「広島高校生平和ゼミナール」の30年間の活動を追いながら、 時代とともに変わりつつある“子どもたち”の原爆や平和への思いを探っていく。
第13回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『私たちは最後の子どもになりたくない〜子どもたちの原爆30年〜』 (制作 テレビ新広島)
<9月22日(水) 午前2:58〜3:53>
【9月21日(火)26時58分〜27時53分】 |
終戦から59年経った今、戦争を知らない人々が祖父母になっている現在、広島では依然として「原爆の被害」にのみ固執している人々も少なくない。戦争体験や被爆体験は、広島でさえ、忘れ去られようとしている。
9月21日(火)放送のFNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『私たちは最後の子どもになりたくない〜子どもたちの原爆30年〜』(テレビ新広島)<2時58分〜3時53分>では、「広島高校生平和ゼミナール」の30年間の活動を追いながら、時代とともに変わりつつある“子どもたち”の原爆や平和への思いを探っていく。
(内容)
1977年、広島の高校生たちが元安川で、原爆で焼けただれた瓦、「原爆瓦」を発見した。
被爆体験を理解し平和を訴える大切さを伝えていくため、もっと活動の場を広げようと、1978年の2月に「広島高校生平和ゼミナール」が広島の高校生たちによって作られた。この高校生たちは18歳未満の生徒たち自らを“子どもたち”と名乗り、平和活動を進める。
1981年、広島市が元安川の美化工事(川床整備)に乗り出したため、“子どもたち”は「原爆瓦」を保存して、平和の大切さを伝えていこうと、発掘作業を始めた。
そして、「原爆瓦」で『碑』を作ろうという声があがり、資金集めの運動が始まった。全国各地の小・中・高校生や一般の市民から募金が寄せられ、3500万円の寄付が集まった。
そして、発掘から1年半後の1982年8月5日、「原爆犠牲ヒロシマの碑」は爆心地に近い元安川の岸辺に建てられ、除幕式を迎えた。高校生たちの平和活動が、初めて実を結んだのだ。
碑文は「広島高校生平和ゼミナール」の一人である女子高校生の作品が原案に選ばれている。
「天がまっかに燃えたとき/
わたしのからだはとかされた/
ヒロシマの叫びとともに/
世界の人よ」
この女子高校生は「元安川の瓦を探している時や募金を集めている時に“とける”という言葉を感じていた。この言葉を碑文にどうしても入れたかった」と碑文への思いを語っている。
1978年から始まった「広島高校生平和ゼミナール」は、108名の“子どもたち”が参加。このゼミナールは原爆・被爆について日常的に学ぶゼミだ。8月6日だけでなく、1年を通して平和活動をすることを目的とし、「平和」とはどういうものなのか。いろいろな面から学習をしている。
その中のひとつが「1日平和学校」だ。学習内容は、英語はストックホルムアピール(平和擁護大会常任委員会で採択。原子力禁止のアピール)を訳し、理科はガスバーナーで瓦を焼き、国語は原爆史の学習など、どれもわかり易く、面白く、その勉強が平和へと結びつくものばかりだ。こうして、1年間を通しての活動が始まった。現在も「1日平和学校」の活動は続いている。
また、堅苦しい「平和活動」をやっても、身にならないと気が付ついた“子どもたち”は、『平和への気持ち・平和への思い』のメッセージを言葉でつなぎ合わせて、自分たちで歌を作った。そして、この「ヒロシマ・スチューデンツ・アピール」をテープに吹き込み、世界11か国へ送った。『あなたの国の言葉で歌ってください』というメッセージを添えて…。
反響は大きく、米国のフォークソング歌手や各国の高校生、平和活動家などから手紙が届き、“子どもたち”にとって、手ごたえを感じる「平和活動」になった。
それから30年、活動を続けてきた“子どもたち”は、広島から全国へ、さらにアメリカをはじめ世界の子どもたちとの提携を広げていく。彼らは、自分たちの言葉で平和を訴え続けてきた。その訴え続けてきたアピールは次のようなものだ。
「私たちは最後の子どもになりたくない。
戦争はいらない
飢えはいらない
暴力や差別はいらない
私たちが欲しいのはただ平和だけ」
そして、「せこへい」。
「せこへい」は“子どもたち”の平和のシンボルだ。『世界の子どもの平和の像』のことを「せこへい」と呼んでいる。世界を平和にしようと、アメリカの少年が呼びかけたのが、きっかけだった。
佐々木禎子さんの本を読んで、「原爆の子の像」(サダコ像)に感動したアメリカの少年トラビス・ブランスコム君(当時13歳)は、1995年、6年の歳月をかけてアメリカに「せこへい」を建立した。
その翌年の1996年に広島で行われた“全国高校生平和集会・広島大会”に参加したトラビス・ブランスコム君は「世界中に『子どもの平和の像』を建てることが夢です」と訴えた。これがきっかけとなり、その呼びかけに賛同した日本全国の“子どもたち”も立ち上がった。募金活動やビラ配りをしながら、平和を訴え続け、日本で初めての「せこへい」が東京に誕生した。
広島でも、2001年8月6日に建設しようという目標が上がった。しかし、「平和の像を建てるのは本当にムダではないのか」「立てる意味があるのか」という意見に対して、誰も『建てる必要性・理由』を発言できる人がいなかった。
その背景には「原爆投下されても仕方がない」という意見が大きくなってきたこともある。“こどもたち”は、いろいろ議論を重ねた。その結果、「白黒をつけるのが目的ではなく、“これから先、原爆・戦争が起きてはいけない”という思いはみんな同じはずだ」ということに気がついた。これがきっかけで、“子どもたち”の思いが以下のアピールとなる。
「原爆投下は仕方がなかったと思う人も、
許せないと思う人も、
もう二度と核兵器を使わせないという思いでは
一致できるはずです」
このアピールがこれからの活動の考え方の基本となった。
そして、2001年、広島に念願の「せこへい」が建立された。東京に続き2番目になる。いろいろな案の中から選ばれた「せこへい」は『手をつないだ両親に駆け寄るこども』だ。(広島市民球場南側ドームの見える緑地帯に建立)
アメリカの少年トラビス君の呼びかけから6年。この像をみて、平和を考える子どもが少しでも、増えてくれたらと願って建てられた。
2003年のこどもの日には、京都に「せこへい」が完成。これで日本に3箇所の「せこへい」が建てられた。この年は長崎に全国の高校生が集まり「第30回全国高校生平和集会」が開催された。そこで“子どもたち”はそれぞれの1年間の活動を報告し、平和活動の大切さをあらためて確認した。
また、岐阜では、中学生が平和活動のなかで、「せこへい」を建立したいという、思いが強まってきている。ここでも、小さいながらも、新たに平和の活動が広がっていった。
今までずっと、被害ばかり訴え続けてきた大人たちに対して、もっと「前向きな平和」を世界に広げていこう、という“子どもたち”。この強い気持ちが、平和活動を続けていく機動力になっている。
本当の平和活動とは、なんなのか。子どもたちが発信していくメッセージを通して、平和とは何かを考えていく。
増田健太郎ディレクターのコメント
「原爆は風化していっています。大人たちは何もしなくていいのでしょうか。被爆都市として、今までずっと被害ばかり訴えてきている大人のネガティブな活動。何も感じなくなってしまった大人へのメッセージです。もっと前向きに平和を願う思いを広げていきたい、という“子どもたち”の活動を通して、『本当の平和活動とは何か。これから何をしていけばよいのか』を問いかけ、考えてもらえる“きっかけ”にしたかったのです。平和活動を続けていくことは大変ですが、どんな小さなことでもいいから行動していこうという人達がいます。小さな活動が、歴史を変えていくかもしれません」
<スタッフ> |
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プロデューサー |
: |
川上伸一(テレビ新広島) |
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: |
溝添寛伸(TSSプロダクション) |
構成・演出 |
: |
増田健太郎 |
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: |
吉田理沙(TSSプロダクション) |
ナレーション |
: |
石井百恵(テレビ新広島) |
編集 |
: |
山本憲治(TSSプロダクション) |
撮影 |
: |
中山朋樹(TSSプロダクション) |
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: |
:大原英二(TSSプロダクション) |
音声 |
: |
広瀬康詞(TSSプロダクション) |
映像 |
: |
柳谷基司(TSSプロダクション) |
2004年08月30日発行「パブペパNo.04-261」 フジテレビ広報部
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