FNSドキュメンタリー大賞
アメリカの近代美術界にジャポニズムの種を蒔いたと評価されている日本人画家ゲンジロウこと片岡源次郎。
日本国内では全くと言っていいほど知られていない“幻の画家ゲンジロウ”の素顔とは?

第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『ゲンジロウへの旅』 (制作 サガテレビ)

<4月12日(水)深夜26時25分放送>
 焼物の里・有田町は佐賀県西部、伊万里湾に注ぐ有田川上流の狭い山間に位置する。言わずと知れた「日本の磁器の発祥の地」だ。黄金時代を迎えた17世紀後半から18世紀にかけて、有田焼は伊万里の港から全国各地にのみならず、長崎の出島を介して東南アジアや、遠くヨーロッパにまで広まった。言ってみれば、有田はその頃から“日本文化の窓口”でもあったわけだ。
 明治になって有田焼も九州初の法人企業・香蘭社を中心に製造、出荷・販売の近代化が進められた。その近代化の過程で、有田から海外に派遣された焼き物の関係者も少なくなかったようだ。
 第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品のトップを切って放送される『ゲンジロウへの旅』(制作 サガテレビ)は、明治の中頃に家業の有田焼の販売のため渡米したものの、途中で絵画の道を志し、画家としてアメリカの美術界にジャポニズムの種を蒔いたとアメリカでは評価されていながら、日本国内では全くと言っていいほど知られていないゲンジロウ(片岡源次郎)の足跡を追った作品だ。

 全ての始まりは、去年2月アメリカからサガテレビに届いた一通のEメールからだった。メールの差出人はコネチカット州グリニッチ在住の上住升(うえずみ・のぼる)さん。その内容は、佐賀県有田町出身の画家ゲンジロウについて分かっていることを教えてほしい、というものだった。実は上住さんは平成3年に関西テレビを定年退職し、その後、娘さんの嫁ぎ先のアメリカに住まいを移した人だった。
「グリニッチはニューヨークから車で1時間くらいのところで治安も良く、昔から多くの日本人、日系人が住んでいます。ですから博物館や美術館にも、日本に関するものが多く展示されています。上住さんはこの町で博物館の展示物の説明を和訳するボランティアをしているのですが、その活動中に『ブッシュ・ホーリー・ハウス』という博物館で、ゲンジロウの作品に出会ったそうです」
 取材に当たったサガテレビの内田信子ディレクターが説明してくれた。
「ところが上住さんは、ゲンジロウという画家のことは全く聞いたことがなく、周囲の日本人に聞いても誰も知らない。ただ佐賀県の有田出身ということは分かったので、サガテレビなら何か分かるかも知れない、とメールで問い合わせてきたのです。ところがゲンジロウのことを知る者は社内にもいませんでした。それならば、とチームを作って取材を始めたのです」(内田D)
 本格的に調べ始めたものの取材は難航した。佐賀市内では何の手がかりも得られず、有田町でいろいろ調べた結果、ようやく孫にあたる田中祐喜子(たなか・ゆきこ)さんを探しあてた。そして、取材班は初めて確認されたゲンジロウ作の油彩画を含むおよそ10点の作品とゲンジロウの肖像写真を目にすることになる。

 ゲンジロウの本名は片岡源次郎、慶応3年(1867年)に有田町で生まれた。江副家に養子に入り明治24年(1891年)に24歳で家業である有田焼の販売のために渡米したものの、途中で画家を志し、ニューヨークの歴史ある美術専門学校アート・スチューデンツ・リーグに在籍した。そして明治44年(1911年)に最終的に帰国するまでアメリカでエトー・ゲンジロウ(江副源次郎)またはカタオカ・ゲンジロウの名で、画家、小説の挿絵画家、ステージデザイナーとして活躍した。画家の道を志した時点で江副家との養子縁組を解消し、明治44年に帰国した後は東京に在住、逓信博物館(現在の逓信総合博物館)に勤務し、大正13年(1924年)57歳で結核で亡くなった。もちろん国内でも絵を描き続け太平洋画会(現在の太平洋美術会)に所属した。展覧会に出品もしているが、画壇の主流ではなかったためか、アメリカでの成功ほどには評価されていない。むしろ、画家・片岡源次郎の存在は国内ではほとんど知られていない、と言った方がよさそうだ。田中さんは、小山家の養子になった源次郎の三女・文(ふみ)の長女になる。
 ――以上が取材班が突き止めたゲンジロウの大まかな経歴だ。 

 取材班は祐喜子さんの協力を得て、アメリカで一緒にゲンジロウの足跡を追うことになった。そして彼が印象派の画家を目指して仲間たちと青春時代を過ごしたコネチカット州グリニッチやニューヨーク、フィラデルフィアを訪れた。ゲンジロウはこれらの地を拠点にアメリカ印象派の第一人者、ジョン・トワークトマンに師事し、アメリカの印象派の画家たちと交流を深めていった。こうした交流は、やがてアメリカ側の画家たちがジャポニズムの影響が色濃くみられる作品を生み出すという形で一つの結実を見ることになる。
 ゲンジロウ自身は、その日本画風の風景画、そして特に花の絵が注目され、アメリカで頻繁に個展も開催したという。さらにはオペラのマダムバタフライの舞台デザイナーを務めたことや、ラフカディオ・ハーンなどの複数の本の挿絵を描いたことが確認されている。つまり、ゲンジロウはアメリカの近代美術史に確固とした足跡を残していたのだ!
 明治期、岡田三郎助や百武兼行など佐賀県出身者を含め、ごく限られた画家がパリなどヨーロッパで絵画を学び、日本の洋画界の礎を作ったことはよく知られている。しかしこの時期にアメリカで活躍した日本人画家がいたことについて、日米美術交流史に詳しい帝京大学の岡部昌幸助教授は、
「ゲンジロウが非常に早い時期にアメリカに渡り、アメリカで生活した期間が長い点。商業美術にも手を染めている点。日本の技術や伝統をアメリカの芸術に融合させた点など、いずれにおいても興味深い。エイキンズやトワークトマンというアメリカの重要な画家たちと直接関係があり痕跡も残しているという画家はほかにはない。ゲンジロウの美術交渉史の中における位置は大変意義がある」と述べている。

 さらに注目すべきことが分かった!
「ゲンジロウの作品は田中さん所蔵の作品以外では、アメリカ側で自筆の水彩画数点、あとは本に載せられた挿絵のみしか確認されていません。ところがゲンジロウとアメリカが生んだ最も偉大な画家と言われるトマス・エイキンズとの間に親密な交流があり、エイキンズがゲンジロウを描いた肖像画が存在することが判明したのです」(内田D)
 きっかけはゲンジロウがエイキンズに送った手紙だった。その中に「描いていただいた肖像画に先生のサインがないのが残念です…」という記述があったのだ。その絵は今、一体どこにあるのだろうか?もし見つかれば、美術史上、画期的な発見になる。

 取材班はゲンジロウが帰国に際して持ち帰ったと考えられるこの絵の行方を追い始めた。その第一歩は、消息不明となっているゲンジロウの息子を探すことだ。帰国したゲンジロウは東京で生活し、家庭を持って子供も生まれた。その後は有田とは疎遠になっていったらしいが、田中さんは、幼い頃に有田で一回だけゲンジロウの長男に会った記憶があると言う。しかし、それとて50年以上前のことで、今も健在なのか、どこに住んでいるのか全く分からない。取材班は判明している長男の最後の住所・港区白金を訪ねたが、そこはマンションで、取り壊され新しく立て替えられていた。近所でいろいろ聞き回り、さらに区役所にも問い合わせるなど、あらゆる方面に手を尽くしたものの情報は得られず、半ば諦めかけていた。そんなところに一通の手紙が届いた。それは何と、探していた当の長男からだった。以前の住まいの周辺で聞き回った取材班のことを人づてに知り、手紙をくれたのだ。ゲンジロウと9歳の時に死別し、他家の養子となった長男・栄一郎氏は84歳、台東区内で健在だった!
 祐喜子さんとともに東京に急ぐ取材陣。長男の口から語られるゲンジロウの実像とは?そして“幻の肖像画”の行方は…?

 内田信子ディレクターは取材を終えた感想をこう語る。
「報道の仕事に携わっておよそ20年。佐賀のことは大体知っているつもりだったんですが、ゲンジロウの名はさすがに聞いたことがありませんでした。県内にはまだまだ私が知らない事実が眠っている。『彼のことが知りたい』という素朴な好奇心から始めた取材でした。
 ゲンジロウに関する資料がほとんどなく、また彼を知る人が日本にほとんどいないという中で取材は困難を極めました。『これは番組として成立しないかもしれない』と何度もあきらめようとしましたが、そのたびに偶然、交渉していた取材の許可がおりたり、ゲンジロウに関する新事実が分かったり…。まるで何かに導かれているような感じがありました。今では多くの日本人が海外で活躍していますが、約100年も前にこんな日本人がいたんだということを見て欲しいです」


 明治時代。キャンバスに触れることができた日本人が極めて限られ、またその研修の場がパリを中心とするヨーロッパだった頃。そんな明治24年から44年迄という日本人として最も早い時期に、しかも長期にわたって渡米し、アメリカの芸術界にジャポニズムの種を蒔いたされるゲンジロウ。国外で認められた初の日本人の挿絵画家でありステージデザイナーとなったゲンジロウがアメリカの芸術界ではたした役割とは?
 そしてトマス・エイキンズが描いたゲンジロウの肖像画は果たして見つかるのか?
 番組は埋もれた記録を丹念に掘り起こし、一人の青年の姿を通じて日米の文化交流の黎明期を浮かび上がらせる。


<番組タイトル> 第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『ゲンジロウへの旅』
<放送日時> 4月12日(水)26:25〜27:20
<スタッフ> プロデューサー  : 吉野英明
ディレクター : 内田信子
構   成 : 池田昭則
ナレーター : 押切英希
撮   影 : 平田 寛
編   集 : 徳渕正樹
<制 作> サガテレビ

2000年3月23日発行「パブペパNo.00-75」 フジテレビ広報部