FNSドキュメンタリー大賞
瀬戸内海に浮かぶ与島のこの20数年を追って、
ビッグプロジェクトのあり方や地域おこしのあり方とは何かを考える。

第12回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『架橋の島の大誤算〜瀬戸大橋にゆれた15年〜』 (制作:岡山放送)

<1月7日(水)2時48分〜3時43分【1月6日(火)26時48分〜27時43分】放送>
 2000年春。香川県坂出市沖の瀬戸内海に浮かぶ与島にある小学校が休校に追い込まれた。離島の小学校ではない、橋で本土とつながり便利になるはずの島の小学校だ。その島に架かる橋は、本州四国連絡橋の一つ瀬戸大橋。1兆1千億円あまりをかけて作られた本州と四国を結ぶ大動脈である…

 第12回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品、岡山放送制作『架橋の島の大誤算〜瀬戸大橋にゆれた15年〜』<1月7日(水)2時48分〜3時43分【1月6日(火)26時48分〜27時43分】放送>では、瀬戸大橋の開通に本土から来る観光客を見込み、観光産業で再び昔の賑わいを取り戻す夢を抱いていた瀬戸内海に浮かぶ与島のこの20数年を追って、ビッグプロジェクトのあり方や甘い夢に頼らない地域おこしのあり方とは何かを考える。

<あらすじ>
 1980年。与島では主要な地場産業の1つだった塩田での製塩業が姿を消すなどして、過疎に悩んでいた。瀬戸大橋はその2年前に工事を開始し、与島の住民は橋の開通によって、本土から来る観光客を見込んだ観光産業で再び昔の賑わいを取り戻す夢を抱いていた。

 そして、与島には地元自治体が広大な塩田跡地に大型の観光施設を誘致した。島に進出したのは大阪市に本社がある「京阪電鉄」。新鮮な魚料理などが味わえる約2000席のレストランや土産物店などが入居する「京阪フィッシャーマンズワーフ」をオープンさせた。

 地元の県や市は与島を瀬戸大橋観光の拠点にしようと、観光船の出入りできる港湾や道路を建設するなどして行政と民間が一体となった島おこしが始まった。観光施設誘致に大きな影響力を与えた数字の1つに、橋を架けた本四公団の「1日に2万4900台の車が通行する」という開通前の予測があった。

 1988年4月10日。瀬戸大橋が開通し、島は空前の観光ブームに沸いた。「京阪フィッシャーマンズワーフ」は年間売上げを約50億円と予想していたが、開通初年度は100億円を超える売上げを記録した。

 フィッシャーマンズワーフ開店当時に京阪電鉄から出向し、この施設を立ち上げた増田佳弘さんは「毎日人波が押し寄せていた」と当時を振り返る。増田さんの言葉を裏付けるように、1989年度の運輸白書は与島をウオーターフロント開発の優等生として大いに賞賛していた。
 
 島に観光ブームが訪れた1988年頃、日本はバブル経済のまっただ中。観光ブームによる開発の波は与島のみならず、周辺の島にも押し寄せた。与島の隣の島「小与島」では瀬戸大橋の眺望を売り物にしたホテルが建設された。さらにこの業者は島にベネチアの町並みを再現したり、水族館を作って、島を丸ごと開発する計画をぶち上げた。計画では島の住民全てを移住させて開発するものだった。

 与島の島おこしは順調に進んでいるかのように見えたが、好調の陰で不安も潜んでいた。本州と四国との間は10キロ弱の距離にかかわらず通行料金は5500円。瀬戸大橋のほぼ中央に当たる与島からは四国へは3000円。本州へは2500円と割高な通行料金の影響をもろに受けた。観光客や島の人のみならず、島にある観光施設の人たちも割高感を感じていた。
 不安は的中した。瀬戸大橋の開通ブームが去って、割高な通行料金の瀬戸大橋を避けてフェリーで本州と四国の間を行き来する車が予測を上回っていた。橋の通行台数は予測の半分以下にとどまっていた。予測を下回る車の通行台数なども影響して開通ブームに沸いた与島のフィッシャーマンズワーフも開店3年目から赤字に転落していた。与島の隣の島・小与島に建設されたホテルも苦戦を強いられ閉鎖に追い込まれた。住民の集団移転も一部が移転するにとどまっていた。

 大規模なレストランも入居するフィッシャーマンズワーフは総工費40億円をかけた施設だったが、この建物が建てられるからくりが瀬戸大橋に潜んでいた。本四公団は当初1日4万8000台の車が瀬戸大橋を通行すると予測、橋の開通前まで3度にわたって下方修正され、開通直前には「1日に2万4900台」という通行予測をはじき出していた。ところが、実際に橋を渡った車は1万台余り。予測の半分にも満たなかった。だが、この2万4900台の通行予測台数も、本四公団が借金で作った橋の償還を早める目的で通行料金を高めに設定するために低めに見積もったものだという証言もあった。本四公団は橋の開通後、さらに3度にわたって通行予測を下方修正した。通行予測ははずれ続けていた。

 本州と四国を結ぶ本四連絡橋は1960年代に計画が浮上、瀬戸内沿岸の各県が熾烈な建設誘致合戦を繰り広げた。1964年に国の実力者や瀬戸内沿岸の県知事が瀬戸内海の開発計画を話し合う瀬戸内総合開発懇談会では、時の実力者河野一郎建設大臣が、建設コスト面や技術面で優位であると見られていた瀬戸大橋ではなく、明石(兵庫県)・鳴門(徳島県)ルートの優先着工を主張した。架橋誘致合戦は過熱する余り、政治の力にも左右されていた。

 岡山県は瀬戸大橋を建設した方が明石・鳴門ルートを建設するより優位であることを主張するため、橋の経済効果を算出する際、「将来、工業用地として実現可能」だと判断した埋め立て地などを工業用地として計算し、架橋の優位性を示した。

 しかし、日本の高度経済成長神話は崩壊し、今に至ってもそこには工業団地はできていない。誘致合戦の末、国は高度成長が終わったにも関わらず、通行料金収入などで建設資金を回収する方式で瀬戸内海に橋を3本架けた。橋の通行台数の見積もりの甘さの結果、本四公団は巨額の負債を抱えて、その債務をどう処理するのかで国と本四公団に出資をした地元自治体が責任を押しつけあっていた。

 橋の利用予測は地元にも影を落としていた。2000年の春、与島小学校は過疎化と少子化の影響で休校に追い込まれた。かつて住民が夢を抱いた観光での島の活性化は思うようにいかず、島は過疎と高齢化に悩んでいた。

 そして今年1月、京阪フィッシャーマンズワーフが3月末で閉鎖する事を発表した。「島おこし」の拠点だった施設閉鎖の知らせは大きな衝撃だった。島の大きな灯が消えてしまう。島の住民の間には小学校の休校に続く悪いニュースに不安を抱いていた。

 ところが、1ヶ月後、島にグッドニュースがもたらされた。フィッシャーマンズワーフを鳥取県の建設会社「八幡建設」が買い取る事になった。4月以降も営業が継続されることになった。

 新しいフィッシャーマンズワーフは、これまで「立ち寄り型」だった施設に温泉を掘削するなどして、滞在型の施設に脱皮させようとしていた。京阪電鉄時代にフィッシャーマンズワーフを立ち上げた増田佳弘さんは、京阪電鉄を退職して後継会社の専務としてそのまま与島に残った。架橋15年の与島には厳しい現実が突きつけられたが、増田さんは「与島は宝の島であり、夢の島であるといつも言い続けていた。これからも宝の島と夢の島の実現に向かって頑張っていきたい」と島の再生に意欲を燃やす。

<制作担当者のコメント:中村哲也(岡山放送)>
 「かつて『夢の架け橋』として持てはやされた本四架橋がさまざまな影を落としている。瀬戸内沿岸各県の本四架橋の誘致合戦や建設計画を生んだ高度経済成長時代も去った。しかし、甘い需要予測の下、国は瀬戸内海に3本の橋を架けた。四国はトンネル1本の北海道や、橋1本とトンネル1本だけの九州よりも人口は少ない。
 その結果、残ったものは甘い通行予測で夢を打ち砕かれた人々や、橋を架けた時に作られた巨額の借金であった。本四架橋への甘い夢の後に訪れた厳しい現実。道路関係4公団の民営化について論議が巻き起こる中、ビッグプロジェクトのあり方や甘い夢に頼らない地域おこしのあり方とは何かを考えるきっかけになれば幸いです。」


<番組タイトル> 第12回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『架橋の島の大誤算〜瀬戸大橋にゆれた15年〜』
<放送日時> 新春1月7日(水)2時48分〜3時43分【1月6日(火)26時48分〜27時43分】
<プロデューサー> 三村公人
<ディレクター> 中村哲也
<構成> 高橋 修
<ナレーション> 野田圭一
<制作著作> 岡山放送

2003年11月28日発行「パブペパNo.03-362」 フジテレビ広報部