2023.09.13更新
報道・情報
手を取り合う濵田武男さんと岩永千代子さん
<9月20日(水) 26時55分~27時55分>
78年前の1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾の影響に、今も苦しんでいる人たちがいる。被爆者、そして“被爆体験者”だ。原爆投下時、国が定めた被爆地域の外にいた人を、国は被爆者と認めず“被爆体験者”と呼んでいる。明確に区別した上で、「放射線の健康への影響は一切ない」と断定している。「不合理だ」。約20年前に声を上げたのが、岩永千代子さんだ。今年、87歳になった。なぜ岩永さんは訴え続けるのか・・・。
長崎県長崎市に住む岩永千代子さん(87)は、78年前の1945年、9歳の時に、現在の長崎市深堀町(爆心地から10.5キロ地点)で原爆に遭った。直後から、歯ぐきからの出血や顔の腫れなどの症状が現れた。50代の時には甲状腺異常が見つかった。今も、不眠症や手のしびれなどさまざまな病に悩まされている。
しかし、岩永さんは被爆者ではない。“被爆体験者”と呼ばれている。被爆者には「医療費無料」「手当支給」などの国の援護があるが、“被爆体験者”は医療費支給の対象が一部の疾病に限られていて、大きな格差がある。なぜ対応が違うのか。“被爆体験者”について、国が「原爆放射線の影響が一切ない」と断定しているためだ。
国は、原爆投下時に爆心地から半径12キロ圏内にいながらも、「被爆地域」の外だった人について、被爆者と認めず“被爆体験者”としている。「被爆地域」は、南北に半径約12キロ、東西に半径約7キロだ。縦に長い、いびつな形をしているのは、当時の行政区域を基に国が定めたからだ。
「本当に被爆体験者には放射線の影響はないのか」岩永さんは、独自で“被爆体験者”への聞き取り調査を開始。多くの人が原因不明の疾病を抱えていることが分かった。「遺言として言っておく。私の病気は原爆のせい」そう言って亡くなっていった人のことを今も忘れられない、と岩永さんは言う。
2007年、岩永さんたち“被爆体験者”は、国などに対し、被爆者認定を求めて裁判を起こした。最高裁まで争ったが、「低線量の原爆放射線が健康に影響を及ぼすという科学的知見は確立されていない」などとして敗訴。納得できない岩永さんは2018年に再提訴。裁判は現在も続いている。岩永さんは原告団長を務めている。
体が弱り、歩くことすらもままならない岩永さんをいつも隣で支えるのが、同じ“被爆体験者”の濵田武男さん(83)だ。裁判が長引き、被爆者に認められないまま“体験者”としてこの世を去った姉・フミ子さんや、仲間たちの思いを背負っている。そして何より、20年近く先頭で闘ってきた岩永さんを支えたいという思いが、原動力になっている。
2人に共通しているのは平和への思いだ。「1発の原子爆弾により、78年たった今も苦しみ続けているということを知ってほしい。もう二度と、原爆を、戦争を繰り返してはいけない」2人は今も訴え続けている。
「“被爆体験者”の存在は、長崎県内でもあまり知られていません。“被爆者と認めてほしい”と訴え続けて約20年。解決に至らないまま、平均年齢は84歳を超え、人数は6000人を割りました。この番組を制作したのは、被爆地のメディアの一員として、岩永さんや濵田さんの訴えの根底にある平和への思いや、“核兵器を二度と使ってはいけない”という強い願いを多くの人に届ける責務があると考えたからです。主人公の岩永千代子さんは87歳。裁判以外で外出することはほとんどありません。そばで見ていると、彼女は人生全てをこの活動に費やしているように見えます。1人でも多くの方に、彼女の言葉に触れていただきたい。原爆が生んだ苦しみ、現代社会にもつながる“分断”の問題について知っていただきたいです」
原爆に遭った瞬間について証言する岩永千代子さん
長崎地裁前で「被爆者と認めてほしい」と訴える被爆体験者
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