FNSドキュメンタリー大賞
計画から35年、いまだダム本体が着工されていない川辺川ダムの迷走ダム見直し機運の中、五木村は揺れる

第10回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『検証 川辺川ダム計画 〜子守唄の里・五木村からの報告〜』 (制作 テレビ熊本)

<8月22日(水)深夜26:55〜27:50>
 "子守唄の里"として知られる熊本県球磨郡五木村(くまぐん・いつきむら)。人口1600人余りの村は、35年間ダム建設計画に翻弄されてきた。昭和38年から3年連続で大きな被害を出した「暴れ川・球磨川」の洪水は、上流の川辺川に治水目的の「川辺川ダム」を計画させた。ダムサイトは五木村の隣の相良村(さがらむら)に造られ、貯水池に沈む五木村の頭地地区(とうぢちく)は村の中心地で、500世帯近い人たちが先祖代々の土地から移転を迫られることになった。しかし計画が明らかになってから既に長い年月がたっているが、いまだにダム本体は着工されていない…。
 8月22日(水)放送の第10回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『川辺川ダム計画 〜子守唄の里・五木村からの報告〜』(制作 テレビ熊本)は、計画が打ちだされて以来、様々な利害が入り交じり、いまだ本体着工にいたっていない川辺川ダムと、この計画に翻弄され続けてきた五木村をはじめとする流域の住民の姿を通して、「ダム」とは、「公共事業」とは何かについて考える。
 「公共事業についての国民の関心が高まり、政府与党三党による公共事業見直しが打出されたのは去年、平成12年のことです。昭和41年に計画が打出された川辺川ダムは、現在水没代替地や取り付け道路など周辺の工事が進められ、今回の見直し対象には入りませんでした。しかし、ここ数年環境保護グループなどの反対運動も強まり、流域漁協も国の補償を拒否するなど、ダムの本体着工は2年連続で見送られることになりました」とテレビ熊本の本田裕茂ディレクターが説明してくれた。

 では川辺川ダム計画がたどった紆余曲折の変遷を見てみよう。

 連続した洪水被害がきっかけになり、川辺川ダム建設計画は昭和41年に発表されたが、五木村は動揺した。村議会は一旦「ダム反対」を決議したが、村長を委員長とする村のダム対策委員会は、ダム建設もやむを得ないとした上で、要求項目を立て始める。こうした中、国・県それに村のダム対策委員会の動きに疑問を持ち始めた村民グループは、「五木村水没者地権者協議会」を結成し補償交渉を進めるが、国の補償条件を受け入れることはできず、昭和51年にダム計画の取り消しを求める裁判を起こした。
 裁判の途中、地権者協議会のメンバーは高知県の「早明浦(さめうら)ダム」を視察した。このダムは昭和51年の台風の際、想定していた量を超える水が流れ込み、当初予定の最大放水量2000t/sを大きく越える3500t/sを放水、直下の集落に大きな被害を出したとされる。水資源開発公団はこの異常放水と被害の関係を管理者は否定する。しかし、球磨川に造られている「市房ダム」でもダムの放水が洪水の被害を拡大したとみる人が多い。それは川辺川ダム計画の引き金となった昭和40年の洪水の時だ。人吉市の住民はどんどんと水位が増し浸水がひどくなる中で信じられないアナウンスを聞く。「これから市房ダムの水を放水する」というものだった。その後水位は急上昇、洪水慣れしている市民がこれまで経験したことのない水害を体験した。
 しかし昭和56年、五木村地権者協議会とは別の水没者団体が補償基準に調印、翌57年村議会も反対決議を解除、村は一気にダム建設に向かって進みはじめ、裁判闘争を続ける地権者協議会は孤立、ついに昭和59年、18年間の闘いに幕を下ろし、国は大きなハードルを越えたかにみえた。が、時代の流れにダム計画そのものが翻弄される。
 川辺川ダムの利水事業の柱である「川辺川土地改良事業」は、下流の市町村の農地に水を送り、農家の受益を高めようとするもので、計画当時水不足にあった農家にとってはありがたい事業だった。しかし、その後の減反政策や自らの努力で水不足が解消したという農家が増え、いまさら新たな負担金が生じるダムの水はいらない、という声があがりはじめたのだ。こうしたダム計画を取り巻く状況の変化で、国も計画の縮小を余儀なくされることになる。しかし計画の変更には事業対象となる受益農家の同意が必要だ。ところが、きちんとした説明なしに同意書にサインさせられたなどと不満を抱く農家が国を相手に提訴、1審で棄却されはしたが、すでに死亡している人の同意書が見つかるなど、国のずさんな事業の進め方が浮き彫りとなり原告農家は控訴した。

 一方、有明海では昨シーズンのノリの不作で、諫早湾の干拓事業の影響が取り沙汰され、川辺川・球磨川の水が注ぎ込む八代海の漁民たちが、ダムによる海への影響調査を求め立ち上がった。さらにに長野県の田中知事の「脱ダム宣言」などダムへの逆風は強まるばかりとなった。
 こうした中、本体着工への国の最後の関門である「球磨川漁協」との補償交渉が平成12年11月から始まった。ダム容認派と反対派が対立している漁協だが、2ヶ月前に改選された理事会はメンバーの大部分を容認派が占め、国との補償交渉を密室で進めていく。そして16億5000万円という補償額を引き出し、平成13年2月の総代会に持ち込んだ。組合の決定機関である総代会で認められれば、国は一気に平成20年の完成に向けた工事に着手できることになる。100人の総代(1800人の組合員の代表)による総代会は、容認派と反対派入り乱れ冒頭から紛糾、激しい怒号やヤジが飛び交う中、数に勝る容認派が採決に持ち込んだ。しかし容認派の思惑は外れ、補償締結に必要な3分の2以上の同意を得ることができず、議案は否決された。国が予定していた平成12年度内の本体着工は見送られた…

 こうした動きに納得できないのが五木村である。村長以下、村の幹部は上京し関係各所へ強力な陳情を展開する。村はいまさら後に引くことなど出来ないのだ。
 計画から35年、ダムの賛否を問うための住民投票条例制定に向けた動きが流域の自治体で起こリ始めた。たとえば川辺川・球磨川下流の坂本村だ。ここは流域19市町村の首長がスクラムを組んだ「ダム建設促進協議会」にも加入している村だが、村民側は計画以来ダム建設に関する説明がないとして、賛否を問うための条例制定の署名を始めた。上吹く風と下吹く風の違いが見え始めた…。

 「川辺川ダムの歴史を紐解くと、抵抗や反対の動きが時代に合わせて少しづつ変遷していくことがわかります。計画発表当初の水没地区住民の反対運動、利事業の対象となる流域農家、環境保護グループ、地元の漁協、ダムの水が注ぎこむ海の漁民たち、そしてダムから下流の人たちの住民投票への動きがあります。
 一方で、ダム建設を受け入れたことで村の形を変えられ、村民の移転や転出が進み、後に戻れない五木村のあせり…。
 『止められない・止まらない公共事業』が見直される時代となりましたが、『川辺川ダム』の迷走はまだ続いています」
(本田ディレクター)

 五木村で呉服屋を営み暮らしていた桑原精喜(くわはら・せいき)は、今年3月村を離れた。地権者協議会の事務局長として青春時代の全てを、ダム闘争に捧げた。これからゆっくりと、ダム問題に関する膨大な資料の整理をするという。桑原は壊される家を見据えて呟いた。
 「まだ体温が残っている気がする…」
 ダム建設とは、一体何なのか…。


<番組タイトル> 第10回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『川辺川ダム計画 〜子守唄の里・五木村からの報告〜』
<放送日時> 8月22日(水)深夜26:55〜27:50
<スタッフ> 構    成 : 香月 隆
ナレーション : 尾谷いずみ
カ  メ  ラ : 村中洋生
編    集 : 可児浩二
タ イ ト ル : 林 咲(アレンジ・ワン)
M    A : 岡山稔史(ビッグベン)
ディレクター : 本田裕茂
プロデューサー : 花田武久
<制 作> テレビ熊本

2001年8月3日発行「パブペパNo.01-264」 フジテレビ広報部