「これ以上は無理です」
この言葉が、常に我々取材陣の前に立ち塞がりました。
今回の取材対象は大きく3つに分類できます。
街、病院、子どもたち。街と病院ではこの国が抱える問題点の現象面を見つけ出す作業で、子どもたちの取材はおもに、逞しく生きる人間ドラマを描くためでした。
困難を極めたのは、主に街の取材でした。
日本の取材では、通常、街で歩きながら面白いモノを発見し、徹底的に追跡して、揚げ句の果ては家の中まで上がり込んでしまうという手法が定石です。
しかし、この国ではまったくその手法は通じませんでした。
実は、今回の取材、「シエラレオネで最も貧しい人」を取材したかと言えば、そうではありません。最も貧しい人のちょっとだけ上にいる人が取材対象になっています。
では「最も貧しい人を取材しなかったのはなぜか?」。
それは、取材しようと試みましたが、「不可能」だったからなのです。
私達は、ストリートに生きる逞しい子どもたちの姿を描きたいと思っていました。
しかし、いわゆるストリートチルドレンと言われる子どもたちをカメラで捉えることは不可能でした。
社会的弱者である彼らは、集団で生活し、互いに身を寄せあって暮らしています。日中はゴミ拾いのような浮浪者同然の生活をし、夜は屋根のない廃墟やマーケットの机をベッド代わりに寝ています。
そんな子どもたちが10万人以上この国にはいて、その多くに親がいるといいます。
「貧困」により「子を捨てる」または「親を捨てる」という現象が顕著に起きているのです。私はなんとかそうした彼らの生き様をカメラに収めることこそがこの国の貧しさを象徴する映像になると思っていました。
しかし、現地のユニセフがこの取材を許可しませんでした。
「危なすぎる」との理由からでした。
貧しくて食べるものがなく、生きるか死ぬかの毎日を送っているストリートチルドレンにとって、取材とは単に、「高価なカメラをぶら下げた集団」に過ぎないのです。
援助もへったくれもありません。
彼らにとって重要なのは「今日という日を生きること」。
もし、取材をしようものなら1千万円近い機材はたちまちに盗まれてしまったことでしょう。私たちの身の安全すら危うかった可能性もあります。
しかし、まさにこれが「貧困」の実態です。
「毎日を生きるためだけに過ごす子どもたちの姿」こそ伝えるべき貧困の姿でした。
今回の取材では、ランサナという鉱山で働く13歳の少年に出会いました。
彼は言っていました。「自分はまだ鉱山で仕事があるからマシな方だ」と。「鉱山がなかったら、街へ出て盗みをしたり、物乞いをしたりして生きていかなければならない」と。
今回の取材では描けなかった“最も貧しい”シエラレオネ共和国の実態。
放送をご覧になった方には、ディレクターとして恥ずかしい言葉ではありますが…、「こんなものじゃない」と伝えなければなりません。
担当ディレクター 渡邊貴