですが、諦めずに道を開いた藤井さんの生き方を、この番組を通じて多くの人に知ってほしいと願っています」
掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。