FNSドキュメンタリー大賞
静岡県焼津港所属の第五福竜丸がビキニ環礁沖で被ばくしてから今年で50年。
この事件は、反核運動の象徴となったものの、乗組員たちは口を閉ざしたまま、すでに半数が亡くなっている。
最近になり、当時の漁労長・見崎吉男さんが事件について語り始めた…

第13回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『漁士の決断〜第五福竜丸乗組員の50年〜』
(制作:テレビ静岡制作)


<2004年11月14日(日)4時〜4時55分>
【11月13日(土)28時〜28時55分放送】



 静岡県焼津港所属の第五福竜丸がビキニ環礁沖で被ばくしてから今年で50年。死亡者を出したこの事件は、反核運動の象徴となったものの、乗組員たちは口を閉ざしたまま、すでに半数が亡くなっている。最近になり、当時の漁労長・見崎吉男さんが事件について語り始めた。
 
11月14日(日)放送の第13回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『漁士の決断〜第五福竜丸乗組員の50年〜』(テレビ静岡制作)<4:00〜4:55>【11月13日(土)28:00〜28:55】では、歴史にほんろうされた乗組員の思いについて、関係者らの証言をもとに事件を振り返る。

<番組内容>
 静岡県焼津市に住む見崎吉男さん(78歳)は、元漁師。本人は海のサムライという意味をこめて「漁士」と書く。彼は港町焼津の花形だった遠洋マグロ漁船の責任者・漁労長をつとめたが50年前に28歳の若さで船を下りた。その船の名は「第五福竜丸」。
 1954年3月1日、第五福竜丸は南太平洋のビキニ環礁沖で米軍の水爆実験に巻き込まれ、23人の乗組員が被ばくした。半年後に久保山愛吉さんが亡くなり、日本の反核平和運動の出発点となった事件である。 
 水産食品加工の街・焼津にとって「原爆マグロ」を積んできた第五福竜丸は、いわば「厄介者」。乗組員たちは、被ばくという健康被害を受けた上、退院後も再就職・結婚の不安に加え、世間の目を気にしながら暮らさざるを得なかった。多額の被害補償金、さらには平和運動までが重荷となったという。

 事件から50年。一般社会では事件の風化が進む一方で、彼らの心の中では第二・第三の被害は決して風化していなかった。
 この事件を、今も健在の元乗組員や、生徒たちの反応を通じて見つめてきた元中学教師、かつての平和運動活動家らの証言をもとに振り返る。

【担当ディレクターより】
 私は今春まで約4年間、駐在記者として焼津市周辺の地域を担当していました。自分自身も第五福竜丸事件のことはほとんど知識がなかったのですが、毎年の関連行事を取材しているうちに、平和集会などに地元の人があまり参加しないのはなぜか、また事件の象徴とされた久保山愛吉さん以外の乗組員の皆さんは事件後どうなったのかといった疑問を持ち、番組のテーマに選びました。
 番組取材を通じて感じたのは、50年という時間の流れの「早さ」と「遅さ」。50年前の日本といえば、敗戦後の占領が終わってまだ2年。国連にはいまだ加入させてもらえず、経済的にも昭和50年生まれの私には実感がわかないほど貧しかった時代です。
 当時、行政・外交や漁業団体で方針を決める立場にあった人たちに、今からすると不人情にも、利己的にもみえる決定について「当時の決断の理由」を伺いたかったのですが、50年の歳月のなか、既に亡くなっていました。
 一方で、元乗組員の中には、「補償へのねたみ」に代表される世間の反応や、マスコミが来ることを苦痛に感じている方が少なくありません。取材に応じていただけない方もいました。50年たった今でも、元乗組員たちの心の傷は癒えていないのです。
 番組では、「被ばく」そのものよりも、「その後」に焦点を当てました。被ばくに関連した被害(その後の健康被害も含めて)については、これまで多くの機会に紹介されているものの、退院後に遭遇した第二、第三の被害はほとんど知られていなかったからです。
第五福竜丸事件は核兵器の問題ですが、被害者が周囲との関係で余分な被害を背負わされるという構図は人間の社会でたびたび見られます。
 番組を見てくださる皆さんにも、こうした問題がなぜ起きてしまうのか一度考えていただければと思います。




<ナレーション> 加藤 武
<構成> 高橋 修
<ディレクター> 亀山 貴
<プロデューサー> 長谷川 明
<制作著作> テレビ静岡

2004年11月5日発行「パブペパNo.04-351」 フジテレビ広報部