日本:東日本大震災
 
被災地の子どもたちを取材して   中野 美奈子

 「地震から半年たった今も、街の中の瓦礫は片付けられていません」
これは3月11日の翌日に、長野県で行われる予定だった「ハイチ取材現地報告会」の原稿の一節です。まさかこれを、この日本で使うことになるとは予想だにしませんでした。
 「想定外」。何度も使われた言葉ですが、これ以外の言葉は3月11日のあの日見つかりませんでした。


 私が最初に東日本大震災の被災地に入ったのは震災から1ヶ月ほどたったころで、発生直後に現地入りした先輩からは、「テレビで映し出される以上の惨状だ」と聞いていましたが、実際に仙台空港の上空から見た町は、美しい海岸の景観などすべてが変わり果てていました。この状況で、どこまで被災地の皆さんの本音を聞き出せるだろうか、多くのメディアが押し掛け取材疲れしていないだろうかなど、いろいろな不安が心の中に去来していました。

 

話を聞く中野アナ 被災地へは4月に続き、『トクだね!』で放送するFNSチャリティキャンペーンの番組の取材で6月に1週間入りました。
 どちらも被災地の現状報告というよりは、子どもやその母親に焦点を当てた取材でしたが、子どもたちはなかなか本音を話そうとしてくれないし、震災のことはあえて口にしないという家庭も多かったように感じました。

 

 あるお母さんは目に涙をためながらこう話してくれました。
「避難所でお絵描きができる環境が整い、子どもたちが絵を描かいたことがあります。そうしたら自分の子どもだけが画用紙いっぱいに真っ黒の色で塗りつぶして…。あの子のお兄ちゃんは8歳ですが、津波から逃げるときに、あえて街が流されていく様子を高台から見せたのです。これは後世に伝えなければいけないと思って。でも将来お兄ちゃんの心に傷が残ったらどうしよう、と…。私は間違っていたのでしょうか?」

 

 正直なところ、私はどう答えていいのか分かりませんでした。ちょうどそのときに、阪神大震災を経験した兵庫県警の女性警察官の方が、優しくお母さんにこう声をかけたのです。
「子どもは大人が思っている以上に現実を理解していますよ。お母さん、大丈夫です。お兄ちゃんは責任感が強い子に、弟さんも絵を描いて怖い思いを吐き出すことで現実を理解しようとしているのです。お母さんは普通通りにしていてくださいね」
 この言葉は避難所にいたお母さんたちだけでなく、我々取材チームにも安心感を与えてくれました。被災地の方々も、そして私たちのだれも経験したことがない未曾有の事態に、何をすればいいのか分からなくなっていたようです。

 

 確かに子どもたちはしっかりとこの現実を受け止めていました。
 取材した宮城名取市の幼稚園児の渚ちゃん(5歳)は、お友達2人を津波で亡くしました。お葬式の前日、お母さんは渚ちゃんに「最後のお手紙書いて上げようね」と言ったそうです。
 翌日、お葬式の時に持って行った手紙には、男の子が一人きりで無人島にいて、大きなおにぎりを持っている絵が描かれていました。
「津波に流されて島についたけれど、お腹かすいたらかわいそうだから、大きいおにぎりにしたよ」
 そして、その隣には「ずっと、なぎの心の中にいるからね」の言葉…。
 それを見てお母さんもおばあちゃんも涙が止まらなかったそうです。こんなにも子どもたちは現実を理解し、そのなかでも明るく生きて行こうとしていることに、「自分たちも頑張らなければと励まされた」と語っていました。
 渚ちゃんの家庭では日常的に地震の話が交わされていました。
「あのおうちのおじいさんが亡くなったよ」とか、「津波で何人もいなくなった」など地震のニュースや話題にあまり触れさせない家庭が多いなか、意外なほどオープンでした。ふとあの女性警察官の言葉が思い出されました。
「普通にしていてくださいね」
 日常通りに生活することがやはり大切なのかも知れない。子どもたちの屈託のない笑顔を見ていたら、そんな気がしてきました。

絵 こんなこともありました。
 渚ちゃんが一番仲良しで、被災地から大阪に避難している、よりちゃんという女の子に会いに行った時のことです。こちらの家庭ではほとんど地震の話はせず、テレビも見せていないということでした。
 よりちゃんと一緒にお絵描きしていたら突然、大好きな渚ちゃんの足元に青色のクレヨンで津波を描き始めたのです。そばにいたお母さんは「今までこんなことはなかったのですが…」と不安な表情を見せます。
 後に精神科医の先生に取材したときにその話をしたら「それは皆さん(取材チーム)が行ったからですよ」と一言。 ドキっとさせられた言葉でしたが、取材チームが来たことで子どもなりに、
「あっ、お母さんがこの人たちを家に入れたということは、もう地震の話をしてもいいんだ。聞いてもらいたい」
 という「心の声」の表れなのだそうです。
 確かに津波の絵を描いている時のよりちゃんは、悲しいというよりは、「誰かに聞いてほしい、あの経験を共感してほしい」という、訴えかけるような表情でした。心の中の思いをなかなか言葉では表現できない子どもたちにとって、絵や遊びなど日常身近にあるものを使って吐き出すということは、今はとても大切なのだと実感しました。

被災地と子供 今回の震災では多くの幼稚園や学校が津波で流され、再建する見通しが立っていない地区もあります。このため、よりちゃんもそうですが、被災地から子どもが消えつつあるという現実があります。
 しかし被災地の子どもたちを取材して、この悲しい経験をした子どもたちはきっと強くなり、この街を復興させていく原動力になる、という思いを抱きました。そのためにも、子どもの声が街から無くなってはいけないのです。

 

 まだまだ震災以前の状態からほど遠い被災地の現実。1ヶ月、3ヶ月、半年、そして、すぐに1年…。震災後、あれから何ヶ月という特集をテレビや新聞で何度も見ましたが、決して「区切り」をつけたり、報道することを止めてはいけないとも思いました。
 子供たちがまた以前の日常生活を送れるようになるために、被災地の幼稚園から子どもたちの笑い声が再び聞こえるようになるまで、私たちは被災地の現状を伝え続けなければならない、と強く思います。

“幼稚園の再建”は復興の礎   情報制作センター:島野 平

ようちえん 震災から2ヶ月がたとうとしているゴールデンウイーク明け。取材は、岩手県から宮城県の沿岸部で、被害の大きかった幼稚園を訪ね、話を聞くことから始まりました(当事、福島県は原発事故の問題で立ち入ることが難しかった)。

 

 「子供たちが津波ごっこをする」「近しい人を亡くした子供がふさぎ込んでいる」。どこかで目にし、耳にした情報を頭の片隅に向かった幼稚園で出会った子供たちは意外にも、もちろんそれぞれに複雑な状況を抱えながらも、明るく、元気な様子で生活していました。

 

 しかし、その一方で予想もしなかったことが起きていました。 子供たちが、一人、また一人と町を去っていたのです。

 

 考えれば当然のことです。育ち盛りの子供にとっての1日1日は、大人のそれよりも大きな意味を持ちます。「何もかもがなくなった町で、まともな子育てはできない…」。子供の教育環境を優先し、いち早く故郷を後にした親たちは少なくありませんでした。

 

幼稚園帽子 何もなくなった町から、さらに子供たちが消える…。それは、本当に恐れるべき事態だと感じました。5年、10年後、町が復興を果たしたとしても、その町の未来を担う「人」がいない。 「幼稚園が復活しなければ、この町に未来はない…」。
そう語る幼稚園の先生たちの言葉に、「この町は本当に復興できるのだろうか」という疑問を感じざるを得ませんでした。

 

ようちえん 今回、番組で取り上げた幼稚園以外にも、多くの幼稚園が早期の再建を望んでいました。しかし、残念ながら震災から7ヵ月が経った今も、その状況はあまり変わっていないという話も聞こえてきます。被災した人が、家族が、そして町が、本当の意味での復興を果たすためには、幼稚園の再建は、いち早く取り組まなければならない課題の一つであることは間違いありません。

 

 被災地で出会った人たちは皆、本当にすてきな人たちばかりでした。避難所では、段ボールの仕切りの中で、「こんな場所で申し訳ないが…」と言って、お茶をいただきました。取材した園児のお宅では、決して十分でない支援物資で生活する中で、ご飯をごちそうになりました。もちろん、被災地を取材する者として、それに甘えてはいけないのですが、こんな悲惨な状況のなかでも、他人を気遣うことのできる人たちに、本当に頭の下がる思いでいっぱいでした。

 

「こんなすてきな町を、故郷をなくしてはいけない」。その思いを強めると同時に、未来を担う子供が安心して成長することのできる町を、早く取り戻さなければいけないと思うのです。