FNSドキュメンタリー大賞
孤児救済のために捧げた生涯
映像で蘇るその愛の記録…

第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『日本最初のドキュメンタリー 〜石井十次・愛の記録〜』 (制作 岡山放送)

<10月11日(水)深夜26時25分放送>

 岡山を舞台に、その生涯を孤児の救済に捧げた石井十次(いしい・じゅうじ=1865〜1914)。この明治時代を代表する社会福祉事業家が、孤児たちの生活ぶりを映像(フィルム)で記録し、孤児院に寄付を募るための宣伝に使う、という実に“先駆的”な活動もしていたことはあまり知られていない。
 10月18日放送の第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『日本最初のドキュメンタリー 〜石井十次・愛の記録〜』(制作 岡山放送)は、この石井十次にスポットを当てた。
「福祉という言葉もない時代に孤児院を作り、孤児の救済に一生を捧げた十次。彼が撮影した映像を手がかりに、その功績を20世紀の終わりに再検証してみました。現代は、自由競争のもと弱者が切り捨てられる“心の渇望の時代”です。だからこそ、彼の生き様はきっと現代人の心を打つに違いない、と思いました」と岡山放送の太田和樹ディレクターは語る。

 石井十次は1865年(慶応元年)宮崎県高鍋町の下級武士の長男として生まれた。
 岡山と縁ができたのは岡山県医学校(現・岡山大学医学部)に入学した17歳の時からで、1886年(明治19年)医学校を卒業、邑久郡大宮村(現・岡山市)にあった診療所を預かり、代診することになった。その診療所の隣に大師堂があり、そこに寝泊まりしていた貧しい女性から1人の子どもを預かることになる。これが孤児救済を生涯の仕事とする十次の最初の1歩だった。
 その後十次は医学書に火を放ち、雑念を断ちきって岡山孤児院の設立に向けまっしぐらに走り始める。十次はこの時の心境を日記に次のように記している。

「6カ年学びたる医書に石油を注ぎ火を放ち焼き尽くし、全身を孤児院事業にあてり。これにより心衷に一の苦悶なく外友人の忠言を止み、全力を天命の事業に傾注することを得るに至れり」

 1887年(明治20年)十次は孤児教育会を作り、岡山市門田屋敷の三友寺の1室を借りて20人の孤児を集め学校を開く。後の岡山孤児院の前身だ。
 1905年(明治38年)東北地方が夏の冷害で稲が実らず大凶作に見舞われた。冬になり農家の貧民の飢えは凄惨を極めた。十次はその東北に出向き、6回にわたって825人の孤児を岡山孤児院に引き取っている。彼の目は岡山に留まっていなかったのである。
 やがて岡山孤児院は孤児の数が1200人に膨れ上がり、1カ月の生活費が現在のお金で6000万円も要することになった。公的な福祉制度などない時代、十次は費用のすべてを寄付で賄わなければならない。寄付は約束されたお金ではない。もしお金が集まらなければ、1200人の孤児は餓死してしまう。
 そうした寄付集めの手段の1つに思いついたのが、当時まだ珍しかった活動写真の上映だった。十次は孤児院の子どもたちを撮影した映像を持って全国を駆け回り寄付を集めた…。
「十次は当時エジソンが発明したばかりのカメラをアメリカから輸入し撮影に使いました。その映像がとにかくおもしろい。明治の日本はとても貧しく、飢えと隣り合わせでした。しかしフィルムに映った子ども達は天真爛漫で、必死に生きようとするエネルギーに満ちあふれています。見所はそこです。
 番組では十次の生き方を描く一方で、現代の映像と100年前の映像に登場する子どもたちの落差に20世紀の日本の変化を凝縮させ、21世紀への希望をつなぎたいと願いました」(太田D)

 “映像の世紀”20世紀の始まりに、「活動写真」という映像を使った十次。広報活動として使われた映像だが、100年経った今、改めて見直してみると、時代を切り取った実に見事なドキュメンタリーとして蘇ってくる。
 石井十次は日本映像史の中で、最初に現れたドキュメンタリストとも指摘できるのである。


<番組タイトル> 第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『日本最初のドキュメンタリー 〜石井十次・愛の記録〜』
<放送日時> 10月11日(水)深夜26:25〜27:20
<スタッフ> ナレーター : 左 時枝
構  成 : 鈴木昭典
音  楽 : 奥村 貢
撮影・編集 : 山崎 誠
C  G : 加藤裕理
ディレクター : 太田和樹
<制 作> 岡山放送

2000年10月2日発行「パブペパNo.00-321」 フジテレビ広報部