2022.11.01更新
報道・情報
無言館館主・窪島誠一郎氏
<11月8日(金) 27時25分~28時25分>
長野県上田市の美術館・無言館には先の戦争で犠牲となった多くの画学生の画(え)が展示されている。この中に自分の妻を描いた2枚の画がある。「静子像」と「裸婦(デッサン)」だ。作者は佐久間修(熊本県御船町出身)。太平洋戦争末期、生徒を引率した学徒動員先でB29の空襲に遭い命を落とした。29歳だった。番組では、最愛の妻と子を残してこの世を去った佐久間の軌跡(2枚の画の制作秘話)とともに戦没画学生の知られざる青春群像を描き、戦争の不条理さを考える。
長野県上田市にある私設の美術館・無言館には、先の戦争で犠牲となった多くの画学生の画が展示されている。この中には、同じ作者によって描かれた2枚の画がある。「静子像」と「裸婦(デッサン)」だ。作者は佐久間修、自分の妻を描いたものだった。佐久間は、太平洋戦争末期 空襲に遭い被弾、この世を去った。29歳だった。
遺された佐久間の妻・静子と2人の子どもは戦後をどうやって生き抜いたのか。いつも傍らにあったのがあの「静子像」と「裸婦(デッサン)」。心の支えだったという静子をモデルに描いた佐久間の画は瑞々(みずみず)しく観(み)るものを新鮮な気持ちにさせるのは、なぜなのか。この疑問から番組のリサーチは始まった。
佐久間は熊本県御船町出身で、教育者の家の長男として育てられた。昭和9年、東京美術学校(現東京藝術大学)へ進み油画を学んだ。妻の静子と出会ったのはその頃。佐久間は卒業を待って、静子との結婚を認めてもらおうと実家の両親に相談。答えはノー、「2浪して東京の学校まで出してもらいながら、今度は好きな女性と結婚とは虫が良すぎる」と、これが親の言い分だった。茨(いばら)の道を歩む佐久間と静子だったが、両親は佐久間の情熱にほだされ結婚を承諾した。昭和15年に結婚、佐久間は大阪で美術教師の職を得た。やがて子宝にも恵まれた。その頃、佐久間が静子をモデルに描いたのが「静子像」と「裸婦(デッサン)」だった。幸せを象徴するかのような2枚の画だったが、そんな暮らしは長くは続かなかった。
終戦末期になると学徒動員が本格化、旧制中学で美術教師をしていた佐久間は男子生徒300人を引率し長崎県大村市の飛行機工場へ向かった。運命のその時は、昭和19年10月25日にやってきた。 B29の大編隊が来襲、佐久間は生徒に退避を呼びかけながら被弾、還らぬ人となった。
番組では、妻への愛に満たされた佐久間の画の軌跡を取材。戦争で犠牲となった若い画学生たちの画に秘められたそれぞれの青春群像を描きながら、日常の有難さと平和の尊さを考える。
無言館(長野県上田市)
展示されている戦没画学生の作品
「愛する妻をモデルに描かれた瑞々(みずみず)しい2枚の画(え)が私の目に飛び込んできたのは、平成9年の無言館の誕生を特集した美術雑誌でした。しかも、その画の作者は熊本出身ということで大いに興味が湧き、このテーマとの付き合いが始まりました。
佐久間さんと静子さんの幸せな日々はわずか10年足らずでしたが、それを象徴する2枚の画を見ると、2人の愛は深く濃密だったと推測できます。静子さんは生前、デートで行ったコンサートのパンフレットをもう一つの形見に大事に持っていたそうです。
そんな2人の恋路を奪い、画を描くことを奪った非情な戦争。戦争は歴史上の出来事に片付けられがちですが、今ロシアのウクライナ侵攻がリアルタイムで伝えられ、私たちは悲惨な現実を見せつけられています。番組では戦没画学生の残像に触れながら、命を輝かせていたあの頃の青春群像を描きました。私の心に沸々と湧いてきたのは、繰り返してはならない戦争、平和への祈りでした」
掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。